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第6話

 パソコンの中の物語は少し進んでは戻り、気まぐれに別の世界へつま先を向ける。スランプなどというのは流れるように作品を紡ぐ人間にのみ訪れる一時的窮地であって、書いては消しての繰り返しで、気長にその集積を待つような作家はそもそも標準がスランプなのだろう。  慰めというよりは諦めに近い心境で、液晶に浮かぶ文字列をぼんやりと眺める日が続いている。進まない原稿と向き合う疲労感を、何に例えたらいいのだろう。通販サイトのカートボタンをやみくもに押したくなる気分、と言えば伝わるだろうか。  その結果、このところ毎日ドアホンが鳴っている。お徳用トイレットペーパーや個数を間違えた大量の野菜ジュース、コレクターズ版のブルーレイボックスや限定と銘打たれたスニーカーなどなど。ストレスの捌け口は大体にして、自宅の玄関に繋がっているのだ。  原稿が進まないから衝動買いが増えるわけだが、なぜ原稿が進まないかといえば――たぶん、ほどあやふやではないが、きっと、になるのは危ういと感じる、藤丸幸貴という男のせいなのだと思う。  検索ボックスに彼の名前を片仮名で入力し、エンターキーを押しただけのことだった。  玉石混交とは違う、虚像か偶像か、ともかくそのきらびやかな入れ物の中に、嘘と噂とごくわずかな真実がごっちゃになって詰まっているのだろう様は、奇妙なことに彼のイメージによく似合っていた。  匿名のコメントがどれほど無責任かは、身を以て知っている。相も変わらぬ、伝聞形の断定形。同人時代のいざこざとか、恋愛沙汰とか、トレスの検証なんてのまであった。SNSの公開アカウントは、現実の彼と同様、よく喋る。告知専用と成り果てている自分のアカウントに比べれば、いや、現実の自分と比べても、ひどく人間味がある。  ふと我に返る瞬間に訪れるのは自省の念というやつだが、最近観た映画や買った服なんかにとどまらず、晴れ男だとか実家に猫が二匹いるとか、そういうのを知っているのは、また別のストーリーで。  アドレスを交換して以来、毎日メールが届くのだ。  その日起きたこと、それにまつわる雑感、時に突拍子もない話題、そしてしばしば写真が添付されている。さしずめ登録した憶えのないメルマガのような存在だったが、読むこと自体は嫌ではなかった。ただ、返信のテキストを打っている間に、果たして必要な返信なのかとか言及する箇所はここでいいのかとか、さらなる返信を要求するようなニュアンスは含みたくないとか、あれこれ考えるうちに面倒になったのも事実。  その気持ちを数行に渡って伝えてみたところ、なぜか爆笑されたので(ああいう時の顔文字は腹立たしいし、なぜか爆笑されているとわかる)、以来、返信は気乗りした時だけしかしていない。    冷蔵庫を開けると、ほとんどの容積を野菜ジュースに占拠された絶景に迎えられるようになって、数日経った。フルーツ果汁多めの爽やかなジュースが、最近の主な栄養源である。一本を取り出し、ストローを挿して、おもむろに啜っていると、遠くで短いバイブ音がする。  出てきたばかりの仕事部屋に戻ると、机の端では携帯電話が出迎えるような顔をしていた……と感じるのは、差出人のせいだろう。 『今日も雨です』  文字につられて窓を見ると、薄い灰色。目を凝らせば、こちらもやはり雨が降っている。糸のように細い小雨だ。 『最近、雨が多いです。  予定ないからいいけど。  うん、予定あったら晴れてる。  寝っころがって見上げた天窓が、いいかんじです。  雨は好きじゃないけど、雨の日の空の色は好き。  特に、今日みたいな色、大好き。  モノクロ映画みたいだと思いませんか?  あと、雨が落ちる音も好きです。  古い建物って、音が独特かも。住み始めてすぐは  ちょっと怖かったなー。。。と思い出しました。』  短いセンテンスの連なりが終わり、一呼吸おくようにして、写真が現れる。  そこには崇にも憶えのあるアングル、ベッドから見上げた天窓が映し出されていた。どんよりとした曇天は、この部屋の窓から見るよりも色濃く暗い。雨も強いのかもしれない。  ここ数日は無視を決め込んでいたが、今日はなんとなく指が動く。 『Re:雨ですね』  ボタンの上で少しさまよい、空っぽの画面に一文字目を打ち込む。 『こっちも毎日ぐずついています。  ここ数日、メールをもらっては窓の外を確認してしまう。  普段あまり気にしないことが、おかげで気になります。  モノトーンが好きというのは、意外です。  君の絵はとても色鮮やかなので。』  陳腐な表現だったな、と、送信直後には後悔する。  彼のイラストの色使いからは想像できず、驚いたので、ただそれを伝えたかっただけ。執筆の行き詰まりが短いメールにまで影響しているようで、少し落ち込む。  しかし後悔の余韻を断ち切るように、手の中で携帯電話が震えた。 『うん、グレーが一番好き。  全部の絵具を混ぜたら、グレーになるから。』  反射的に納得したものの、もう一度目で追うと、理解のポイントを見失った気分になる。  それもやはり、長くは味わわせてもらえない。 『だから服とかはほとんどモノトーン。』  懇親パーティーでの藤丸の装いを思い出す。確かにモノトーンのコーディネートだった気がするが、それ以外のインパクトが強すぎて、言われるまで忘れていた。  すぐにまた、手の中に振動。  藤丸はおそろしくメールを打つのが早い。体感のテンポは、ほとんど会話と同じだ。 『でも、カラー絵ではあんまり使えないんだ~。  黒とかグレーは、ちょっとでも入るとトーンダウンするから、最低限だけ。』  なるほど、と、今度こそ思う。  同時に、不意に絵描きの感性に出会ってどきりとする。彼のイラストが強烈なほど鮮やかで瑞々しい理由の一端が、そんな理論の内にあったのか。 『モノクロの絵も見たいな』  半ば無意識に、それだけ送っていた。  しまった、と、焦ってボタンを押す。 『髪の毛の色は』  そこで間違えて送信。 『りゆう』  また間違えて送信。 『あるの?』  話を逸らそうなどと、ログの残るメールで、なんの意味もない行動を取った。そしてたぶん、失敗した。自分のペースで話せるから、少しは得意だと思っていたメールなのに。  そんな時に限って返信に間があるのはいったいどういうつもりなのかと、恨みの矛先は藤丸へ向かう。たっぷり沈黙した後、返ってきたのはたった一言。 『うーん、気分?』  ため息とともに嫌な緊張を吐き出して、背もたれにぐったりと寄りかかる。  核心、などというものがあるなら。  どちらもそれには触れていない。  言わなければなかったのと同じだと、どこか願うように思っている。  左の鎖骨あたりに施された跡は、もう消えかけている。実体験を伴わない感覚、痛いとも熱いともわからない幻覚も、遠のいた。このまますべて霞んでいくのを待つだけだ。  眼鏡の下に指を入れて、目頭を揉む。  それから、野菜ジュースの残りを啜り、パソコンのマウスを動かす――明日の天気、東京は晴れ。それだけ確認すればいい。 『なるほど。  ところで、予報では明日は晴れです。  このところ引きこもってたみたいだけど、そろそろ復活ということかな』  幕引きの訪れを予感させるにはじゅうぶんだろうと、崇は携帯電話を手放した。  ――直後だった。再び震え始めたそれを、胡乱な気持ちで取り上げる。 『なんでわかったの!!!!?????』  なにが? 『おとといから風邪こじらせて寝込んでるの!!!!!!』  そんなこと一言も言ってなかった。 『やっとよくなってきたんだけど!!!!!!』  そうだったのか。 『心細かった~~~~~~』  それは疑わしいな。 『ののめ先生、俺のことお見通しだ!!!』  言い募るように、短い文章が続けざまに届く。  一ミリでもその端正な面の皮の下を見通せたら、どんなに楽だろう。ただ単に、いつもなら外出の話題や写真が多いのに、ここ数日、ポエティックな心情を綴っていたり室内の写真が添付されているなと思っただけ。 『違います。お大事に。』  それだけ返して、ああ前にもこんなふうにしたなと思いながら、崇は携帯電話の電源を落とした。    快方に向かっていると言ったのは事実だったようで、翌日からはまた、コーヒーショップの新作の感想などが送られてくるようになった。曇りがちだった四月が終わり、ゴールデンウィークとかいうやつも過ぎた頃。 『アパートのバラが咲きました。第一号!』  濃く渋い赤色の花びらをたっぷりつけた、薔薇の写真が送られてきた。 『今度見に来ませんか?』  ついでのように添えられた勧誘系に、しばし悩み、結局一言も返さなかったのが三日前。  よく晴れた夏日の東京に、自分は来ている。  場所は山の手の一角、ザ・トレッキング編集部のある出版社のビル。つまり打ち合わせだ。社外の喫茶店で行うこともあれば、今日のように、社屋内の応接室をあてがわれることもある。  びっしりとメモを取った手帳を閉じて、湧田が笑う。 「途中経過はアクロバットですけど、ののめ先生の原稿って、最終的にはかなりプロット通りなんですよね」 「……褒めてる?」 「いやー、僕って世界でただ一人、空コズのifを知る読者なんだなあって思ってるだけですよ」  なるほど、慰めてくれているのか。  一人で試行錯誤しているうちはどうにもならないことも、案外、誰かに話すだけで糸口が見えることもある。もちろん、そうでないことも。自覚症状では少し難航している程度だったが、トリアージはレッドに近いゾーンだった。湧田は有能なレスキューでもあるのだと、痛感した今日。 「今日はわざわざありがとうございました」 「いやいや、こちらこそ」 「あ、先生、今年もさくらんぼの時期なんですけど、いかがですか?」 「ん、気を遣わなくていいのに」 「いやー、ほらうちで作ってるのって、別に高級品ってほどじゃないんで、逆に毎年送るのも申し訳ないというか」 「そんなことないよ。実家がそういうの送ってくれるの、羨ましい」 「ののめ先生のおうちは、サラリーマン家庭ですか?」 「ん、そうだね。うちは、田舎っていう田舎も特にないし」 「へえ。あ、ご両親、今どちらなんでしたっけ」 「今はマレーシア」 「まじすか」  エレベーターに乗って一階へ降りると、ロビーの左手には受付があり、右手に背の高い観葉植物がある。  その見慣れた光景の中、背の高い観葉植物の隣に、同じく背の高い人影を見た。すらりと長い脚を細身の黒いパンツに包み、白いTシャツにグレーのパーカーを引っかけた、壁に寄りかかっているだけのことが絵になる立ち姿。彼は先にこちらに気づいていたのだろう、ポケットに突っ込んでいた手を出して、ひらひらと振った。 「ののめせんせ」  にぱっ、と、音のするような人懐こい笑顔だ。

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