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第9話

 待ち合わせは百貨店の前。  満員電車から吐き出されるとそこは、ダンジョンさながらの巨大な駅の構内だ。もう何年もここでは降りていないし、そもそも大して馴染みもないし、記憶では工事中だった場所にもう幕はないし。わかりやすさを優先して指定されたはずのその百貨店へ、まずどの方向へ進むべきかわからないという現実。この都会で会社員などやっていたのは昔の話、今はただのお上りさんなのだと早々に諦めて、ナビゲートを要請する。すぐに返ってきたのは、そこから動くなとの指令。適当に歩き出していたことを見透かされていたのだろうか。それから、乗ってきた路線や近くに見える案内表示などの端的な質問事項が飛んできて、それに返信してしばらく待つと、出口の名前と指標となる番号が送られてくる。  重なり合う話し声とか、靴音とか、開ける視界とともに大きくなる車の排気音とか。喧騒の中、交差点を渡って右手側に抜ける。ビルの隙間の、夕暮れから夜に変わる空を見上げ、首を巡らせると、百貨店の入口のほんの真横に彼はいた。  襟のある白いシャツに、チェスターコートのような黒い上着と、グレーのパンツ。黒の中折れハット頭に乗せて、外壁に持たれて携帯電話を弄っている。さながら見栄えの良いスナップ写真のような一角に、気付くなというほうが難しい。翻って、彼がこちらに気付くのは難しいだろう。それぞれに人待ち顔の見知らぬ人の間を通り抜け、近づいていく。  やあ、と声をかけようかというタイミングで顔を上げるから、中途半端に挙げた手が空中を撫でて終わる。  にぱっ、笑顔が弾けた。 「ののめ先生」 「――やあ」 「ずっと緊張してた」 「そうは見えないけど。あと、目立ってる、すごい」 「わかりやすいほうがいいと思って」  事もなげに頷いた藤丸と、果たして意思疎通が成功したのかは疑わしい。そうする間にも人目を惹く彼にとっては、さしたる興味もないことなのだろう。 「ずいぶん待たせたでしょ」 「ううん、全然」  ずっと緊張していたと、聞こえた気がしたのだけど。ハットのつばを少しだけ上げて、藤丸は流し目で通りの先の先を見る。 「知り合いのつてで教えてもらったお店なんですよ。腹ごなしに、ここからちょっと歩くけど」  どちらの情報も、前もってメールで知らされていたことだ。  目線で示した方へ歩き出した藤丸が、すぐに立ち止まって振り返る。要求は明白。横に並ぶと次の一歩が揃い、そのまま雑踏の流れに巻き込まれた。  ひしめくネオンと人間模様をひたすら素通りし、やや奥まった通りのとあるビルの前でようやく歩を止める。やはりいくつもの看板が掲げられた、違いと言えばそのネオンの字体や色くらいの、まさに雑居ビルの一角。どぎつい色彩を見慣れた目に、提灯のオレンジ色の明かりは淡く映るほどで、白い暖簾を片手でめくった藤丸が無邪気に言う。 「思ったより遠かった」  和モダンとはあまりに捻りのない表現だが、実際、洒落た居酒屋といった雰囲気の店だ。入ってすぐに小奇麗なカウンターと座敷が見えたが、通されたのは奥の個室で、「御予約席」のプレートの乗った二人掛けのテーブル席に向かい合って座る。 「いいとこだね」 「ほんと?俺、正直こういうとこ来ないから、自分じゃよくわかんなくて」 「ん、ごめん、半分社交辞令」 「わは」  明るく破顔した端整な面に向けて、残り半分は直観的な本心だと念じておく。 「おすすめコース頼んじゃったけど、いいですか?」 「ん」 「ののめ先生、何呑みます?ここ、日本酒が色々あるって」 「迷うな」 「じゃ、上から順番に」  上機嫌に言いながら、長い指で品書きを上から下になぞるので、その和紙を取り上げる。 「俺をどうしたいの」 「酔いつぶしたい」 「……まあ、前科があるね」 「あ、ひどい」 「きみにじゃなく俺に、だよ」  正体をなくすまで呑んで、彼のテリトリーに不用意に侵入した前科、とでも言おうか。口先だけ傷ついたふりをし、そのぞんざいさを取り繕うともしない目の前の男は、わかっているのかいないのか、頬杖をついてにこにことこちらを見ている。 「俺も日本酒にしよっかな。おんなじやつ」 「ん」    蔵元から直接仕入れているという吟醸酒は、よい香りの、実に淡泊で呑みやすい酒だった。前菜のグレープフルーツとタイのカルパッチョによく合うという理由で選んでもらっただけある。 「うまい」 「ん」  気に入ったらしく、ぐいっと酒を飲み干した藤丸のお猪口に、新しく注ぐ。 「あ、どうもです。ののめ先生、普段ごはんどうしてるんですか?」 「まあ適当に、外で」 「外食ばっか?自炊は?」 「チンするかお湯入れるかだね」 「あ、俺カレー得意」 「へえ」 「カレー以外作れないけど。今度作りに行ってあげる」 「うちにカレー鍋はないよ」 「じゃ、うちに来てよ」 「レトルトにもカレーはある」  里芋饅頭の餡かけと、山菜の天ぷらが運ばれてくる。天ぷらは塩で。久しぶりに食べた山菜の苦味がやけにおいしく感じるのは、店のおかげか歳のせいか。 「いっこあげる」  押し付けられたタラの芽を遠慮なく食べ、後味を酒で流し込む。 「ののめ先生、最近なんかドラマ見てます?」 「……ぱっと思いつかないな」 「新刊の後書きに書いてたやつは?」 「新刊?出してないけど」 「去年の」 「ああ、新刊には違いないけど、だいぶ前だね」 「自分で言わないでよ。もう全部見た?」 「とりあえず新シーズンのボックスは買った」 「わは、それ積んでるってこと?」  空いたお猪口に、今度は藤丸からの酌がある。びいどろだと言っていたっけ、ガラスどうしが軽くぶつかった音がきれいだ。 「じゃあ、服は?服、どこで買ってます?」 「主にネットだね」 「えー、まじすか」 「いかにも」 「じゃあ、今度買い物行こうよ、買い物」 「やだよ」 「えー、なんでー?」  コートとハットを取り去って、白いシャツ一枚のシンプルな姿になった藤丸は、料理ではないが素材の味が最高に活かされている。シャツの袖はボタンを外して軽くまくってあり、覗いた手首に嵌められた細いシルバーのブレスレットまで全部が計算なのだろうと思うと、頭痛がする。その程度には、ファッションが苦手だ。 「でも先生の今日の洋服かわいい」 「はあ、そう」  単なる、紺と白のボーダーのカットソーをそう評されても困る。二の句が継げない崇になぜか嬉しそうに微笑んで、藤丸はお猪口を煽った。  やがて、蓋付きのプレートが乗ったコンロが運ばれてくる。下に固形燃料を入れる、旅館とかで見るあれ。蓋を開けるとそこには、きれいにさしの入ったステーキ肉と、肉厚のしいたけ、ししとうが乗っている。藤丸が目を輝かせたのは言うまでもない。それから、旬の魚を多くネタにした握り寿司の皿が出てきて、メインディッシュが揃う。ステーキには甘辛いソース、醤油も甘口ということで、店の薦めで濃い味に合う純米酒に変える。  固形燃料に火をつけてしばらくすると、ジュワジュワといい音がし始める。 「ののめ先生、サラリーマンやってたってほんとですか?」 「ん」 「なんでサラリーマンになったんですか?」  どきりとする質問だった。 「意味はないね。大学で周りがみんな就活始めたから、俺もそれに合わせてたらサラリーマンになってた」  安定志向とか社会経験とか、理由があってのことではない。当時、既に小説は書いていた。作家にもなりたかった。投稿はしていたがぱっとしなかった。そして、就活をして就職をした。それは、今思えば最初に味わった小さなしかし確かな挫折かもしれなかった。  急に気付かされた事実に、内心苦笑する。いや、もしかしたら顔に出ていたかもしれない、唇が歪んでいる気がして、崇はごまかすように握り寿司を頬張った――うまい。 「じゃあ、作家になったのはなんで?」 「インタビューみたいだ」 「インタビューだもん」  そう言って笑い、藤丸も寿司を頬張る。うまい、と咀嚼の隙間から感嘆の声が上がった。 「子供の頃、読んだ本の続きを想像するのが好きで、ノートに書いたりしてた。なんでって訊かれたら、原点はそこだろうね」 「へえ。自分のを書くようになったのは?いつ頃から?」 「大学生だったかな。当時、ネットに小説投稿サイトがいくつかあって、時々そこで」 「ネットなんだ。俺と一緒」 「きみみたいに華々しいものじゃないよ」  ハンドルネームも別物だった。ネットへの投稿は、就職を境にフェードアウト気味に終わった。その後、会社員の片手間に投稿したザ・トレッキングの新人賞に入賞してデビューに至ったのは、彼も知るところだろう。 「ところで藤丸くん」 「はい」 「肉、いいんじゃない?」 「わーい」  イメージ通り、レアが好きなよう。まだ赤々としたステーキ肉にたっぷりとソースを絡め、恍惚とした表情で噛み締める。それは、思わず自分のステーキを一切れ差し出したくなるような表情であった。 「天ぷらのお礼」 「ののめ先生……大好き」 「はいはい」    肉と魚と酒で満たされた身体を椅子に預けて、しばし味わっていた心地よい沈黙を、やはり破るのは藤丸だ。 「俺ね、もっと、ののめ先生のこと知りたい」 「そう言われても」 「なんでもいいよ、やっぱやめとこって思わないで、言って?」 「ん。じゃあ、一つだけ」 「うん」 「パーソナルスペースって、知ってる?」 「知ってるからこうやってる」  テーブルの下では今、彼の長い脚が、絡まるように自分の脚に触れている。膝が当たるような偶発的な現象でないことが、確かになった瞬間だ。 「うわ……」 「ののめ先生、そこは声に出さないで」 「きみは、色男だね」 「ん?」 「噂になるだけあるというか」 「信じるの?」 「嘘なの?」 「嘘だよあんなの」 「全部?」 「……うー、うー、全部、ではないかもだけど、ほとんど」 「いやまあ、それはどっちでもいいんだけど」 「なにそれ」  尾ひれを外せば、いくらかは事実なのだろう。それ自体は不思議でない。こんなに美しく、魅力的な男だ。言いたいのは、それだけでじゅうぶん、自分からは遠い存在だってこと。 「刺激が強いよ、俺には」 「見た目?」 「それはある」 「性格?」 「それもある」 「歳?」 「ああ、それもあるね」 「ののめ先生でも気にするんだね、そういうこと」 「他人事だったら気にしないよ」  不意に黙り込んだ藤丸が、数度目を瞬いて、それから、口元を押さえる。じっと寄越された上目遣いは甘く甘く、それから逃れて、崇は空のお猪口を無意味に右から左へ寄せた。呑み過ぎないようにと、自分でもおかしいくらい気にしていた。でも、少しくらい酔っていなければ、こんなことは言えないから。 「俺、どうしたらいい?」 「きみはなにも」  変わるとしたら、自分だろうとも思う。 「ねー」 「なに」 「この店入ってから、俺から目ぇ逸らしたの七回目です」 「よく数えるね、そんなこと」 「逸らされるほうの身にもなってよ」  くすくすと笑っているのがわかる。 「しかも。手繋ぎたいなとか、キスしたいなとか思ってる時は絶対逸らす」  あけすけな欲望を告げられただけで、それが現実になったような錯覚に陥る。焦って長い脚を蹴りやっても、彼はくすくすと笑い続けるだけだった。 「デザート、そろそろ頼む?」 「ん」    バニラアイスとコーヒーの定番デザートまで平らげ、店を出る。支払いを巡って小競り合いがあったが、若者の財布を封じたことで崇の機嫌は良く、彼は相当不満のようだった。  来た道とたぶん同じなのだろう、ついて歩くだけなので方向さえ定かでない。変わらず、いや、よりいっそう極彩色にきらめく繁華街を、来た時よりゆっくり歩く。大通りに出てまたしばらく歩き、交差点を渡ればロータリーで、ひっきりなしに往来する人を避けて支柱の陰で立ち止まる。 「今日はありがと」 「俺のほうこそ。ののめ先生、ここから一人で帰れる?」 「ん、大丈夫」  一度頷いて、崇は目の前に立つ背の高い男を見上げた。 「その、先生っていうのいい加減やめて。きみも先生でしょ」  ハットの下で、切れ上がった目を見開いて。藤丸はひそめるように囁いた。 「――崇さん?」 「ん」  きらきらと音がするほど目を輝かせて、今度は少しトーンを上げて呼ぶ。 「崇さん」 「なに」 「えへへ、崇さん」 「いや、連呼してほしいわけじゃないから」 「崇さん」 「あのね……」  呆れて言った崇の顔に、長く、形の良い指が伸びる。  頬を捉えられ、熱いくらいの手のひらの温度を感じる。眼鏡の縁が、少し押し上げられる。彼の指先が触れたのは、崇の唇だった。輪郭をなぞるようにゆっくりと動くのを、じっと、立ち竦んだまま享受することしかできない。  やがて藤丸はその指を離すと、自らの唇を同じようになぞり、少し俯いてふふふと笑い出した。弾けるような明るい笑みではなく、蕩けるような甘い微笑でもない。きゅっと両方の口角を上げて、堪えるように唇を結び、眉根を寄せた、泣きだす寸前のような顔。 「藤丸くん?」 「はは、俺、酔ってるみたい」 「そうだね」 「じゃあ……気を付けて」 「きみこそ」  うん、と頷いた藤丸の顔を見上げる前に、背中を押される。  少し歩いてから振り返ってみても、見送る彼の表情は、ハットのつばに隠れて見ることができない。ただ、崇に気付いて手を振った彼が、最後、もう一度その指先で唇に触れたのは現実の出来事で。  軽い酩酊にふらつきながら、ホームを目指す。  タイミング悪く一本見送り、次の電車に乗り込む。二度目の乗り換えでようやく座席を確保すると、身体の力が抜け、抑えていた心臓が高鳴り始める。顔を覆った手のひらの中で吐いたため息が、奇妙にかすれている。  キスになる、と思った。  そのことに、馬鹿みたいに動揺している。

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