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第11話

 頭の奥が煩わしい。いや、違う、中ではなく外、安らかな静寂の帳を破るのは、電話の音だ。うーん、と唸って伸ばした腕が空を切り、落ちる。もう一度伸ばして、また落ちて。どれだけベッドの上で泳いでも、リビングの電話には届かない。眠りと目覚めの間でもがく崇を急かすのか、そんなこと気にもしていないのか、電話はいつまでも鳴り続けている。  重い身体をやっと起こしたところで、音が止む。揶揄われた気分だ。不機嫌を持て余しながら手探りで眼鏡を探し当て、レンズ越しにデジタル時計を見る。真っ暗な部屋にぼうっと浮かび上がる数字に、すっかり夜になっていることを知らされる。  ほんの数時間前の出来事を、夢と現実の境で反芻する。睡眠不足は簡単には解消せず、修羅場明けの脳内物質に動かされていたのは束の間、帰宅してすぐに眠ってしまったのだと思い出す。鈍くまとまらない思考はおもちゃの液体時計のようにぐにゃりとしていて、現実の角度に傾ければ、ひどくゆっくりと落ちていくのだった。  空想とも錯覚ともつかない感覚に心を預けていると、今度は玄関のチャイムが鳴る。  すぐにはベッドを下りないでいることを見透かしたように、もう一度。  荷物の届く予定があったろうか。それすら思い出せないなと内心でぼやきながら、真っ暗なリビングを抜けて、玄関のライトを点ける。ドアスコープも覗かずに開けると、そこに立っていたのは、配達員ではなかった。グレーのパーカーの胸に縫われた、小さなブランドロゴ。 「来ちゃった」  声の主を見上げる。  目が合った瞬間、にぱっと笑みを弾けさせる。しかし彼はすぐにそれを消して、一度唇を結ぶと、おずおずとまた開いた。 「怒ってる……?」 「驚いてる」  本当だ。おかげですっかり目が覚めた。 「住所教えたっけ」 「湧田さんに聞いちゃった。電話出ないから」 「さっき鳴らしてたのきみか」 「さっき?」 「というか今、電話」 「携帯?」 「いや、家の」 「番号知らないです、携帯しか」  それではやはり、湧田か丈のどちらかなのだろうか。あれだけしつこく鳴らすということは、兄の可能性が高い。 「……とりあえず、入る?」  ドアを大きく開くと、アイスグリーンの前髪をくしゃっと握って、泣き出しそうな顔で頷くから。ざわついていた気持ちが、不思議とそれで収束する。 「ののめ先生、寝てた?」 「ん」  背後に藤丸の声を聞きながら、ソファに放り出したままの携帯電話を拾い上げる。着信履歴の先頭は、確かに彼の名前だ。携帯電話を閉じて、背後から動かない気配を振り返る。やはり目が合って、彼はやはり、また一瞬だけ笑った。 「起こしちゃってごめん、あと」  ふっと目を伏せてうなだれるのに合わせ、絵筆の髪がさらりと落ちる。 「約束破ってごめんなさい。待てって言われたのに」  半日も経っていない過去のことを、もう忘れてしまったわけではなかったらしい。崇が答えないでいると、藤丸は顔を上げて、真剣に言うのだった。 「俺、やっぱ待つの苦手」 「そう?でも、下手じゃないでしょ」 「え?」 「まあ、ぐいぐい来るのは確かだけど」 「わは、うん」  声色は笑っているけど、眼差しは和らがない。 「きみがぐいぐい来るだけだったら、殴ってたと思う」 「あ、はい」 「でもそうじゃなかった。ってことだね」  ずいぶん要領を得ない言い方をしていると、自分でも思う。こういうのは苦手だし下手だ。そんなことはもう彼だってじゅうぶん知っているから、その目がきらりと明るく輝いたのだろう。  現実が物語であっても、自分は出来のいいキャラクターではないから。壁際に追い詰められた時の危機感を、恋愛感情の昂ぶりと勘違いできるほど空っぽではない。押しの強さで怯ませておいて、引き際は時にあっさりしているくらい。混乱するほど浴びせるくせに、考える余裕は奪わない。憎らしいけど、そういう男だってこと。 「ののめ先生」 「きみも先生でしょ」 「崇さん」 「ん」 「俺のこと好き?」 「そうだね」  長い腕に、背中ごと抱き寄せられる。  ああ、このオレンジの煙った香りを嗅ぐのは、ずいぶん久しぶりかもしれない。 「崇さん」 「ん」 「ぎゅってしていい?」 「もうしてるでしょ」 「もっと」 「いいよ」  言い終わる前に強く掻き抱かれて、胸の中で押しつぶされる。 「嬉しい……」  息苦しさに少し驚きながら彼の背中へ手を回すと、さらに強く抱き返されて、踵が浮いた。 「痛いよ」  抗議ではないことは思わず笑ってしまったことで、制止の意志などないことは背中に回した手に力が入ったことで、彼には伝わってしまったのだと思う。やがて抱擁を緩めた藤丸は、崇の顔を覗き込み、悪戯っぽく言った。 「俺ね、湧田さんに、悪さしないようにってきつく言われてきた」 「しないの?」 「する、かも……いい?」  ホログラムのような瞳だ。さっきまで不安そうに揺らいでいたと思えば、無邪気な明るさをひらめかせ、今もう妖しく潤んでいる。  返事の代わりにその唇に指を押し当てると、崇の手を取った藤丸が、指先に小さな音を立てる。乾いた唇が手の甲へ移り、鑑定でもするように慎重に返すと、手のひら、手首の内側へ触れる。そのまま滑らせるようにTシャツの袖を捲り上げ、肘に押し当てられたところで耐えられなくなる。腕を振りほどくと、うっとりと目を細めた藤丸は、ようやくその微笑を形作る唇を崇の唇に重ねた。  たったそれだけで、火傷しそうなほど熱い。  一瞬息が止まって、こくりと喉が鳴ったのに恥じ入る間もなく、呼吸ごと奪われる。角度を変えて重ねるごとに眼鏡が浮いて踊るのが、鬱陶しいけれど構っていられない。 「ん……」  吐息が混じり合い、どちらともなく鼻声が上がる。下唇を這う滑らかな感触は誘惑で、応じて開いた隙間から挿し込まれた舌に、舌を絡め取られる。  頭の芯が痺れる。藤丸の腕をきつく掴んで耐えるのは、他人の舌の違和感だけではない――もっと怖くてもっと快いもの。  うっすらと目を開ける。真っ白に曇った眼鏡の向こうで、彼はどんな顔をしているのだろう。その頬に手を伸ばし、ピアスで飾った耳を撫でると、ふふふっとくすぐったそうに笑う。やがてぬるりと滑った唇が、湿った音を立てて離れる。視界を遮ることしかできなくなった眼鏡を外し、崇は浅く上下する彼の肩口に頭を乗せた。 「……泊まってく?」    這い出したばかりの布団に、どさりともつれ込む。  崇の両肩をベッドに押しつけて、額に一度キスをして、唇にも一度。それからじっとこちらを見つめる藤丸を、ぎゅっと目を凝らして見返す。 「なに?」 「夢じゃない?」 「夢だって言ったら、信じるの?」 「信じない、本物だもん。ねえ、あの夜さ」 「その言い方」 「あの夜、だよ。やっぱりこんなふうになって」 「ああ、うん」 「俺も酔ってたけど、ののめ先生――崇さん、もっと酔ってて。俺達、何回もキスしたんだよ」 「それは……ごめん」 「はは、でもさ。いよいよって雰囲気になった瞬間、寝落ちするんだもん。そりゃ、下心があった俺が悪いんだけど。朝起きたらあんまりきれいに忘れてるから、ちょっと意地悪したくて、あんな言い方しました」 「効いたよ」 「最初の魔法は、でも、崇さんからだよ」  ふわりと軽い毛先が顎をくすぐり、オレンジの匂いに襲われる。左の鎖骨の少し下、あの夜残した跡を再現するように強く吸うから、じん、とする痺れに、思わず声が漏れる。 「俺を誘った時の崇さん、すっげー、エロかった」 「そう。今は?」  間近の端整な顔から、楽しむような揶揄の色が消えたのがわかる。 「――今も」  熱い息が耳元に吹き込まれて、抱きすくめられた。 「ほんとに、いいの?」 「もう待てないんでしょ?」 「えっ、あれ……もしかして、崇さんの待つって、そういう意味だったの?」 「おかしいかな」 「おかしくはないです……知ってたけど、崇さんって男前だよね」 「そう?」 「そうだよ」  笑い含みのキスを一度して、服を一枚脱がせて、またキスをして、今度は脱がされて。何度も繰り返して右足から靴下が抜ければ、身に着けるものはなくなる。レンズを通さない視界はぼんやりとあまりに不完全だが、今はそれくらいがいいと思う。裸になった彼の肢体をくまなく見てしまったら、今だって早鐘の心臓がどうなってしまうかわからない。 「触る、ね?」  ふくらはぎから太腿にかけて撫でる手に、また喘がされる。 「ん……でも、怖いな」 「俺?」  脇腹を這う手に手を重ねると、少し躊躇うように弱まるから、そうではないのだと甲を撫でる。それから、見えていなくても正面を向いてはとてもできないこと――布団に片頬を埋めながら、彼の太腿の間に手を伸ばした。 「これ……でしょ?」 「あ、うん……」  温かくて、ぴくりと脈打つ、重力に逆らって持ち上がったもの。知っているけど、男を誇示して怯ませる存在感。 「こんなの。反射できみを突き飛ばしたら、俺も立ち直れない」 「……ねえ俺、崇さんの潔癖なのか大胆なのかわかんないとこ、すごい興奮する」 「やめて」  言葉通り膨らんだのがわかったから、慌てて手を離したけれど。ああ、と思った瞬間には自分も勃起していて、隠すために閉じた脚はあっさりと開かれてしまう。片膝を押し上げられると、抗いようもなく腰が浮く。彼の前に全部露わになっているのだと思うと、嫌でも熱くなった。 「……あんまり、見ないでよ」 「うわ、やばい」  低くかすれた声で言って、まるで美味な食材でも見つけたかのように、赤い舌をぺろりと覗かせる。  彼の手や舌はとても優しく、それ以上に艶めかしかった。  時間をかけて中をほぐし、目蓋、頬、唇、首筋、胸やへそ、昂ぶった場所にも何度もキスを施す。解放には程遠い、行き場のない快感に、びくびくと身体が跳ねる。 「ふっ……」 「ごめんね」  暴れる腕を捕まえ、柔らかくさすりながら、汗ばむ尻に唇を押し当てる。乱れるよう仕向けるのも、気遣わしげに宥めるのも、同じ男。その狭間でただ翻弄される崇は、感じるまま泣き声とも鳴き声ともつかない声を上げている。  身体じゅうのあらゆる場所に、生まれて初めて他人の唇や舌が這う。その度に、信じられないくらい身悶える。そうやってどれくらい蕩けていたのか、少し肌が遠のいた気がしてうっすらと目を開けると、たぶん目が合ったのだろう。妖しく誘う光を見る。崇に跨ったままの藤丸が、ゆっくりと自らのへそに手を這わせ、そのまま撫で下ろすように自分を扱き始めた。彼の腹の下から見上げたその仕草は、控えめに言って絶景で。 「藤丸くん……」  ぼうっと呼びかけながら、その手から彼を奪う。さっきと同じパーツとは思えないくら熱くて、血管が張り出していて、濡れている。明るかったり軽かったり、子供っぽかったり時折とても甘かったり、そういうのを一つずつ剥がしていけば、この凶暴な雄がむき出しになるのだ。持ち主は違っても、扱い方は同じそれを擦り上げて、くびれにゆっくりと指を入れると、また少しとろりと出る。 「あっ……」  藤丸の感じた声が伝染したように、感じてしまう。 「崇さん」 「ん……?」 「いい?」 「……いいよ」  膝を抱え、押して、慎重に手を添えながら、ゆっくりと入ってくる。 「あ……あっ……」  突き飛ばすとか、そんな余裕はなかった。巨大な圧迫感に、脳まで支配される。進むごとに声が出て、奥へ届いた時には、空っぽの肺からひゅうと音が鳴って。大きく突き上げられた瞬間、むせ込むように喘いだ。  ひたむきに腰を振る藤丸の息遣いが、どんどん荒くなっていく。横抱きになって、上に乗せられて、また押し倒されて、声と息を絶えず漏らす口元に涎が伝うのを、舐め合って。 「崇さん……好き……」  何回、何十回、彼はうわ言のように繰り返しているだろう。 「……俺っ……どうしようっ……」  どうにでもしていいよ、と、声にはならない。  いつも彼ばかりが夢中だとでも言うような口ぶりだけど、本当のところ、自分も似たようなものだと思う。  腕を伸ばし、彼の頬を撫で、背中を抱く。  美しい男だ。汗と涙と近視でぼやけた色彩だけで、こんなに美しいなんて。  胸と胸をぴったりと合わせ、一際深い所を抉った藤丸が、「いく」と背筋を震わせる。低く、甘く呻きながら精液を放ち、注ぎきれなかったそれを、崇の腹に撒き散らした。  ふーっ、ふーっ、と激しく息をする彼の下でそれに追い立てられるように自分を慰めていると、大きな手で包まれて、加速させられる。やがて達した崇を、骨が軋むほどぎゅっと抱いて。 「好き……」  彼は、くすんと鼻を鳴らした。   「ねえ、ずっと好きだったんです」 「うん」 「俺はただのファンで、ずっと好きで、憧れてた……パーティーでまた会えて、いっぱい喋って、一緒のベッドで寝てさ。もしかして手が届くかもって思っちゃってから、俺、ずっといっぱいいっぱいで」 「そうなの?」  だとしたら、本当に憎らしいことだ。 「うん。だから、嬉しい」 「……そう」  彼の腕の中で言いあぐねているのは、ほんの簡単な一言なのだけど。 「俺も、だよ」  結局口にできたのは、曖昧な同意だけ。  それだけのことで、藤丸はにぱっと眩しい笑みを弾けさせて、その頬を寄せてくる。  睫毛が絡むくらいの距離で見つめ合ううちに、また、唇が触れ合った。

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