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第8章 踏み出す時 1
クガミがヤエと顔合わせを果たしてから更に一週間ほどが経とうとしていたが、クガミが不安になるほど平穏な時間が続いていた。
ウツヒが何かをしてくる様子もないし、イザナとの行為もあれきりで。毎日イザナの依り代のうろの中で共に眠っているが、口付けをするだけでそれ以上のことはしてこない。
身構えているのはいつも自分だけで、イザナはクガミの額に軽く口付けるとすぐに眠り込んでしまうのだ。
(不満……というわけではないが、こう……納得が出来ない)
今日も今日とて晴れ空に美しい桜並木が映える神域の中を、クガミは仏頂面を引っさげて歩き回っていた。
ヨキを見つける前までは、ハクオウの街中を歩き回っていたから運動不足など感じなかったのだが、ここ一週間ほどはそれもなくなってしまい正直暇を持て余していたのだ。
本でもあればまた違ったのだろうが、試しにイザナに貸して貰った本は古すぎてクガミには字を読むことすら出来なかった。
次に、料理をしてみようと思ったが、厨に足を踏み入れた瞬間にイザナが「お前がそんなことをする必要は無い。俺に任せておけ」と、クガミを追い返してしまった。
他に出来るものは、と考えた時に掃除が思い浮かんだので、いざ布をもって廊下に立つと、通りかかったイザナによって床を拭く前に布を取り上げられてしまった。
やる事為すこと全て駄目だと言われれば、当然腹が立ってくる。しかも、鬱憤が溜まっているので尚更だ。
「じゃあ、一体何をすればいいんだ!!」
と怒り交じりに叩き付け、漸く任されたのが――――
(ヤエとの散歩、とはな……)
クガミはハァ、と溜息を溢しながら隣を見た。
ふんふん、とご機嫌に鼻歌を歌いながら、ヤエが半透明な身体で浮いている。
ヤエと話が出来るのは、クガミとしてもありがたいことなのだが。これが困ったことに、ヤエがイザナ以上に話を聞かない性格だった。
ふらふらとあっちに行ったかと思いきや、今度はこっちに戻ってきて、思い出したようにサリアとの思い出話(惚気)をヤエ自身が満足するまで話すのだ。そんな彼と数日も共にいれば、クガミがげんなりするのも仕方が無いことだと言えるのかもしれない。
結局、今日もかれこれ三周目になるサリアとヤエの馴れ初めを半分右から左へ聞き流しながら、小一時間ほど歩いているのが現状だ。
もういい加減話の種も尽きたのではないかと思うのだが、彼の声が止むことは無い。
どこからか話題を見つけてきて、必ずサリアとの思い出に繋げてしまうのは、もう一種の才能だといえるだろう。
(まあ、……退屈よりはまし……なんだろうか)
クガミは内心苦笑いをする。
と、不意にヤエがひょいっとクガミの顔を覗き込んできた。
『そういえば、最近元気ないね。どうかしたのかな?』
話に夢中だと思っていたが、どうやら彼はクガミの様子もきちんと見ていたようだ。
「……別に体調が悪い訳じゃない」
だから気にするな、とクガミがゆるく頭を振る。
『それは分かってるよ。クガミは見るからに体丈夫そうだし。僕が言ってるのは、君に悩み事があるんじゃないのか、ってこと』
ヤエがクガミの鼻先に人指し指の先を突きつけて言う。内容が内容であるだけに相談出来ないと考えたクガミの誤魔化しを、ヤエは見抜いていたようだ。
ここまではっきり言われてしまうと、違うと否定することは難しい。しかし、だからといって父親相手に『イザナが何もしてこないことに対して悩んでいる』と打ち明けるのも、違う気がする。
「そ、れは……」
どうしたものかと悩むクガミは、言葉を濁す。
『何? もしかして、イザナがしつこくて嫌になったとか?』
「いや、そんなことはない」
『そう? それならいいんだけど。僕としては、イザナにも幸せになってもらいたいけど、それ以上に君に幸せになって欲しいんだ。二人がくっついてくれれば僕としては安心だけど、君が嫌だったらイザナを蹴り倒してでも逃げていいからね』
蹴り倒す、かどうかはその時になってみなければ分からないが、ヤエが自分を心配してくれていることはその一言で痛いほどに伝わってきた。
だから、だろうか――――
「……本当に、嫌になった……という訳じゃ、ないんだ……。その、ただ……」
と、クガミはぽろりと溢してしまった。そうして、ハッとして口を腕で覆い隠したが、しっかりヤエに聞かれてしまった後である。
『ただ?』
ヤエが、続きを早く聞かせろとばかりにクガミへ詰め寄ってきた。
ここまで口にしておいて無かったことにするのは無理だ。クガミは仕方なく腹を括ると、渋々話し始めた。
「あれ以来、……触れてこようとしないのが……」
白状する声が小さくなる。この言い方では、まるでクガミ自身がイザナに触れられたがっているように聞えてしまう。
(俺は、何を言っているんだ……)
恥ずかしくなったクガミは、熱を持ってしまった頬を隠すようにヤエから顔を背けた。
『えっと、要するに……襲って欲しい、ってこと?』
「ッ!? ち、違う!! 別に、そんな意味ではなくて、だな。俺だけ身構えてるのが、癪に障るというか……」
クガミは力の限り否定すると、ごにょごにょと不明瞭な声で言い訳を口にした。
流されるのはあの一夜限りで。その時クガミが感じていた気持ちも一夜で終わると思っていたのにどうしたことか。あの日芽生えた気持ちは、日を追うごとに増していって、今ではクガミの胸の中ではち切れんばかりに育ってしまっているのが現状だ。
幾ら言い訳を口にして誤魔化してみたところで、とっくにクガミは自身の本音に気が付いてしまっている。
(……これも、腹を括るべきなんだろうか……)
クガミがそんなことを考えていると、ヤエの方から『そうだ!!』と大きな声が上がった。
『なら、イザナにも同じ目にあってもらえばいいんじゃないかな?』
これぞ名案、といったふうにヤエが胸を張って言う。
「同じ目……」
クガミは、自分がイザナの額に口付ける姿を想像して――――頭を振る。絶対に無理だ。
自分は、そんなことを出来るほど色恋に慣れている訳でもないし、簡単に実行できるほど素直でもない。
やはり、解決策などなく、クガミがこの神域から出て行くその日まで悶々とした気持ちを抱え続けなければならないのだろうか。
そんなふうにすら思い始めたクガミの耳に、ヤエの声が聞えた。
『クガミの思う通りに動いてみたらいいんじゃないかな。頭でばっかり考えていると、大事なものを逃がしちゃうよ。時には、ぶつかることも大事だって』
「だが……」
クガミは言いよどんだ。
ヤエの言っていることは分かる。
自分が意気地なしで尻込みばかりしていたせいで、結局気持ちすら伝えられずにヨキとの関係は別離という最悪の形で終わってしまった。だから、殊更ヤエの言葉はクガミの心に沁みた。
しかし、それを頭で理解するのと実際に行動に移せるかどうかは、まったくの別問題だ。
特に、イザナと自分では、同性同士という問題に加えて人間と神といった種族の隔たりがある。勿論それは巫子全てに共通することだろうが、クガミはその巫子ですらないのだ。いくら素質があるといわれても、知識も技術も何も無い。それどころか、イザナが危ない時ですら察してやることも、助けてやることも出来なかった。
ただ、自分に出来ることと言えば、身体を張ることくらいだ。
(……イザナには、相応しい巫女が見付かるはずだ)
クガミの脳裏にイザナの姿が浮かぶ。
彼の隣にいるのは、きっと自分のような体格ばかりがいいような男ではなく可憐な巫女の方が似合うだろう。
寂しくもあるが、それでいい。自分には、番になる覚悟も無いのだから。
心を満たす諦念に理由を付け、クガミはそんな自分に苦笑いを浮かべた。長年の片想いで、逃げ癖がついてしまっている。
『……君は、どうしたいの?』
そんなクガミを見透かしたかのように、ヤエの真剣な瞳がクガミを真っ直ぐに見ていた。
「俺は……」
本心の周りを塗り固めていたはずの諦念が、ヤエの言葉でひびが入り、ぽろぽろと崩れ落ちていく。
『イザナがどう思ってるか、とか。イザナには相応しい人がいるんじゃないのか、とか考えちゃ駄目だ。君は、君自身の心に従うべきだよ』
柔らかいヤエの声が、クガミの背を押した。
「……いいんだろうか?」
控えめな声で、クガミは尋ねた。
イザナを諦めなくても、いいのだろうか?
自分に素直になってもいいのだろうか?
たった一言の中に込められたそれらのクガミの気持ちは、ヤエに伝わっていたのだろう。なにもかも包み込むような優しい笑みが、クガミへと向けられる。
『いいに決まってる。だって、これは君の人生なんだから。遠慮なんかせず、ぶつかっておいで』
ヤエらしく、同時に父親を感じさせるその言葉にクガミの胸が熱くなる。
ああ、やはり彼は自分の父親なのだ。
「ヤエ……、いや――――」
クガミは頭を振った。今まで一度も呼べていなかったが、きっと今ならば言えるはずだ。
ほんの少しばかり残った気恥ずかしさを飲み込み、すっと短く息を吸い込んだ。
「……父さん、ありがとう」
気恥ずかしさのせいでクガミが顔を背ける間際に映ったヤエの表情は、嬉しそうな笑みが浮かべられていた。
今はまだ、こういった素直でない行動しかとれないが、呼び続けている内に自然にヤエのことを父と呼べる日が来るのかもしれない。
クガミはそんなことを思いながら、踵を返した。
勿論、行き先はイザナの元。自身の素直な気持ちを伝えるために――――。
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