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第8話

 コトリ、配慮のない音とともに差した影に、さてどれほどぶりか現世に意識が浮上する。  キーボードを叩いていた指の操り糸が切れ、顔を上げた先には当然、見慣れた兄。 「なに」 「なに、じゃねえよ。たまには何か頼め」 「じゃなくて、これ」 「ああ、もらいもん。食うだろ?」  言葉足らずの弟の意図を、敢えて汲むような労力は割かない兄だ。よく言われるのは圧倒的に自分のような気がするが、実際にマイペースなのは兄のほうだといつも思う。 「じゃなくて。もろきゅう?」 「もろ味噌じゃなくて、金山寺味噌らしいけどな」 「何が違うの」 「何がかは知らんが、味は違うな」 「へえ」  飾り付けもなにもあったものではない、食べやすく切ってあるだけありがたいと思えと言わんばかりの小鉢を崇の手元に押しやると、すぐ別の注文を聞きに離れてしまう。金曜の夜は、この小さな居酒屋をいつもより少し賑やかにする。ぬるくなって炭酸もすっかり抜けたビールを飲み干し、冷酒、と告げると、後にしろ、と返ってくる。マイペースな兄め。崇は入力端末の蓋をパタンと閉じて、軽く背伸びをした。  もろきゅう、ではなく金山寺味噌を付けたきゅうりを味わっていると(生姜の風味がするし確かに味は違う)、ガラリ、本日何度目か入口の扉が開く。 「こんばんはー」  明るい声、ひらりと揺れるスカートの裾、長い髪。ヒールを鳴らしながら入ってくるのは、この店では極めて珍しい女性客、それも常連の雪絵だった。こちらに気づいて軽く手を振る彼女に、片手を挙げて応える。 「いらっしゃい、いつも元気だよな」 「そんなことないですよー、もう、五月病真っ只中です」 「充実したゴールデンウィークだったってことだろ」 「人並みには、ですけど。でも、来月って六月じゃないですか」 「俺の知る限りではそうだな」 「六月って、祝日が一日もないんです。一日もですよ?」 「なるほど」  指定席に腰掛けた雪絵は、早速の愚痴モードだ。店主を苦笑させ、とりあえずのビールを注文する。 「一週間お疲れ様」  ジョッキを受け取る彼女は、実に幸福そうな顔をするのだった。 「ありがとうございますう、もう、そういうことさらっと言ってくれるから、丈さんって素敵」 「こんなもんでいいのか」 「これがいいんです」  何が琴線に触れるかはわからないものだ。雪絵はその幸福そうな顔のまま、うまそうにビールを煽った。  カウンター続きの、少し離れた席の様子をなんとなく眺めていたのは、理由を付けるなら、冷酒を再度要求するタイミングを計っていたから。雪絵がふとバッグを引き寄せて、中から携帯電話を取り出すのが見えたのも、空の雲が動くとか、花が風になびくとか、そういう光景の変化と同等だった。おそらくメールだったのだろう、画面を一瞥してどこか物憂げな表情を見た時、意味が少し変わる。それはごく私的な表情であることを感じさせる、少なくとも常連客同士の関係では見ることのなかった顔だった。  傍観というには不躾すぎたことに、雪絵が呼びかけられたように迷いなくこちらを振り向くまで、無自覚でいた。  なにか?と言うように小首を傾げる仕草には、他意のないことを最優先に伝える。 「ごめん、覗いてたわけじゃないんだけど」 「あはは、いいですよお、別に」  雪絵はよく知る明るい笑顔を作り、携帯電話の画面を手のひらで撫でた。 「ちょっと前に呑み会で知り合った人なんですけど」  つまりそれは、雪絵に先程の表情をさせた人物でもある。 「その時は、前向きに考えてたから連絡先交換したはずなのに……なんか、時間が経つにつれて面倒になってるっていうか。私のこと気に入ってくれてるし、こっちが押す必要もないのに、メールもらうだけですごく億劫になっちゃって。出会い見つけるぞーって意気込んでたくせに、もうほんと、私ってなんでこうなんだろ」  おそらく崇にではなく自分に向けた、大きな独り言のようなものなのだろう。なんとなく彼女らしいと思う。ひとしきり吐き出して、すぐにあっけらかんとするところが。  茶化すように肩を竦めて、雪絵は、はあ、と小さくため息を吐いた。 「王子様夢見てるつもり、ないのになあ」 「……お姫様なら誰だって、王子様夢見るんじゃない?」  彼女のような魅力的な女性には、妥協で相手を見繕ってほしくない。などと口にしてしまえば、他人事だと無責任なことが言えるものだと不興を買うだろうし、我ながらそう思うし、実際そうだし。  雪絵は驚いたように目を見開き、次に、あははと笑い出した。 「やだ、その発言が王子様ですよ。兄弟揃っていい男なんだから」  今度はこちらが驚かされる番で、その意味を理解するよりも、彼女が二の句を継ぐほうが速い。 「ドキドキしないんです。そういうことかなって」  そう言って、ぽいっと携帯電話をバッグに戻すと、雪絵は再びビールを煽り始める。  ややあって思い出したのは、現時点で最も重要なことだった。 「丈、冷酒」    藤丸からは相変わらず、毎日のように他愛もないメールが届き、崇はそれに返事をしたりしなかったりしている。着信のたびにさざ波が立つような気分になるのも相変わらずだが、あの時、彼によって暴かれた彼の事実はむしろ、困惑の理由を一つ崇から奪ってくれたようにも感じている。もっとも、一つなくなって、一つ増えただけのことではあるが。  ソファから拾い上げた携帯電話には、メールが一件届いている。そのことには、ずいぶん前に気付いていた。普段は気にも留めないようなことに過敏になっているのがどうにも癪で、できるなら、忘れたふりをしたまま寝てしまいたかった。 『こんばんは』  さて、今日はどんな内容だろう。  見たいと言っていた単館上映の映画、そろそろ見に行ったのかもしれない。それとも開花ラッシュの庭の様子の続報だろうか。 『魚と肉で悩んでたんだけど。  あ、こないだの、ご飯行く話。  いいお店教えてもらいました!  築地直送の魚と米沢牛の店だって!!  よかったら一緒に行きませんか?』  一瞬、不意を突かれた気持ちになったのは、単なる甘えのせい。彼はいつでもこのカードを切ることができたのだから、それが今であっても責めることはできない。てらいのない誘い文句とその下のURLを眺めながら、次に思うのは、訊かれてもいないことを答えるのはずいぶんと心の準備がいるのだな、ということ。しばらく未知の感覚を味わい、やがて、指先に力を入れる。 『こんばんは。  その前に一つ、言っておきたいことが』  それなりに緊張して打ったメールには、送るや否やの速度で返信があった。 『もしかして、俺のこと嫌いになった?』  見透かしたような、リードの一文。  崇は苦笑して、彼の言うところのモノローグを、文字に乗せた。 『思ってもないこと言ってる顔が見える気がする』  すぐに訪れた手の中の短い振動は、明るい破顔を伝えるようだ。 『っていう顔してるのが見える気がします。  じゃあ好き?』  そうだな、次は、甘い上目遣いが見えるよう。わからない振りをして、その実きっと余裕の表情。  嫌いではない。  では、好きか、と彼は無邪気に問うが。  これが丁か半かのダイスゲームなら、どんなに楽だろうと思う。 『それを確かめたい。  そんな理由でよければ、行くよ。』

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