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第8章 2
急くクガミの心そのまま小走りのような歩調が、イザナの屋敷に近付くに連れ駆け足へと変わっていく。
駆け込むように屋敷の中へと上がり、真っ直ぐに奥のイザナの部屋へと向かう。と、襖が薄っすら開いていた。
(中にいるのか?)
クガミは隙間から顔を半分出し、中を覗き込む。が、ざっと見た限りではイザナの姿は見当たらない。
もしかしてうろの中にでもいるのだろうかと、部屋の中へと入って確認するが、うろに敷かれた畳の上には綺麗に畳み片付けられた寝具が置いてあるだけでもぬけの殻であった。
しかし、この場に居ないとなるとイザナは一体何処にいるのだろうか?
(ヤエに少し聞いてからくればよかったか……)
気ばかりが急いてしまっている自分に、クガミは苦笑いを溢す。が、空回っているのだとしても、何故かそれが悪くないと思えてしまうから不思議だった。
「さて、次はどこを探したものか……」
クガミは顎下に拳を当て考え、そうして二つの場所に見当を付けた。一つは調理場で、もう一つは禊をしたあの泉だ。
腹の空き具合からして昼食にはまだ早い時間であるから調理場にいる可能性は低くなる。となれば、泉にいる可能性が高くなるのだが――――
「辿り付けるかどうかだが……行ってみるしかないか」
自分自身に言い聞かせるように呟き、イザナの部屋を出る。
あの泉には禊をしたその日を最後に一度も足を運んでいない。というのも、一度気紛れにあの泉目指して探索をしたことがあるのだが、どういうわけか辿り着くことが出来なかったのだ。そのうち、意識の隅に追いやられ存在自体を忘れてしまっていた。
今になってその泉を思い出したのは、クガミの頭の中に水浴びをするイザナの映像が一瞬過ぎったからだ。
勘であるのには違いないが、クガミには何故だかそこに本当にイザナが居る気がしていた。
行き先を泉に決めたクガミは、さっさと屋敷を後にした。
屋敷を出たその足で、そのまま見渡す限り一面桜の樹ばかりの中へと突っ込んで行き適当に曲がったり、直進したりを繰り返す。ヤエと散歩をする時は迷わないようにと桜の樹に目印を付けたりして進むのだが、今のクガミの頭の中からは帰り道の心配などすっかり抜け落ちていた。
右に曲がって、直進して。今度は左に折れて、桜の樹々の間を抜ける。と、不意に視界が開け、涼やかな水の音がクガミの耳に届いた。
なみなみと水を湛え、桜の樹に周りを囲まれたその泉の中ほどにイザナが居た。
水浴びをしていたのか、彼は裸身で、筋肉質な背が水に濡れなんともいえない艶を放ち、彼が動く度に隆起する。なめらかな肌を水が伝い滴り落ちていく様は健康的にも見えるし、酷く扇情的にも見えた。
ごくりとクガミの喉が鳴る。誘われるように踏み出した足が、落ちていた小枝をパキリと踏み折った。クガミは慌てて足を上げてみるも、そこには二つになった枝が落ちているだけだ。
音で気が付いたイザナが振り返り、クガミをその視界に収めると目元を微かに和らげた。
「クガミ、どうかしたのか?」
「いや、あの……」
尋ねかけられ、クガミは口ごもる。素直になると決めたばかりであるのに、本人を前にするとやはり臆してしまう。
言いにくそうにしているクガミの様子を見たイザナが、ざばざばと音を立て泉の中から出てこようとする。
クガミは大丈夫だ、とでもいうようにイザナを手で制しゆっくりと息を吐き出した。
「話が聞きたくて来た」
「話?」
イザナが眉を上げた。
「アンタ、ここ最近触れようとしてこない、だろう?」
「…………」
まどろっこしいのは好きではないからさっさと本題に切り込んだのだが、イザナは形のいい唇をぽかんと開け赤色の瞳を瞬かせるばかりだ。
あまりにもそれ以外の反応がないものだから、不安になったクガミはイザナの方へと近付く。水際ぎりぎりまで寄り、手を伸ばせば届きそうなほど近くにあるイザナの顔を見つめる。
と、不意にイザナの腕が持ち上がった。ゆるりと動くそれを目で追っていると、自分の小袖の裾を握るのが見えた。
次の瞬間、ぐんと泉の方へ引っ張る力が加わりクガミの身体は水の中へと飛び込んでいた。
バシャンッ、と大きな音が立ち、ひんやりした感触がクガミの全身を包み込む。小袖を握られた時点で予想は付いていたから驚きはないが、できれば引き摺り込む以外の方法をとってほしかった。
(……まあ、いいか)
のんびりと構えつつ、クガミは水面へと顔を出す。髪から滴る水を煩わしげに拭いながら、クガミは自分を引き摺り込んだ張本人を見た。
クガミを水の中に引き摺り込んだ際に水を被ったのだろうイザナが、大きな手で髪を掻きあげる。それがまた色っぽく思え、クガミの鼓動を乱れさせる。
「……アンタのせいで濡れた」
肌に貼り付く布地が不快で、顔を顰めた。が、気分は高揚している。吐き出す息は勝手に熱くなり、イザナの視線を受ける肌が粟立つのが自分でもわかった。
「お前があんなことを言うのが悪い。煽っているのか?」
「そうだ、と言ったら?」
一歩近付き、自分とイザナとの距離が縮まる。胸板同士がくっつきそうなほどの近さに、イザナの背が僅かに仰け反った。多分、クガミ自身の変わりように狼狽しているのだろう。
「……どうした? お前らしくもない」
「色々考えるのをやめただけだ」
そう口にして、クガミは気分がやけにすっきりとしていることに気が付いた。
今までは、行動一つとるのにも沢山のことを考えて、自身の気持ちよりも周りがどう思うかを気にしてきた。ヨキの父母にも“貴方の好きなようにしていいのよ?”と言われたが、皆が喜ぶことが自分のしたいことなのだと思い込み、本当に自分がしたいことは封じ込めてきた。
それが当たり前で――――しかし、いつしか重荷になっていたのかもしれない。
(考え過ぎていたのかもしれないな……)
軽くなった体と心で、クガミはそんなことを思った。水を吸った小袖が絡む腕を持ち上げ、イザナの厚い胸に触れる。
と、クガミの指先にひんやりとした感触が触れた途端、びくりとイザナが身体を跳ねさせ、後退りした。
「ッ、……お前は、ヨキのことを好いていたんだろ?」
クガミは聞えてきたイザナの声に、目を数度瞬かせた。自分は隠し事には長けていないが、分からないようにと気をつけてきたつもりだ。だからヨキに向けていた恋心も気付かれていないはずだと思っていたのだが。
「知ってたのか?」
「そ、れは……」
イザナがわかりやすく顔を背ける。たったこれだけの仕草で、クガミはイザナが早い段階でクガミの秘めた片想いに気が付いていたのだと悟った。そして、“好いていた”と過去形で言ったことからもクガミの片想いは秘められたまま終わりを迎えたことも知っているのだろう。
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