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第4話

 空のマグカップを口元に運ぶ振りも三回が限界で、三度目にそれをテーブルに置いたタイミングで暇を告げる。えー、と不満そうに唇を尖らせるのに万一にも形式以上の意味があるかもしれない思わせる、この男の仕草にはいちいちそういう効力があるらしい。 「帰っちゃうんですか?」 「ん」 「まだいいじゃないですかあ」 「よくない」 「俺はいいのに」 「服、ありがと」  Tシャツを首から抜きつつ藤丸を見ると、少し見張った目と目が合う。 「なに?」 「ののめ先生、大胆」 「そう?」  さらにズボンを下ろそうとすると、 「きゃー」  頬に手をやってしなを作りながら顔を背けるのだから、いかなる状況も楽しんだ者が勝つというわけだ。ワイシャツもズボンも高価なものではなかったが、受け取ったそれらはハンガーに掛けてくれていたおかげで皺くちゃにならずに済んでいた。 「俺、こっちで着替えてますね」  キッチン側へ消えていった彼の言葉を聞き流していたことに気付いたのは、 「じゃ、行きましょうか」  玄関でなぜか二人揃って靴を履き、先んじてドアを開いた藤丸に促された時だ。 「いや、いいよ一人で」 「なんで?」  理由が必要なのか。 「一緒に行きましょうよ」 「わかった。タクシー呼んでもらえるかな」 「駅までそんな遠くないし、歩こ?もっと話したいし」  背中を押されて一歩踏み出せば、背後でガチャリとドアが閉まる。振り返った先の無邪気な笑顔に、思念に込めた遺憾の意など届く由もなかった。 「そっちです」  ちらりと見えた限りで隣に一つ、廊下を挟んで二つのドア、そして藤丸の指差す方向に階段の手すりが見える。よく磨かれた、つやのある木製の手すりだ。 「ここ、何?」  自分たちを階下に導くのは、見事な螺旋階段だった。 「アパートですって。んー、なんか、その昔は金持ちの大学生とか芸術家とか、そういう系の下宿だったみたいですけど。誰も元々は何の建物だったのか知らないんですよねえ」  ローファーの踵が、カツ、と重厚な階段に思ったより大きく響く。 「ここ風呂共同だし、壁の塗り直しとか草刈りとか大掃除とかイベント盛りだくさんだし、何かにつけて呑み会開きたがるし、町内会並みに行事多いよ。ののめ先生、そういうの苦手そう」 「ご明察」  日常の動作に感動などあるはずもない藤丸は、スニーカーの底を鳴らしながらリズム良く下りていく。一階から天井まで続く吹き抜けには大きな窓があり、いよいよ高くなった日差しがたっぷりと射し込んでくるのに、思い出したように二日酔に見舞われた発症した気がして崇はこめかみを軽く押さえた。  螺旋階段を下りきると玄関ホールがあり、やはりたっぷりと光を取り込む大きな扉が、逆光を受けて黒く浮かび上がっている。 「このへん、俺が塗ったとこ」 「へえ」  漆喰か土壁か、懐古的な趣きの壁によく目を凝らしてみれば、確かに塗り方の拙い部分があるような気もする。彼にとって楽しい記憶なのだろうことは、横顔を見れば一目瞭然だった。 「ののめ先生、こっち、ここでちょっとだけ待ってて?」  正面玄関ではなく、館内へ続くと思われる方へ手招きされ、少し怯む。 「なに」 「座って待ってて、すぐ戻るから」  ホールから廊下へ入ってすぐ、やや奥まったスペースには、テーブルやソファがしつらえられていた。共有スペースというやつだろう、アンティーク調に統一されたそこはサロンと表現したくなる風情だ。手前にあった一人掛けのソファに腰掛けた時、 「ねー」  第三者の声がした。 「なんでヒゲって生えるのかな」 「わかるー。カネザキさんおはよ、これから出勤?」 「そう、これから」  藤丸の背中越しに、今度は鮮やかな金髪が見える。 「カネザキさん、ちーちゃん見た?」 「見てない。あ、廊下の電気、ありがとって言っといて」 「自分で言えばいいのに」 「会えない場合の保険かけたの。きみは保険くん」  ちらり、とこちらへ目線をくれて、たぶん会釈したのだと思う。ので、こちらも会釈を返す。全体的に風呂上りの出で立ちの男は、じゃあ、と藤丸へ手を振って去って行った。風呂上りでこれから出勤ということは、堅気のサラリーマンの線は薄い。金髪だし。などと他人のことを詮索できた義理ではない。朝のゴミ出しくらいでしか顔を合わせないマンションの住人の間では、自分とてさぞ不審に思われていることだろう。 「ちーちゃーん」  と呼びかけながら、藤丸が廊下の奥へ消える。 「駅の方まで行くけど、なんか買うものある?」  しばらくして、二言三言、くぐもった人の声。遠のいた足音はすぐに戻ってきて、そのままひょっこり顔を出すと見せかけ、フェイントで引っ込む。 「あ、コーヒー豆は?――うん、電話しといてよ」  今度こそひょっこりと現れて、にぱっと笑う。 「お待たせしました」 「ん」 「カネザキさんはバーテンで、ちーちゃんは管理人さん」 「へえ」  三十年と少し、顔には出ないほうだと思っていたし思われていたのだが。自信がなくなりそうだ。  正面玄関の扉の向こう、外は良く晴れていた。立ち止まって振り返り、建物を仰ぐ。建てられたのは戦前と言っていたろうか、想像以上に古めかしく、洋館と呼ぶにふさわしい外観だ。新築の純白には敵うべくもないが、何十年もの間、修繕と維持に努めてきたのがわかる外壁の白。敷地を囲う低木、整った花壇、刈り込まれた芝生、小さな菜園まであり、そのどれもがやはり一見して丁寧にメンテナンスされているのがわかる。敷地の外に見慣れた駐車禁止の標識がなければ、ここが現代日本かどうかすら疑いたくなるような空間だった。いや、もう一つ、ここを現代日本たらしめるものがある。 「藤丸くん、あれ」 「あ、可愛いでしょ?自信作」 「可愛いけど」  菜園の隅に立てられた看板には、緑の髪のやや垂れ目の美少女が描かれている。軽くねめつける表情で、吹き出しには「まだダメだよ」の文字。 「グリーンボイスちゃん。茎ブロッコリーなんだけど、まだ収穫には早いんだって。俺は食べる専門だけど、たまには貢献しないとねー」  内容はともかく、見た目は商業ポスターのクオリティーだ。 「へえ……あ、紫陽花」  今度は花壇の一角に、知っている植物があっただけのこと。 「うん。俺も好き」  嬉しそうに頷かれて、思考回路を経由した言葉でないことを告白するタイミングを失う。 「咲くのは梅雨の時期だけど。あ、来月くらいには薔薇も咲くよ」  そう、と、口の中で呟いた返事は、カタン、聞き覚えのある音に消される。それから、ブロロロ、と同じく聞き覚えのある音。郵便を残して、赤い原付バイクが走り去るところだった。ポストまでぬかりなくアンティークなのかと感心しつつ、何気なく見やり、知ることとなる。プレートに刻まれた、この洋館の名はメゾン・ド・ネージュというらしい。 「雪の館っていうのか。白いから?」 「すっげー」 「え、なに」 「ののめ先生、フランス語わかるの?」 「わかるわけないでしょ」 「だって、メゾン・ド・ネージュってフランス語だよ」 「ああ、うん、それくらいはね」  翻訳業で報酬を得ている兄ではない。メゾンは建物、ネージュは雪、知っているのはその程度だ。すげー、と再び称賛され、逃げるように敷地を出たが、さて右へ行くべきか左へ行くべきか、そう言えばそれすらわからないのだった。    メゾン・ド・ネージュは路地裏の静かな住宅街にあった。  最寄駅までは、のんびり歩いて十五分、と藤丸談。崇が帰路に着くためには電車の乗り換えが少々面倒な立地であることが判明したが、 「早いのとー、安いのとー、楽なの」 「楽なの」  藤丸がすいすいと携帯電話で検索した結果、乗り換えの少ない候補が無事に見つかる。  初めて歩く町だ。  神社を横目に閑静な路地を抜け、向こうに大学、あっちに美術館、と説明を受けながら少しずつ賑やかな通りに出る。途中、品川まで続くという川沿いの桜並木に架かる橋を渡る。平日の午前中だというのに人が多いのは、どうやら花見客らしかった。  やがて、小さな駅が見える。  ロータリーに停まったタクシーを通り過ぎ、改札へ。財布を開いてICカードを探していると、頭上から明るい声が降ってくる。 「ののめ先生、携帯貸して」 「ん?」 「アドレス交換」 「してどうするの」 「だってさ」  うっかり目を上げると、視界を透き通ったアイスグリーンがふわりと横切る。それからあの、ひどく静かな笑顔。 「話すの苦手なら、メールでしょ。俺、先生の文章、大好き」 「サービス外だよ」 「えー。でも、文字のがいいなら、俺も文字で我慢するし」 「ちょっと意味が」 「まあまあ、貸してください、電車来ちゃう」  主に言葉の後半に急かされるかたちで携帯電話を渡すと、ごく手慣れた手つきで登録が終えられ、返還される。 「――色々ありがと」 「なんすか、そんな最後みたいな言い方」 「そうかな」 「じゃあ、またね」    乗り入れた電車の空席に座るとすぐに、ポケットの中で携帯電話が震える。  画面を開くと、早速、差出人は藤丸幸貴。届いたのはごく短いメールだった。 『ポケットに諭吉がいたんだけど!!!!!!!!!』  こちらもごく短く、単語を送る。 『タクシー代』  ロータリーでタクシーの傍を通った時に思い出したのだ。アドレス登録の間に、概算の交通費を含む諸々をカーディガンのポケットにねじ込んでおいた。  体感ではコンマゼロ秒で返信があった。 『そんなのいいのに!!!!!!!!!!!!!!!』  内容より感嘆符の方が多い。 『君は俺を、駆け出しのイラストレーターにタクシー代出させた上に部屋に転がり込んで爆睡した十年選手の作家のままでいさせるのか』 『それいい』 『よくない。この話は終わり』  文章は好きだが、メールは面倒だ。これ以上の押し問答も必要ない。崇は携帯電話の電源を切り、鉄のかたまりを鞄に放り込むと、穏やかな揺れに身体を任せた。    非日常から日常への回帰は、馴染みの駅に降り、シャワーを浴び、ふと目を閉じて開ければ終了していた。うっかり昼寝を決め込んでいたらしい。夕暮れの寝室でしばらく放心しながら、空腹を感じているか、二日酔いは残っているか、原稿は進んだか、など自分に問いかける。  思い出せば今日もまた何も食べておらず、空腹感はそれなりにある。二日酔いは胃のあたりがもやもやする程度で、原稿は――進んだわけがない。日常へ回帰した自分は、日暮れ頃になるといつものTシャツとジーンズに着替え、いつもの防水パーカーを羽織り、いつものリュックにいつもの文章入力用端末を入れ、いつもの店へ行く。  昼間歩いた道を引き返しながら、一日にこんなに歩くことは滅多にないな、と思う。  「呑み処東雲」は駅の裏路地、ネオン街とかゴールデン街とかいう種類の場所にある、小さな呑み屋だ。名前の通り、東雲姓の人物、兄が経営する店である。  限りなく黒に近い濃紺の暖簾をくぐり、戸を開ける。  丈(じょう)は一番乗りの客に別段心動かされた様子はなく、 「よう」  とだけ言った。  崇もまた無言で手を挙げて応え、指定席であるカウンターの一番端に座る。  防水パーカーを脱ぎ、リュックから端末を取り出し、折りたたみのキーボードを開く。モノクロの画面を起動し、本日の仕事開始。  こんな自分でも、人並みに、自宅に篭りきりの執筆は行き詰る。かといって、カフェやファミレスでは全く落ち着かず、家ではないが余所でもないという都合の良い空間がこの店なのだ。これで、兄の料理がもう少しうまければ、理想の空間と言える。 「崇、お前」  注文を訊かれるのだろうと目を上げると、しかし、口の端でにやりと笑う兄の顔がある。 「どこで、何して来た?」  懇親パーティーの話はしたはずだ。意味が解らず眉を寄せる崇に、丈は自らのTシャツのVネックをぐいっと広げると、鎖骨の下あたりを示した。 「珍しいもん付けてるぞ」 「なに?」 「キスマーク」

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