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第7話
(なんでいるの?)
(いやまあ、偶然だろうけど)
(偶然じゃないってこと、あるの?)
(つまり、会いに来たってこと?)
(その自意識はちょっと、どうかと思う)
どれだけ時間が経ったかはわからない。ただ、めまぐるしい脳内会議が行われている間も笑顔のままでいる彼が、こちらの第一声を待っていることだけは確かで。
やがて決議に従って崇の取った行動は、
「――やあ」
とだけ言って片手を挙げることだった。
絶妙なバランスで整った顔が、絶妙さをキープしたまま崩れる。藤丸は唇を尖らせ、さらにはがっくりと肩を落とした。
「ちょっとは驚いてくださいよお」
「すごく驚いてる」
鈍色からアイスグリーンのグラデーションが揺れる。予想はしていても受け止めきれない、甘い上目遣いが向けられた。
「だったら。なんで?とか、どうして?とか、訊いてほしかったな」
こちらの気も知らず簡単に言うものだと思う。崇は視線から逃れ、空中に向かってぼそり、と、言い訳する気持ちで呟いた。
「なんでいるの?」
目の端に、ぱっと顔を輝かせたのが映る。
「ののめ先生が、今日打ち合わせって聞いたから」
「そうじゃなくて」
「俺もねー、こないだ打ち合わせあって。そん時に教えてもらったんです。ね」
振り返ると、斜め後ろで湧田が苦笑している。
「すみません、先生」
「いや、いいけど……」
「じゃあね湧田さん、あとは俺に任せて」
「はいはい、ののめ先生に迷惑かけないようにね」
軽い会釈とともに降りてきたばかりのエレベーターに乗り込む湧田を引き留める理由は、その扉が閉まるまでに思いつかなかった。
藤丸はやはり、嬉しそうに笑っている。
「驚いた?」
「驚いたって言ってるでしょ。それで、どうしたの?」
「なにがですか?」
「用があるんじゃないの?」
だから、きょとんとしないでほしい。それだけのことを訊くのにこんなに手こずっているなんて、おかしいのは自分のほうかもしれないと思えてくる。藤丸はやや切れ上がった目を瞬くと、こともなげに言った。
「会いたかったから」
それから、口角をきゅっと一度だけ上げて、緩める。
「俺ずっと、メールだけで我慢してたもん」
答えなかったわけではなく、答えられなかっただけ。その程度には混乱している。無言の意味などきっと意に介してもいないのだろう、藤丸は崇の顔を覗き込むと、惜しげもなくまた極上の笑顔を披露するのだ。鼻先をかすめる、煙るようなオレンジのあの香り。
「ののめ先生、お腹すいてません?」
「すいてない」
「俺、すっごいお腹すいてるんで、ちょっと付き合ってくださいよ。お茶してこ?」
手首を取るのも、それを引っ張るのも、決して強引でもなければ乱暴でもない仕草だったのに。たたらを踏むように数歩よろけたのはだから、眩暈に似た錯覚だったのかもしれない。絵具に浸した筆先のような髪がふわりと踊るのを見上げながら、暑いくらいの真昼の空の下に連れ出されていた。
太陽を反射してきらりと輝いた、小さな石の入ったピアス。
「今日、ちょー天気良いね」
「きみのせいじゃない?」
「うん、かも」
駅までのそう長くない道のりの間に、ファミレスとカフェを一軒ずつスルーして、曲がり角のビル一階にあるジャンクフードの店に入る。
「ののめ先生、何にする?」
「ジンジャーエール」
「サイズは?」
「M」
「空いてるとこ、座っててください」
「いいよ」
「てか俺、まだ決まってないから、席取っててほしいなーって」
確かに店内は程よく混雑しており、選り好みの余地はない。ちょうど見つけた二人掛けテーブルに腰掛けて、ぼんやりとレジのほうを見やる。決まっていないというのは本当だったようで、しばらくメニューを睨んでから注文。その後、受け取り用のカウンターからトレイを片手にやって来るまでに、彼は何人から好奇の視線を向けられだろう。
「はい、どうぞ」
給仕経験者の危なげない手つきで、Mサイズのジンジャーエールが置かれる。目線の先で揺れる細く繊細なシルバーのブレスレットはピアスと同じくずいぶん彼に似合っているなあとかおよそ意味のないことを考えながら、崇はありがと、と口の中で呟いた。
「ののめ先生、ジンジャーエール好きなんですか?」
「ん、まあね」
「意外かも」
「たまにだよ。外に出ると、時々むしょうに」
藤丸の前には、はみ出すほどローストビーフを挟んだサンドイッチと、フライドポテト、Mサイズのカップがある。
「俺も炭酸好き。コーラだけど」
そう言いながらまず携帯電話を取り出して、カシャ、トレイの上を撮影する。そのまますいすいと指を動かして、
「ランチデートなう」
一音ずつ、文字をなぞって声に出す。
「やめて」
「デートだもん」
「……わかった。語尾に(笑)ってつけといてね」
崇は内心でため息をついて、冷たいジンジャーエールを啜った。炭酸の刺激が喉を通る。
藤丸も気が済んだようで、サンドイッチにかぶりつく姿を眺めながら、肉がうまい年頃なのだなと感心するのは初めてではないなと思い出す。
「肉好きなんだね」
うっかりこぼれた心の声に、もぐもぐと咀嚼の隙間から返事をしようとするから。
「ごめん、悪かった」
「――ののめ先生は、魚派?」
「どちらかと言えば」
「じゃあ今度お寿司行こ、お寿司」
「藤丸くん、よく食べそうだからな」
「俺が出しますよ、こないだの諭吉あるし」
「その話は終わったでしょ」
でもさー、と反駁しながらも、架空の寿司より目の前のジャンクフードのほうが魅力的らしい。再びサンドイッチにかぶりつき、ポテトを放り込み、コーラを啜り、とその様子をじっと見ていると、藤丸がふと目を上げる。視線の意味を何と感じたのか、ポテトを一つ摘んで突き出してきた。
「食べる?」
「ん、ありがと」
それを受け取って、まず半分、すぐに残りの半分を口に押し込む。
「あーんしたかったのに」
「やだよ」
「あ、そうだ。ののめ先生、バラ嫌い?」
「好きか嫌いかで言えば……どっちでもないな」
「わは、どっちかで言ってよ」
「メールのことなら」
「我ながら見え透いた口実だと思いました」
「そう」
そこでまたふと目を上げて、今度はまっすぐにこちらを捕らえる。だから今度は、目が合うのを避けられなかった。
「また見てる」
減っていくメニューではなく、彼自身が見られていたことを確信していて、それにちっとも狼狽えていない澄ました表情。気づいていたのだ。
「なに?」
追及されれば、答えるほかない。どこか白昼夢でも見ているような気分で考えていたのは、口にすればあまりにくだらないことだった。
「モテるだろうなと思って」
「モテるって、どういうことだと思います?」
「きみみたいなこと」
店内でのエスコート然り、周囲からの目線然り、なにより目の前の、頭からつま先まで端整な存在そのもの然り。本人にとっては息をするのと同様の常識も、その余波を食らう者をやや呼吸困難にさせる。持ち上げたつもりはないし、もちろん貶したつもりもなかったのだが。彼は長い睫毛を少し伏せ、その口元に曖昧な微苦笑を刻んだ。
「モテるって、誰彼構わずちやほやされるってイメージありません?それってほんとに嬉しいと思う?好きでもないし、興味もないし、下手したら嫌いな相手からだって、好きって言われるんですよ?」
衝撃だった。こんなふうに露悪的な言い方をするのことに驚いているし、例えの中で否定された存在への共感と憐憫が倒錯してごちゃ混ぜになっているし、もしかして気分を損ねたのだろうかという気まずさに見舞われもいる。
つい、と、視線が外れる。
「俺は、俺の好きな人に、好きって思われたいだけなのに」
「――それは難しいね」
表情が消えて彫刻じみた面にかけることができたのは、ありきたりな一言だけだ。藤丸はややあって、やはり静かに笑った。
「うん。だから人魚姫なの」
難破船から救った人間の王子に恋をした人魚姫が、魔女の力で自身の声と引き換えに人間の姿になり、想い届かず最後は海の泡となって消える。それは、悲恋の代名詞のような物語。
「ののめ先生、俺、どっちももどかしいです」
「何が?」
「こうやって喋るのも、メールも」
長い指が、コーラのストローをつつく。
「俺、気付いてますよ。ののめ先生って、モノローグ処理が多くて全然口に出さない人だ」
無口、無表情、とはよく言われるが、そんなふうに評されたことはなかった思う。
頭の中では饒舌でも器官を使って現実にできないのは、自分でももどかしい。そんなところまで見透かし、責めるのか。手元のジンジャーエールに向けて呟いたのは、言い訳か負け惜しみか。
「きみは全部口から出るよね」
「うん。でもののめ先生には上手くいかない」
「――苦手だって、言ったでしょ」
この口からこぼれ出るものの大半は精製に失敗した言葉なのだから、原因があるとすれば自分にだろう。どうせ。
「だから。メールならって思ったけど、メールのほうが性質悪いです。すっごいあっさりだし、顔見えないし」
「顔見れば、何かわかるの?」
「ううん」
形の良い手が視界を遮り、もうほとんど氷ばかりのジンジャーエールが奪われる。慌てて顔を上げると、
「ただ見てたいだけ」
にぱっ、咲き零れるような笑顔があった。
しまったな、と気付いた時にはもう遅かったと思う。
熱くなった頬を隠したくて、眼鏡を押し上げる。
彼の笑みに見惚れ、一挙手一投足をまるで映画のように鑑賞し、あけすけな言葉に呆れつつもそれを羨み、動揺したりもする。彼に強烈な引力を感じている。これに似たシグナルを知っている――そんなパラノイアにずっと苛まれている。
店を出て、最寄駅に向かう。
「新作のイラスト、担当させてもらえるかもなんですよ」
「へえ、誰の?」
「ののめ先生だったりして」
「倍速で書けるようになっても難しいだろうね」
「怒んないでよ。まだ候補に挙がってるってだけだし、落ちたら恥ずかしいもん」
「ふうん」
地下鉄の階段を下りれば、そこから向かう先は別々、乗るのは違う電車だ。
「どっか行く?デートの続き」
「わかったわかった」
空気よりも軽い冗談を手で払い、電光掲示板を見上げる。あと五分もすれば、電車が来る。
「ののめ先生、訊かないんだね」
「ん、誰なの?」
「じゃなくて」
指揮をするように、すい、と動いた彼の指が、Tシャツの襟元で止まる。
「それとも、気付かなかった?」
いや、正確には――
「ここ」
左の鎖骨の、ほんの少し下。
瞬間、ひやりとしたのか、かっとなったのか、自分でもわからなかった。
追いかけるようにして心臓が鳴り始め、息が上がる。
核心、などというものがあるなら。ここがその在り処だから。
彼に人差し指の先で触れられ、示されることで、今はもうないあの跡が浮き上がってくるような錯覚に陥る。
ごくり、喉が鳴ったかもしれない。
「――訊いたら、どうなるの?」
絞り出した声はかすれていたろうか。
やや切れ長の目が、柔らかく細まる。
「好きって言える」
喚くでもなく囁くでもない、事もなげなトーンのそれが、しかし脳まで揺らすようで。構内に溢れ返っていた雑音を無音に変える。
「なーんて、もう言っちゃった」
きゅっと両端を上げてチャーミングな笑みを作るのと同じこの唇で、彼は噛みつくような生々しい跡を崇に残したのだ。
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