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第3話
「……眼鏡あるかな」
「目、そんなに悪いんですか?」
「悪い。きみの顔もわからない」
「藤丸です」
「それはわかる」
「わー、冗談だったんだけど」
「それもわかる。で、眼鏡」
色彩がまた、大きくうごめく。
毛布がめくれて落ちたのだろう気配と、衣擦れの音。それから――
「うっわ、きっつ、くらくらする」
何をしているのか、見るまでもない。
「ん」
はしゃいだ声の方へ突き出した手のひらの上に、欠けていた身体の一部が返還された。
眼鏡をかけるとようやく、色彩は輪郭を持ち、情報となって脳へ届く。カーテンで遮られた青白い空間は、簡素なビジネスホテルなどではなかった。ペンキの塗りむらのある壁、年季の入った黒ずんだ床板、壁一面の大きな窓の他に、藤丸の頬あたりに落ちた格子状のシルエットをたどると天窓に気付く。造りの凝った、古い家だ。
「ここ」
「俺ん家です」
「立派な家だね」
「や、アパートですよ。戦前か戦後か、なんか、それくらいからあるちょー古い建物で。水飲みます?あ、コーヒーもあるよ、インスタントだけど」
「コーヒー」
はあい、と言いながら藤丸がベッドを下りる。Tシャツにスウェットでも見栄えの良い後ろ姿が、仕切りカーテンの向こうに消えていく。ここが彼の一人暮らしの部屋だとすれば、自分が今いるのはベッドの上しかないだろうことは、薄々気が付いてはいた。鼻をかすめた少しけぶった匂いは布団にも染みついているようで、彼が離れても残り続けている。
「てか」
チチチ、コンロに火が付く音に混じって、笑い声が聞こえる。
「ちょっとは驚くとかさ」
「すごく驚いてる」
「じゃあ、もっと顔に出してくださいよ。一夜の過ちがあったかもしれないのに」
電車で泥酔し、ここまで運び込まれたのだろうことは既に明白。頼れる記憶など皆無のこの状況で、さて、と身体に残る感覚を問うてみても、気だるさの理由を問い返されるだけ。空白の一夜に、どんな物語を与えるべきだろう。
「あったのか……?」
崇の独り言を拾い、ひょっこりと藤丸が顔を出す。
「あったって言ったら信じます?」
「信じるって言ったらどうなる?」
「どうする?じゃないんだ」
愉快そうに歯を見せた彼は、ややあってペットボトル片手に戻ってくると、ベッドではなくすぐ脇のソファーに腰掛けた。調度品と呼ぶにふさわしい風合いの、木製のソファだ。長い脚を投げ出し、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む。その綺麗な横顔を何とはなしに眺めていると、彼もまたふとこちらに目線を寄越し、目だけで笑った。
「迷惑かけたね」
「全然。せんせ、ぐっすりっていうかぐったり寝てただけだもん」
それが答えだった。現実はそうドラマチックではない。そのことに失望することもあれば、安堵することもある。
「それはそれで、迷惑だろう」
「俺もいつも通り風呂入って寝ただけたし」
「この服とか」
「俺のお気に入りです、似合ってますよ。せいいっぱいのおもてなし」
「いやそういう……」
着ていたはずのジャケットとワイシャツは、水色のTシャツに変わっている。コットンのズボンも同様にスウェットに変わっていて、デザインといいサイズといいさぞや自分には似合っていないだろうなと思う。触れたかったのは、状況的に協力的だったとは考えられない、この服を着させられるまでの過程についてだったのだが。
「まあいいけど」
「あ、なんで諦めたんすか」
「ん、ありがと」
言うやいなや、にぱっと笑顔になる。通じているのかいないのか。食い下がるのも妙な気がして、なんとなく、気に入りだと言ったTシャツの襟首を引っ張ってみる。
「――あ、風呂入ります?うち、昔の名残りとかで風呂だけいまだに共同なんですよね。この時間ならちょうど隙間だから、ゆっくり使えるよ」
「いや、いいよ」
「遠慮しなくていいのに」
「じゃ、コーヒー早く」
「それは、やかんに言ってください」
と言いながらも、ソファを立つ。セットされていない髪を無造作にかき上げると、銀でもアイスグリーンでもない地毛の黒がほんの数ミリ覗くのが却って不思議なくらい。耳の形まで整っているらしい、そこを飾っていたいくつかのピアスも今は見当たらない。
「ののめ先生って」
「ん」
「人の顔見すぎって言われません?」
「そうかな」
「すっごい見てくる」
「慣れてるでしょ」
「うーん、まあ。ののめ先生は、つむじの形きれいですよね。あと、奥二重の中と唇に、薄いほくろが隠れてます。右手の小指だけちょっと曲がり具合が違うのって、昔の怪我とか?」
「……ごめん気をつける」
「あ、なんでちょっと引くんすかあ」
どれも他人に指摘されたのは初めてだ。右手の小指は、まだ小学校に上がる前だったか、突き指が原因で以来確かに少し曲がっている。ほくろの目立つ顔ではないはずだし、つむじに関しては今まで考えたこともなかった。
シュンシュンとやかんが音を立て始める。
藤丸が再び仕切りカーテンの向こうに消え、しばらくすると、芳ばしい香りが漂ってきた。
カーテンを開け放つと、大きな窓からは朝陽と呼ぶには少し高くなりつつある光が射し込んでくる。眩しさに目をすがめながら、熱いコーヒーを啜る無言のひと時。
無個性な賃貸マンションとは無縁の趣ある部屋だが、いわゆるワンルームにあたる間取りはそう広くない。ベッド、ソファ、テーブル、洒落物らしく姿見、その付近に無造作に積み上げられた服。大きな本棚にぎっしり並んだ背表紙のラインナップと、パイプ製の机に設置された巨大なモニターが、イラストレーターとしての存在感を強く訴えている。
「絵はデジタルで描いてるの?」
崇の視線を辿るように首を巡らせ、それから腕を伸ばすと、藤丸は机の上からペンタブレットを摘み上げた。
「うん、ほとんどデジタル。でも、好きなのはアナログ」
「ふうん」
「応募の絵、空コズだけアナログで描いたんですよ」
「……見たいな」
「いいの?」
「きみがいいなら」
ぱっと顔を輝かせる。
昨夜、話を聞いた時から見たいと思っていた。今度見せてよ、なんて社交辞令を言う気はなかったが、偶然にもこんな状況に陥らなければ、そのことを少しは後悔していたかもしれない。椅子に跨ったままくるりとキャスターで移動し、机の脇の引き出しを漁った藤丸は、一枚のクリアホルダーを選ぶと、そこから抜いた画用紙をテーブルの上に乗せた。
B4ほどの大きさの紙には、二人の少女と一人の少年を中心に、緻密なイラストが描かれている。画面越しに見るのとも、印刷物として見るのとも違う、紙の細かな凹凸やペンの跡を直接目の当たりにする感覚を思い出す。才川のデザインとはまるで異なるキャラクターは、手足が細長く均整でいかにも今風の絵柄だが、その潮流の中心にいる人物が描けばここまで圧倒的に華やかになるのだ。
「すごいね」
素人が口にできる感想など、せいぜいこの程度。
「ほんと?」
「ん」
ヒロインの昼の人格マチネは慈愛、夜の人格ソワレは気高さに満ちている。二人の間に佇み、それぞれに左右の手を取られた、まさに両手に世界の命運を握らされた主人公チェロ。彼らの周囲を浮遊する――いや彼らが浮遊しているのか――象徴的なアーティファクトまで、一つずつ丁寧に描かれているのがわかる。
「ん、すごいよ」
「嬉しいな」
「それはたぶん、俺のせりふ」
画用紙からちらりと目を上げると、やはりというべきか、藤丸の笑顔があった。
少し面食らう。
にぱっ、と音がするようなあの無邪気な笑顔ではなく、目を細め、口角をきゅっと上げる静かな笑い方だったからだ。直観的にというか生理的にというか、神経の快い部分を刺激される。綺麗とか端正とか、枕詞のように浮かぶ感嘆の一線を越えた感覚。例えるなら自分好みの表情の上等な人形を見た時のような気持ちで、生身の人間であれ観賞価値のある相手だとこういうことも起きるのだなと、現象に対して納得と驚きの入り混じった、奇妙な、つまりは雑感と呼ぶにふさわしいとりとめのないものだった。
崇の不躾な視線に気付いていないはずはないだろう、しかし再びそれを咎めることはせず、藤丸は絵筆のような髪をかき上げて言った。
「俺ね、先生と初めて会った時」
「昨日?」
「言ったじゃん、サイン会並んだって」
「そうだった」
「その時、喋れなくて。えっと、喋れなかったっていうのは緊張とかじゃなくて。いや緊張もしてたんだけど、風邪で喉潰れて、声出なかったんですよね」
真冬だったことは憶えている。担当が変わってすぐだったか、変わる直前だったか、山科と湧田の二人が付き添ってくれていた。藤丸が来たというその日のサイン会は人生二度目で、それ以降、一度も人前には立っていない。
「ちょーひどい風邪だったんすよ、熱もすごくて。でも抽選で勝ち取った権利だし、死んでも行かなきゃと思って気合で並んで。握手してもらって、ほんとなら話せるはずだったんだけど、俺がマスク指して身振り手振りで喋れないってことだけ必死で伝えたら、先生ちょっと笑ってさ」
季節柄か、マスク率も高かったかもしれない。その中の一人が彼だったのか。上手くできなかった諸々の後悔、残った疲労感、それから事後のネットの批評、憶えているのはそういうことばかり。
自分は笑っていたのか。
しかし次に投下されたのは、にわかには信じられない言葉だった。
「声と引き換えに人間にしてもらったの?って言ったんですよね」
「俺が?」
「うん」
「そんなこと?」
「うん」
「ほんとに?」
「うん」
「……熱あったんでしょ、高熱」
「幻覚じゃないし、夢でもないし」
崇は思わず顔を覆い、ため息を吐いた。
間違いなく失敗カテゴリに入れて、消去した記憶のうちの一つだろう。
「それがずっと心に残ってたから」
藤丸は構わず、嬉しそうに続ける。
「だから、こんなふうに話せて、すごい幸せ。完全勝利な人魚姫って、こんな気分なのかなって。魔法使いから声だけぶんどって、人間のまま戻って来たぜって気分」
「……やめて」
これ以上手のひらに顔を埋めたところで、どこにも行けないことくらいわかっている。
会話とは不自由なものだ。原稿ならば何度でも書き直し、最適な表現を追求できるのに。書き損じのフレーズみたいなものが相手の心に残ってしまうのは、怖い。
「苦手なんだ」
「何が?」
「話すのが」
「けっこう言いたいこと言ってる気がしますよ」
「今まさに伝わってない」
「えー?」
無邪気に覗き込んでくる顔をぎゅうと押し返して、崇は狼狽えた鼓動を平常に戻すべく、もう一度大きくため息を吐いた。
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