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第12話

「崇さん」  この部屋で、誰かに肩を揺すられて目覚めるなんてこともあるらしい。 「ねえ、崇さん」  聞き慣れた声、すっかり離れがたい人肌、いつものボディソープもそこから香れば意味が変わる。夢も見ないほどの深い眠りから、引き上げられているのは、あらゆる感覚を刺激する覚醒の世界だ。 「崇さーん」  何度目かに揺すられて、うるさい、と返事代わりにその手を払いのける。 「うわー……寝起き悪っ。もー、電話鳴ってるよ?」  困っているような笑っているような、総じて機嫌のよい声音に渋々目蓋を開ける。視界いっぱいに広がるのは、鈍色からアイスグリーンへのグラデーションだ。南極の氷山のような、秘境の海のような、外国の不味い菓子のような、不思議な色。その下から現れた暗い色の瞳が、ぼうっと彷徨おうとした崇の視線を捉える。 「おはよ。で、ん、わ、さっきからずっと鳴ってるんだけど」 「…………」  彼の腕を借りて、仕方なく身体を起こす。寝起きのせいだけでなくひどく重く、鈍く痛む。のろのろ寝室を出て受話器を上げると、さてどれほど鳴らされていたのか、けたたましい音が止んだ。 「……はい」 「なんだその声」  ひしゃげた声に驚いているのは、電話の向こうの人物だけではない。今のが自分の声なのだろうかと一度咳払いをしてみても、かすれた音が出るだけだ。 「風邪か?」 「……違うと思う。どうしたの」 「エディが、お前と連絡取れないってうるさいんだよ」 「ああ……昨日の夜、電話した?」 「した。気付いてたんなら出ろ」 「寝てた」 「そうか。もう落ち着いたのか?」 「うん」 「早めにあいつに連絡してやれ。心配してたぞ」 「ん」 「起こしちまって悪かったな」  用件は以上だ、とばかりに通話を終わらせる気配を見せる丈を、思わず引き留める。 「ねえ、丈」 「なんだ?」 「丈も心配してたでしょ」  耳元で、軽い失笑が弾ける。 「言ってろ」  今度こそ電話は切れた。  エディにせがまれたくらいで、兄がわざわざ電話をかけてくるだろうか。閉店間際のあのカウンターでらしくもない話をした弟を、密かに気にかけていたのかもしれない思うと、少しばかり気分が良いというもの。  冷蔵庫に寄ってミネラルウォーターを一本取り出し、飲みながら寝室へ戻る。ベッドの縁に腰掛けた藤丸はきっとこちらを見ているのだろうが、どんな顔をしているのかはわからない。 「ん」  手を出すと、その上に彼の手が乗せられる。 「わん」 「違う。眼鏡、そのへんにある?」  藤丸はお手を継続したままもう片方の手を伸ばし、ややあって冷たいフレームのそれを崇に差し出した。 「ありがと」  クリアになった視界に、少し怯む。目の前の端正な顔に、とんでもなく甘い微笑が浮かんでいたからだ。しかし彼は、惜しげもなくひけらかしていた表情を、同じように惜しげもなく消し、ふと、それをひそめるような悪戯っぽいものに変えた。 「崇さん、声出てないね」  気恥ずかしさ半分、腹立たしさ半分で睨むと、へらりと笑い返される。 「今度は崇さんが人魚姫の番だ」  蒸し返されたくないキーワードを不意打ちで食らって、しかも今の状況で、しかも原因を作った男に。思わず手が出たとして、責められるいわれはあるだろうか。頬をつねるだけで許してやるのだから、感謝してほしいくらい。いてて、と大して痛そうにない調子で笑う彼の頬を最後に軽く叩いて、押し退けるように隣に腰掛けると、すぐさまぐいっと引き寄せられた。 「なに」  崇の腰を抱いて、肩に頭を乗せるので、なんとなくその髪を撫でる。 「……なに?」 「ねえ、ジョーさんって誰?」 「俺が知る限り、兄の名前だね」 「お兄さんいるんだ」 「言ってなかったっけ」  首を捻って横を向くと、ふわりと彼の髪が鼻先をくすぐる。そのまま顔を背けて、手のひらで視界を遮って、 「見ないでください」  などと。  どういう意味だと藤丸を覗き込むと、彼はさらに身をよじって逃れ、思いもよらないことを言うのだった。 「今ちょっと、しなくていい嫉妬をしたこと、恥ずかしいと思ってるところなんで」 「兄だけど」 「……ですよね。でも崇さんだってさ、ちーちゃんのこと」 「まあね」  今度は反対に覗き込まれて、目を逸らすのはこちら。  藤丸は笑いながら、うーん、と大きく伸びをして、ゆっくりとベッドに倒れ込んだ。 「俺たち、知らないこといっぱいだね」 「ウィキには載ってないからね」 「わは、そうそう。まあでも、時間はいっぱいあるし」  思わず黙ったのは、彼はきっとそんな回りくどいことをしないだろうけど、その言外にある価値みたいなものをうっかり感じて、飴玉を転がすように味を確かめていたから。返事をしないでいると、 「……あるよね?」  身体を起こして恐る恐る訊いてくるのだから、笑ってしまった。 「あるよ」  なんて答えてしまい、誤魔化すように、枯れた喉に再び水を与える。残り半分ほどになった容器を押し付けると、藤丸はごくごくと喉を鳴らして飲んで、濡れた唇を手の甲で拭った。それをじっと見ていた崇にまるで気付いていないような、見られることに慣れた澄ました横顔だったくせに、次の瞬間には正確な角度で目が合って、唇が迫る。思わず目を瞑った崇の鼻先あたりに失笑の息がかかって、そのままほんの少し啄まれた。  胸を押し返した手を取られて、強引に繋ぎ止められる。 「じゃあさ、才川さんとは?」 「才川くん?」  あまりに突飛な名前に、思わずおうむ返しになる。 「ずっと、まことしやかな噂ですよ、ファンの間では」 「なんでまた」 「ののめ先生が親しい女性作家さんって、才川さんくらいじゃないですか」 「才川くんくらいとしか仕事してないからでしょ、それ」 「うわー、正論」  彼はなぜかまた嬉しそうに笑うと、また、唇を寄せた。  特別感触が良いとは思えないし、巧みに応えるすべもない自分の唇に、飽きもせずよく構おうとするものだと思う。表面を触れ合わせて、時々小さな音を立てるだけの、軽いキスを繰り返す。溢れ出るような込み上げるような昨夜の興奮とは違っても、これも恍惚の一種なのだと感じる。  指が絡み、髪が絡み、静かに息が上がる。 「紫陽花」 「ん?」 「見に来てね」 「ん」  一瞥もせずに終わった、あの洋館の紫陽花。どちらにとっても単なる口実に過ぎなかったけれど、約束すれば魔法に変わる。 「あと。梅雨が明けて、夏が始まったらさ、風鈴市行きたい」 「……へえ」 「前から行きたかったんだけど、興味ない?」 「なくはない」 「やった。あ、あと、カレー!カレー作るよ俺」 「はは、うち鍋ないけど」 「じゃあ、作ってくる。それとも、食べにくる?あ、あ、でも」 「もう、なに」 「それより、腹減ってません?」 「――減ってるね」  声に出すと、途端に空腹で死にそうなほど。  間近の彼がにぱっと笑う。繋いだままの手を引っ張り上げられて、その拍子に二人して下手なダンスのようにたたらを踏んで、藤丸はまた楽しげに笑った。 「崇さんがよく行くお店、連れてってください」 「夜しか開いてない。ファミレスで我慢して」 「ファミレスのモーニング、ちょー久しぶり。あ、崇さん」 「なに」 「首元あんまり開いてない服着てね」  ちょん、と指先が触れたのは、左の鎖骨の少し下。  今さらのように蘇ったシーンを咄嗟に揉み消そうとしたが、もう遅い。藤丸の美貌に、またあの甘い笑みが浮かぶ。 「赤くなった」 「うるさい」 「……やばい、可愛い」 「やめて」 「どうしよう」 「どうもしなくていい。とりあえず離して」 「キスしてくれたら離します」  なるほど。どういうつもりで出した交換条件かは知らないが。  長い腕の中で反転して、踵を浮かせて、少し足りなかったので彼の頭を引き寄せる。 「ん」  短い口付けのあと目を開けると、赤らんだ頬を押さえた藤丸が、目をきらきらさせながら見つめてくるので。 「うるさいな」 「まだ何も言ってないのに」  目は口ほどに物を言うとは、彼のためにある言葉だと思う。  明快さが罪になることもあるのだとも、彼によって何度も思い知らされている。  わかりにくいと評されるばかりの自分と、果たしてどちらが性質が悪いのか、今となっては決められない。だいたい、この男の前でどれだけ表情を変えて、どれだけ喋っていると思っているんだ。おまけに腹の虫は鳴っているしで、気分はやけくそになる一方。 「あ、モノローグ処理してる」 「口に出してほしいの?」 「え、や、いいです」 「いいから、早く着替えて」 「はーい」    崇はクローゼットから言われた通りのものを、藤丸は床やベッドに散らばった衣服を拾いなが再び身に着け、永遠に続きそうな出発の準備がやっと終わる。  玄関のドアを開くと、空は一面どんよりとしたグレーで、むっとするような湿った空気が顔を撫でる。 「あ」  先に気付いたのは、視力の良い彼のほう。 「雨」 「……ほんとだ」 「ねえ、崇さん」 「きみの分の傘ならある」 「……なんでわかったの?」  片隅のビニール傘を二本取って、鍵を閉める。  このくらいの雨なら、普段はフードを被ってしのぐのだが。それを教えるのは、まだ先でいいだろう。  手すりから少し身を乗り出して空模様を見ていた彼が、振り返って笑う。 「俺の好きな色」 「ん」  雨空の下でも、眩しいくらい鮮やかな笑顔だ。崇は眼鏡を押し上げながら、小さく一度、目を瞬いた。 「俺も好きだよ」 <終わり>

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