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第10話
「ごめん」
受話器を取って第一声、それだけで他には何も言う必要がない。電話の向こうで息を呑む気配と、その奥のざわめきやコール音に耳を澄ますことしばし。やがて、気の抜けた声が返ってくる。
「え、あ、そうなんですか」
「うん」
「――珍しいですね」
「ほんと、ごめん」
見えない相手に向かって、思わず頭を下げる。
湧田が定期的に自宅の電話を鳴らすのは、執筆の進捗を確かめるためだ。助走が長いので、受ける電話の大半に自分が「まだ」と答えるのはいつものこと。ただし、いつもなら、このタイミングで電話を受ける頃には概ね書き上がっている。遅筆ながらも執筆がスケジュールを大きく逸脱することは湧田の言う通り珍しく、そのことに自分自身戸惑っていた。
ザ・トレッキングは月刊誌だが、「空のコズミックイマジン」は二ヶ月ないし三ヶ月おきに掲載されている。そのうち何回かに一度は表紙に煽りが入り、今回の原稿が載る予定の号がまさにそれだというのに、だ。
プロットに変更はなく単純に時間がかかっているだけとはいえ、目前に迫った締切と現時点の完成度とのバランスを考えると、じゅうぶんに非常事態と言える。今後の予定を改めて湧田と確認し、できることがあれば言ってくださいなどと励ましてくれる彼に、やってもらうとしたら缶詰の手配くらいかなとか我ながら笑えない冗談を返して、受話器を置く。
着信ランプの消えたディスプレイを眺めながら、ため息を吐く。口調こそ明るかったものの、湧田も今頃は頭を抱えているだろう。作家として担当には一通りの苦労をかけてきたが、今回で実績を更新するかもしれない。
ほんの少しの眩暈と動悸を伴うような、恨めしさがこみ上げる。
不調の原因である男の顔をふとした瞬間に思い浮かべる回数が、症状の進行とともに増えていると思う。
文字の世界では雄弁なはずの自分が、現実と同じように、下手くそな腹話術でもしているみたいに思い通りにできない。頭の中から指先を通って溢れるはずの言葉が、現実と同じように、躊躇った末に引っ込んでしまう。現実の男がそうやって、崇の空想の世界まで浸食する錯覚――それがパラノイアではないと、もう気付いている。
もう一度ため息を吐き、崇は電話線を抜いた。
何時間、いや何十時間ぶりかに感知した空腹によって、突然、正気に戻る。のろのろと仕事部屋を出て冷蔵庫を覗き込むと、正面は空っぽ、サイドのポケットに終わりかけのドレッシングの瓶が一つあるだけ。冷凍庫は開けるまでもなく、空っぽであることを思い出す。レトルトの買い置きも、もちろん底をついている。今日こそ家から出ないといけないらしい。防水パーカーを羽織り、財布をポケットに突っ込んでコンビニへ向かったはずだったのだが。
二軒目のコンビニ、赤信号、引き返すきっかけを次々に無視して、マンションからどんどん遠ざかっていく。やがて、深い紺色の布地に白抜きの文字で「呑み処東雲」と書かれた暖簾をくぐっていた。
いらっしゃい、と、聞きなれた低い声に出迎えられる。カウンターの奥に手を挙げて応えると、丈は少し意外そうに言った。
「なんだ、こんな時間に」
「ん。腹減って」
「腹減ってうちに来たのか」
「まあね」
「物好きなやつだな」
「兄に似まして」
いつものようにカウンターの端に座り、適当に、とだけ告げる。無人の店内は珍しい光景ではなかったが、開店直後のそれと違い、閉店直前の空気はどことなく雑然とした物寂しさがあった。
「呑むのか?」
「回復系の酒ある?」
「エナジードリンクのウォッカ割りでも作ってやろうか」
「……今それ呑んだら倒れる自信ある」
「疲れてんな。エディが連絡取れないって心配してたぞ。忙しかったのか?」
「今もまだ忙しい」
言葉尻が無意識にため息でかすむ。頬杖を突いた肘の横に、鶏肉の入ったごった煮の小鉢が置かれる。何度も煮返されて、くたびれた色をしていた。
「米も食ってけ」
「ん」
炊飯器からこそげ落としたのだろう白米でさえ、今はありがたい。次に、やはり余りものだろうちくわとピーマンの炒め物が出され、しばらくすると香ばしいにおいが立ち昇り、やや焦げすぎの油揚げにおろし生姜を少しと醤油をたらしただけの皿が置かれる。しかしこれが、兄の手料理の中では相当にうまいのだ。齧りつくと、しゃく、と軽い音がして、じわりと素朴な味が広がる。
黙々と食べる崇をよそに店主は店仕舞いを始め、暖簾を片手に丈が戻ってくる頃には自分の食事も終わる。最後に出てきたのは、熱々の番茶だった。カウンターの中で煙草を吹かす丈に、ふとこんなことを訊きたくなるのはやはり、あの男の呪詛なのだと思う。
「ねえ、ちょっと前までよく来てた」
「うん?」
「丈の……」
何、とは言い表せない。恋人ではないと言っていた。でも、一緒に暮らしているとも言っていた。ある時ふと現れて、ある時ふといなくなっていた、ここから一番離れたカウンター席でケントのメンソールを吸っていた女。物憂げな表情を憶えている。時折目が合うと、冷たい外見に似合わず少し照れたように笑うのが印象的だった。ある日を境にいなくなった女のことを丈は大して気に留めていないようで、今もしばらく怪訝そうに首を捻り、ようやく思い当たったふうに片頬で笑う。
「ああ。それが?どうした?」
「丈は、決まった人作らないの?」
情に厚いのか薄いのかわからない、兄の元にしばらく身を寄せ、そしていなくなった女は、崇の知る限りでも二人いる。いや、三人だったか。丈はもう一度、今度は茶化すように笑った。
「作らないんじゃなくて、できないんだよ」
兄らしい言い方だった。
「ふうん」
「そういうお前は?」
「……俺のことはいいでしょ」
「なんだよ」
失笑とともに細く紫煙を吹き出して、丈が言う。
「これと思える女がいれば、俺だって追いかけるぜ」
「待ってくれてても?」
「いつまで待ってくれるかなんて、わかんねーだろ」
これだから。少しも似たところのない兄は、やはり、思いもよらない角度から撃ち抜いてくる。内心で吐いたため息は、さながらその弾痕から漏れた空気のようで。
「――ん、そうかも」
湯呑の縁に唇をつけると、不意にまた、感触がよみがえる。白く曇る眼鏡の下で、崇は目を瞑った。
送信ボタンを押したところで、記憶は途絶えている。
目が覚めるとまだパソコンの前で、モニターの中ではスクリーンセーバーのロゴがくるくると踊っている。そのまま椅子にもたれて寝ていたらしい。首が痛い。全身が軋む感覚を堪えながらゆっくりと体勢を直し、時計を見ると、朝と昼の間の時刻を示している。カーテン越しにも晴れているのがわかったが、実際に浴びた日光は、まだ人間に戻りきらない身体に刺さるようだった。
仕事部屋を出て、電話線を入れれば、自家製缶詰は終了だ。
編集部への電話は、数コールで湧田に直接繋がる。修羅場中に電話線を引っこ抜く作家だと知っているくせに、朝から何度かかけていたらしい。原稿は無事に届いており、どうやら不名誉な実績を獲得することにならずに済んだと知る。今後は原稿を落とさないのが数少ない取り柄だと言おうかと一瞬脳裏をよぎったが、壮大なフラグを立てる真似はやめておいた。
質が良いとは到底言えなくても睡眠は睡眠ということなのか、案外すっきりした気分だ。ひとまずシャワーを浴びて、水とシリアルバーで適当にカロリーを摂取しながら、手慰みに携帯電話の電源を入れる。振動とともに、大量の不在通知が舞い込んできた。エディからは身を案じるメールが一件、電話もおそらく同じ内容だろう。そして、残りは――
『そろそろ梅雨ですね。
この時期は髪の毛がまとまらないです。。。
でも新しい傘を買ったので、楽しみ。』
いつものように他愛のないメールを、一つずつ読んでいく。
ファストフード店の新商品について、例の海外ドラマを見始めたこと、仕事が捗らずに息詰まっている日もあったらしい。やがて、スクロールが突き当たる。最新のメールには、淡い青と濃い緑の色彩の写真が添えられていた。
『紫陽花が咲きました。
見に来ませんか?』
電車に乗って一時間と少し。この小さな駅のホームに立つのは二度目だ。改札を出て、タクシー乗り場に向かう。
「メゾン・ド・ネージュまで」
この合言葉が通じなかった場合のことは考えていなかった。不思議そうに聞き返されたので、真っ白な洋館のことだと告げると、運転手は得心したように頷いてタクシーを発進させた。
ワンメーターと少しで到着し、二千円で釣りをもらってタクシーを降りる。白い洋館は、記憶の中のそれよりずっとノスタルジックな佇まいだった。門扉をくぐり、正面玄関の前で少し思案してからチャイムを押す。古めかしいブザーの音が響いたが、応答はなく、ずいぶん待ってから扉が開く。
「すみません、お待たせしました」
中から出てきたのは、美しい男だった。
ほっそりとした身体つき、年の頃は同じくらいだろうか。背丈も同じくらい。少し長い前髪を片耳にかけながら、どこか気だるげに首を傾げる仕草は、幽玄さすら感じさせる。その浮世離れした雰囲気の理由は、すぐに知ることになった。不意にぐらついた彼がこちらに倒れてくるので、慌ててその細い腕を掴んで支える。彼の肌はひどくひんやりしていた。
「大丈夫ですか?」
「……すみません、大丈夫です」
「いやいや」
大丈夫なはずはない。声は弱々しく、顔色は蒼白で、唇にも血色がない。徐々にぐったりしていく身体を支える手に力を込めると、屋内から声が響いた。
「ちーちゃん?」
声の主の姿が、ややあって視界に入ってくる。片方の手をゆるいスウェットのポケットに突っ込み、もう片方の手で絵筆の髪をかき上げながら近づいてくる、すらりと背の高い男。少し切れ上がった目を大きく見開いて、素っ頓狂な声を上げた。
「えっ、ののめ先生?なんで?」
「それより」
「あ、ごめん、びっくりしたでしょ」
藤丸は事もなげに笑うと、崇の腕の中から彼を引き取る。
「幸貴、ごめん……」
「ちーちゃんってば、また無理して」
「救急車呼ぶ?」
「ううん、平気平気」
もう一度崇に笑いかけ、手慣れた動作で彼に肩を貸しながら、
「歩けそう?」
と顔を覗き込む。彼は小さく何か言ったのかもしれない、藤丸がそれに頷いた。
「ののめ先生、ちょっと待ってて。ちーちゃん置いてくる」
「いいよ、帰る」
「待って」
「いいから、早くしてあげて」
困惑したようにこちらを見る藤丸を、しっ、手で追い払う。
それでもなお逡巡しているようだったが、すぐに思い直したのだろう、彼を抱えて廊下の奥に消えていった。
広い通りに出るまでの道は、なんとなく憶えている気がする。そこからはタクシーを拾えばいいだろう。とんぼ返りとはこのことだなと思いながら、昼下がりの静かな路地を歩き出すと、背後から強引に手を引かれた。
「そっちじゃないって」
「そう?」
「そうだよ、もう」
走ってきたんだろう。らしくもなく肩で息をしている。ぼさぼさの髪、見るからに余所行きでない服、おまけに足元は履き潰したサンダル。あれほど自分を幻惑した男の、この姿。意外なほど満足感がある。
「ねえ、なんで来てくれたの?」
「紫陽花、見に来いって言われたから」
「じゃあ、なんで帰っちゃうの?」
痛いくらいに手を握っておいて、置いて行かれそうな子犬みたいなことを言う。
「むっとしたから」
それだけ答えると、藤丸はやはり目を見開き、それからぱちぱちと瞬いた。
「……え、待って、ちーちゃん?管理人さんだよ?」
「そう言ってたね」
「てか、身内、身内だよ?俺の叔父さん。父親の年の離れた弟。俺、子供の時じーちゃんばーちゃんの家に預けられてることが多くて、ちーちゃんとは兄弟みたいな感じなの」
「なるほど」
顔立ちを比べられるほどまじまじと見たわけではなかったが、どうやら美形の家系らしいことはわかる。
「誤解、とけた?」
「してないよ、最初から」
「だって、だったら」
「それでも、だよ」
掴まれた手を解くと、不満そうに、そして不安そうに、口をへの字に結ぶから。思わず、ふっと笑ってしまった。それから、手を伸ばして、そのへの字を指でなぞる――あの晩、彼がそうしたように。
光を湛えた暗い色の瞳が、零れ落ちてしまいそうだ。
「もう少し待ってて」
短いフレーズに込めた意味は通じたのか、通じていないのか。藤丸は口元を押さえてじっと崇を見つめるだけで、答えない。
「あっち?」
この方向ではないということは、反対なのだろう。つまり右か左かの二択を間違えたわけだが、崇の指さす先を見てぼんやりと頷いた藤丸は、やはりぼんやりと、うわ言のように言うのだ。
「あ、送る……」
「いいよ」
片手を挙げて、立ち尽くす男の横をすり抜ける。もう一度手を引かれることはない。それがどんなに心地よいか、彼は知らないのかもしれない。
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