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第2話
お偉方の挨拶が終わると、あちこちで人が動き出し、行き交う。さながらダンスパーティーのごとき様相、ここはまさに社交場で、一人でも多くに顔を売り、人脈を作るためのフットワークを叶える立食形式だ。崇は乾杯用のシャンパンに口を付けながら、それらの様子を眺めている。見渡す限りの人々はみな楽しそうに語らっているが、ざわめきを構成する音声は一つとして明確な形で耳に入ってくることはなく、束の間、異邦人のような気分になる。
挨拶をしておきたい前担当は、現編集長という難関。こんな機会でもないと会わない作家仲間、などという絶妙な関係の同業者もちらほら見えることだし、とりあえずは彼らと情報交換でもしようか――決め込んだ見物の姿勢を崩さずにグラスを傾けていると、人と人の合間を縫って、危なげない足取りで彼は近づいてきた。両手を駆使して器用に三枚の皿を持った、鮮やかな給仕のスタイル。それを一枚ずつテーブルに置きながら、にぱっ、人懐こく笑う。
「ブロッコリーのアンチョビ和えと、トマトソースのペンネと、ほうれん草とベーコンのキッシュ。で、えーっと、こっちが鯛のポワレで、こっちがローストビーフ。ののめ先生、肉と魚どっちが好きですか?」
もちろん彼はウェイターではないし、そもそも食事はセルフサービスだ。
「いい手つきだね。レストランで働いてたの?」
「高校生からずっと、ファミレスでバイトしてました」
「なるほど」
「ののめ先生は、普段何呑んでます?」
「ビールか日本酒」
「わー、チョイス間違えたっぽい、他の取ってきます」
「いいよ、それよりきみは」
「フジマルです」
「知ってる。フジマルくんは、他に行くテーブルがあるんじゃないかな」
「え?なんでですか?」
きょとんとしないでほしい。
その整った顔を売るべきは、少なくとも自分ではないだろう。コンスタントに発表してはいるものの、執筆中のタイトルは一つ、多作や速筆のイメージなどまずないだろうしその実績もない作家に、彼を起用するような働きは期待できまい。
縦型の洒落た名刺には、全て片仮名でフジマルユキと記されている。
彼は時流によって生まれた存在だ。
巨大イラスト投稿サイトで人気を誇ってきた、冠に神がつく部類の絵師。昨年の商業デビュー以来、活動のフィールドはネット内に留まらなくなった。前号のザ・トレッキングの表紙を彼のイラストが飾ったのも、記憶に新しい。
「向こうにうちの編集長いるよ」
「知ってます」
「そうか」
「あ、もしかして」
「ん」
「俺、鬱陶しい?」
「ちょと違う」
「ちょっとかあ……」
芝居がかった仕草で首を傾げ、しばし空涙を浮かべるようにしてみせたが、すぐまた笑う。
「いいんです。俺、ののめ先生に会うために、今日ここに来たんで」
「へえ」
あの第一声は幻聴ではなかったらしい。再び、一瞬、呆気に取られる。
「ほんとです、ずっと好きだったんです」
「へーえ」
言葉にも用量や用法がある。間違えれば効き目はない。それを見事に体現してみせた彼は、ふと視線を逸らし、すいませーん、と居酒屋の大学生のような調子で片手を上げる。ワゴンを押したスタッフが通りがかるのを見つけたらしい、瓶ビールを一本調達すると、グラスを一つこちらに差し出してきた。
思い出してみると、今朝というには遅い起床だったが、起きてから何も食べていない。それ自体は珍しくなく、すきっ腹にビールが染みるのもいつものことだったが、飲み慣れた銘柄でないせいかいつもより強烈に感じる。
「フジマルくんは、本名?」
「はい。藤原の藤に丸で藤丸、んで、幸せに貴いで、幸貴(ゆき)」
「今日会うまで、女性かもって思ってた」
フォントの組み合わせで構成された人格しか知らなかった。モノトーンの風変わりな服を身に纏い、絵具をすくったような髪をした男を目の前にしてやっと、先入観に出会った感じ。クリエイターがアバンギャルドな姿をしていなければならない決まりはないが、それで言えば彼はむしろ外見と中身のギャップが小さい。ビビッドで挑発的、それでいて端整なのは、その手による絵だけではないらしい。
「わは。あ、でも俺も、いっちばん最初はののめ先生のこと女の人だと思ってました。本名だったりしないですよね?」
「ほぼ本名」
「まじで?」
「東雲崇だからね」
「どういう字?」
東雲崇、と、細かい部分は口で説明しつつ、テーブルクロスの上に指で書く。
しののめたかし→たかししののめ→高獅子ののめ、の展開作業を行っていたのだろう。しばらくして、
「おおー」
愉快そうに笑うので、種明かしをした甲斐もあろうというものだった。
指揮棒を振るように、すい、とフォークを動かして、藤丸がローストビーフをさらう。一口目で噛みちぎり、二口目で押し込むと、もぐもぐと咀嚼。なるほどまだ肉が一番うまい年頃か、と感心しつつ、崇はブロッコリーにフォークを突き立てた。
「昔は、こういうとこほとんど出てこなかったって聞きましたよ」
「ん、そうかも」
「なんで来るようになったんですか?」
「そんなこと気になるの」
「気になるっていうか。ののめ先生が昔のままのレアキャラだったら、いくら同じレーベルでデビューしてもこんなとこで会えなかったなあって思って。サイン会くらいじゃないすか、しかもそれだってレアだし」
「サイン会か、懐かしい」
「空コズの5.5巻買って、並んだもん」
「そうなの?」
「俺がまだ大学生の時でした」
「俺もまだ二十代だったよ」
集団に混じるのも、集団の前に立つのも、どちらも不得意だとその頃にはじゅうぶん気付いていた。
「なんで今まで来なかったんですか?」
「面倒だったから」
「うわー。じゃ、来るようになったのは、なんで?」
「縁というのも馬鹿にできないと言われ、そんなことわかってると答えたら、じゃあ行ってこいと」
「正論ですね」
「ん、だからここにいる」
言った方は忘れているだろうが、言われた方はいつまでも憶えているものだ。世界地図を広げて知り合いの居場所に点を打ち、それを繋げばほとんど地球を覆うようになる兄と違い、日本列島の数カ所に点を打てば終わる自分。日本の片隅に留まっているのが何かの間違いではないかと、兄が定住して三年ほど経ってもいまだに思うことがある。
「縁って、できるものだと思います?作るものだと思います?」
「勝手にできるのが理想」
「ののめ先生のことわかってきましたよ。俺、思うんですけど」
「ん」
「なんか、科学の法則の、質量保存?わかんないけど、とにかく、そういう感じで。勝手に縁ができた人の反対側には、それを作った人がいると思うんですよね。あ、日本には下り坂と上り坂のどっちか多いでしょう、みたいな感じっす」
「言いたいことはなんとなくわかる」
「つまり、ののめ先生は知らず知らず、俺との縁ができたってことです。俺のアタックが功を奏して」
「ああ、うん、そういうことか」
「やったね」
無邪気に笑うと、彼はまたローストビーフを二口で頬張り、ぐびりとビールを煽った。
藤丸という男はまるで誘蛾灯のようで、その明りに惹かれて次々に人が寄ってきた。漫画家、小説家、編集者、彼らが同伴する同業者、はたまた異業種の人々。名刺を持たない自分は受け取る一方で、気付けばその厚みは定規で測りたくなるほどになった。
数本の瓶ビールが空き、ワインボトルやキャラフェに入った日本酒がいつの間にか置かれ、会話に加わるのも面倒になってくるといよいよ呑むに徹することになる。するとまた一人、瓶ビール片手に近づいてくるのが見えた。
「僕から紹介しようと思ってたんですけど、もう必要ないですよね」
知る範囲でも十人以上の作家を担当している彼だ、一人一人に挨拶するだけでパーティーは終わるだろう。湧田がほろ酔いの笑顔でビールの口を向けるので、手近にあったグラスで応える。
「あ、それ俺のです」
「そうだっけ」
「キス、間接キス」
「うるさい」
「はは、すっかり打ち解けてる。フジマルくん、ののめ先生に会いたい会いたいってずっと言ってて、いつかセッティングしたいなあとは思ってたんですけど、なかなかスケジュールが……」
「この中だと湧田さんが一番忙しいからね」
「いやあ、僕が至らないだけです」
「だいじょぶだよ湧田さん、俺が至ったから」
「――こんなんですけど、いい子なんですよ、いや、いい子だと思いますよ」
「えー、なんで言い直したんすか」
「色んな噂、聞こえてくるからねえ」
「ただの噂だもん」
頬を膨らませて、その拗ねた唇にグラスを押し当てる。どうやらワイン党らしい。
「彼、こないだのイラスト大賞の受賞者なんですけどね」
「ん、知ってる」
「応募の課題作が、空コズだったんですよ」
「へえ」
驚いて藤丸を見上げたのだが。こちらを見下ろしてくる彼もまた、驚いている。
「あれ、知ってると思ってました」
「今知った」
イラスト大賞の課題作に自分の作品が入っているのは知っていたが、審査員でもないのに応募作を目にする機会はない。知りうる情報は読者と同じか、ページの隅々まで熱心に目を通すことがない分下回る。
「誌面でクローズアップされたのは、自由課題のほうですしね」
「俺は空コズに一番力入れました」
「いいよ、そういうのは」
「ほんとですよお」
左の耳元で喚かれる。酔っているのだろう。その藤丸の頬を必要以上にぐいぐいと押し返している自分も多分酔っているし、それを見てなぜか爆笑している湧田も、ずいぶん酔っていた。
ややあってふと会話が途切れたタイミングで、ちょっと、とジェスチャーとともに言い置いて湧田がテーブルを離れる。
「藤丸くんは?いいの?」
ピースサインを口元に近づける、喫煙の合図。横目で湧田を見送っていた藤丸が、やはり同じように長い指でピースサインを作り、口元に近づけて笑った。
「俺、吸わないんで」
「あれ、吸ってなかったっけ」
「――ああ。喋ってただけです。喫煙所の世間話って、なーんか、面白いんすよね」
「へえ」
そんな動機があるのか。喫煙所だからといって、煙草を吸わなければならないわけではないのかもしれないが、用もないのに行くような所でないのも事実だろう。確かに彼は至る側、坂を上る側かもしれない。
「ののめ先生?」
「トイレ」
急に催したのだから仕方ない。ピースではなく片手を上げて、崇もテーブルを離れた。
重厚な扉を押し開け、背後でそれが閉まると、喧騒の封じ込められた廊下は静寂にすら感じる。
「あ、高獅子さん」
白を基調とした明るく広いトイレに、声が響く。仕切り越しに声をかけてきたのは同年代の作家で、まさにこんな機会でもなければ会わない間柄の人物だ。
「ども」
「どうもです。絡まれてますね、彼に」
「ん?」
「フジマルユキ」
「ああ、まあ、絡まれてるというか」
「気を付けたほうがいいですよ」
「気を付ける」
「ええ。アマチュアの頃から、若いオタク系のコミュでは有名だったらしいですよ。近寄ってくるファン、手当たり次第だって。同人CDサークルにいた頃、出演した自称声優の子全員と修羅場ったとかなんとかで炎上してたり。コスプレイヤーとカメラマンのただれた噂はしょっちゅう聞きますけど、一括りにオタクって言っても、あるところにはあるんですよね」
湧田の含み笑いの理由が、こんなところ(男子トイレ)で判明するとは。
「詳しいですね」
「俺なんかは、半分同人作家ですから。コミケで色々見てますし」
「へえ」
「リアルBL路線か?とか思っちゃいましたよ」
「絵的に難しいと思われ」
「そんなことないでしょ、腐女子歓喜ってやつで……ってフォローするとこでもないか」
相変わらずのマシンガントークに気圧されている内に、彼は言うだけ言ったらしく、満足げな顔で去って行った。
遅れて洗面台へ戻ったが、トイレは既に自分の他にいない。
冷たい水で手を洗うついでに、眼鏡を外し、顔も洗う。思ったより酔いが回っているらしい。もっと徐々に酔えればいいと思うのに、いつも、ふとした瞬間に急に足元がおぼつかなくなる。一時の昂揚感と、遅くとも翌朝には訪れる何らかの後悔を天秤にかければ、きっと後者のほうが重いのに、それでも酒はやめられない。兄の店でもあるまいし、こんなところで腰砕けになるわけにもいかない。
戻ったら、前の担当の山科がいた。どんな話をしたっけ。懇親パーティーがその後どれくらいで閉会したのか、スピーチはどんな内容だったか、そのあたりは、もうおぼろげだ。駅まで歩くと言い張ったのは憶えている。それに付き合って、そうだ、才川と藤丸も一緒に駅までの坂を下った。別れの挨拶はしただろうか、ちょうどよく着いた電車に乗り込んだんだっけ。混み合った車内で運よく目の前が空き、直前まで誰かが座っていたあのやけに温かい座席が気持ち良いような悪いような感覚で――
はっと目が覚める。
こういう場面ではだいたい、ほんの数駅しか進んでいなかったりするものだ。
周りを見回そうとしたが、ぼやけていて何もわからない。
(眼鏡……)
伸ばした手が、何か柔らかい感触に受け止められる。
重大な錯覚に気付く。
重力の向きが思っていたのと違う、今の自分は横たわっているのだ。今、右半身と頬を受け止めているのは、たぶん、布団。
もう一度、目を凝らす。
広がっているのは、鈍い銀色と鮮やかなアイスグリーン。
南極の氷山のような、秘境の海のような、外国の不味い菓子のような、不思議な色だ。
それに、かすかに鼻腔をかすめる、このオレンジのように甘くお香のように燻された匂い。
ゆっくりと肘をついて身体を起こすと、気配が伝わったように、相手も身じろぎをしたのだと思う。
視界の大半を占める色彩がうごめき、うーん、と唸る。
「――あ、ののめ先生、おはよ」
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