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第9話
途端、冷水を浴びせられたような気分になった。
こんなに胸が詰まるような思いをしているのは、泣きそうなのは、自分だけか。
それはそうだ。2年前にはただ呑む約束をしただけなのだから。
自分にとっては1分の1の先生でも、彼にとって自分は数百分の1の生徒なのだ。これからも分母はどんどん増え続けていく。
野崎はすたすたと晴樹に向かって歩いてきた。
正確には、職員室の扉に向かって。
「今日は帰って。」
「ッ……」
怒りでもなく悲しみでもないような、なんだか分からないぐちゃぐちゃの感情が晴樹の胸を支配していく。
しかしすれ違いざま、何らかの紙を渡された。
「え…」
パッと振り向いても、扉は既に閉まっていた。
僅かに涙の膜が張った目では上手く読めなくて、服の袖で拭った。
そこに書かれていたのは、携帯の電話番号とメールアドレスだった。
そして遂に、晴樹の目から涙がはらはらと零れ落ちた。悲しい時も、辛い時も堪えてきたその堤防は、喜びによってすぐに決壊してしまった。
大量に印刷された名刺ではなく、野崎が手書きしたメモなのだ。
それはつまり、晴樹がここを訪れるだろうと信じて、用意をして待っていたということだ。
「あ……晴樹、て…」
確かに野崎は、そう呼んだ。
3年間苗字で呼び続けていたのに、人の名前を覚えるのが苦手だと言っていた彼の口から当たり前のように出てきたのだ。
「…んだよ、もう」
彼もまた、その多忙な日々の中でも晴樹のことを忘れてはいなかった。
晴樹、と心の中で呼びながら待っていた。
そう思うと、帰れと言われた理由が分かったような気がする。
勿体無いのだ。
久しぶりの会話を、こんな知らない廊下で済ませるのは。
「…昌宏さん」
次に会う時は、もう先生なんて呼ばない。
チャンスをくれるならモノにしてやる…2年前に立てた誓いを、改めて。
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