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勇魚という男

 「なあ、昨日帰って来たんだろう、今日は来ねえのかな?」  「誰が?」  「勇魚さん」と言いかけて、基之は慌てて言葉を飲み込んだ。別にいつ来ると約束したわけではないのだ。  「……何でもない」  兄貴の嫁さんは大きなお腹を抱えて、くすくすと笑いながら、「本当に勇魚さんの事が好きよね」と言う。  「違うから!」  勇魚は海の男で、兄の幼なじみ、そしてもっと大切なことは基之の初恋の相手なのだ。自分の兄の男友達に初恋をするという、痛い想いは現在進行形で終着駅も途中下車駅も見えてこない。  小さくため息をつきながら窓の方をぼんやりと眺めていたその時にドアがガタンと開いた。  「よう、うんこボウズ、元気にしていたのか」  「そ、その呼び方、いい加減にやめろよ」  頭を鷲掴みにしてがしがしとやられた。その陽に焼けた手を払いのける。奥から嬉しそうに基之の兄が顔を出す。    「勇魚か!お前、また飯時に来たのか」  「仕方ねえだろう、田中ん家のご飯が一番旨いんだよ。ちゃんと手土産も持ってきたぞ」  「あら、いらっしゃい。今ちょうど噂していたところよ。勇魚さん上がって、いつも新鮮なお魚すみません。もう出来るから待っていてくださいね」  「お邪魔します。ああ腹でかくなったなぁ、お前が父親かあ。どうよ田中、幸せだろうよ」  「お前も早く結婚しろよ、学生のころからあんだけモテたんだ。引く手あまただろうが」  基之以外は誰も知らない、勇魚が結婚しない本当の訳を。基之の兄の結婚式の夜、忘れていった引き出物を届けに行って偶然見てしまったのだ。叶わない想いに涙する勇魚の姿を。憧れていた、いや小さいころから勇魚だけを見てきた、それなのに想いが届かないその理由が自分の兄貴だとその時知った。  ショックで逃げるようにその場を去ろうとした基之は、躓いて派手に転んだ。どっかりとヤギの糞の上に尻もちをついたのだ。物音に外に出てきた勇魚は、その姿を見て大きな声で笑った。そして「お前の今日のことも、俺が泣いていたことも内緒な」と人差し指を俺の唇に当てて言ったのだ。きりりと胸が痛んだ。  それまで「チビ」と言いう名で呼ばれていた基之は、あの日からありがたくない呼び名をもらったのだった。  「勇魚さん、あの……預かっていたカニは元気だから……」  「うんこボウズ、人のヤギに変な名前つけんなよ」  「角の先が割れててカニみたいじゃん。それよりその呼び方はもう止めてって、俺今年で成人だよ」  七歳年上の目の前の男は少し目を細めてふっと笑った、その笑顔に腹のそこから何だか得体のしれない気持ちがせりあがってくる。  「で、俺のカニはどこにいるんだ?」  「裏にいる」  「あんな狭いところにか?」  「毎日、草津神社まで散歩に連れて行ってたから!」  「お前、ヤギ散歩させてたのか……」  あきれ顔の勇魚の手を引き外へと連れ出した。  「カニ、良かったな、勇魚さんか帰って来たよ」  その時、がさっと音がした。振り返るとそこに神主の息子のレオが立っていた。レオは勇魚に一瞥をくれると、まるでそこに誰もいないように基之に話しかけた。  「今日は散歩に来なかったろ。具合でも悪いかと思って来たんだが、元気そうだな」  「あ、ああ、うん。今日は、というよりもう行かないと思う」  レオは勇魚を睨みつけると「ちっ」と小さく舌打ちをして、その場を離れいていった。  「なあ、あれ草津神社の名前なんだっけ、ほらお前の同級のやつだろう。挨拶の仕方もしらねえのか」  「さあ、勇魚さんが怖かったんじゃね?」  そうじゃない、レオと約束してある。もしも次に勇魚が漁に出るまでに返事をもらえなかったら、そうしたらあいつの申し出を受けることを。海難除けの神社の息子が「船が沈没すりゃいいのに」と笑いながら願ってたとは、さすがに言えない。  「勇魚さん本当は気が付いているのでしょう、答えが欲しいよ」吐き出せない言葉が頭の中でこだまする。  タイムリミットはもうそこまで、早く答えを聞かせてよ。

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