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第7章 8
ぐるりと大きな桜の幹に添って半周し、先ほどクガミが見ていた桜の真裏にたどり着く。と、正面からは見た時は気が付かなかったが、桜の幹に根元から大きな亀裂が入っているのが見えた。
亀裂の幅は人二人が簡単に収まってしまうほどで、樹の中心部にも達していそうなほどに深い。縦の長さに至ってはクガミが見上げて見える範囲よりも更に上まで続いているようで、この桜の樹が倒れていないのが不思議なほどの大きな亀裂だった。
『その傷が原因で僕は遅かれ早かれ消滅するはずだったんだ。でも、イザナに力を譲ることで、どうにか僅かな思念としてこの樹に残ることが出来た』
透けるヤエの手が、幹に刻まれた痛々しい傷を撫でる。
『今の僕はイザナの力で支えてもらうことで、君やイザナと話せるんだよ』
ヤエのその一言を聞いて、クガミはイザナの行動を思い出していた。両手で桜の枝をを持ち唱えていたが、恐らくヤエに力を送っていたのだろう。
イザナには後で礼を言う事にして、クガミにはヤエに尋ねたいことがあった。
「……傷を負った、と言ったが……一体、誰に負わされたんだ?」
イザナの問い掛けに、ヤエの表情から笑みが消えた。
『……君は真実を知って、どうするのかい?』
クガミの出す答えを見定めるように、ヤエの視線が鋭くなる。
返答次第では、きっとヤエは真実を教えてくれない。そんな予感がクガミにはあった。
クガミは固唾を呑む。そうして、頭の中で言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「今は、分からん。ただ、アンタを父親ときちんと呼べるほどに知らない。だから、……、仇討ちのようなことをするつもりは無い」
ヤエが父親であることは間違いないとクガミの直感は告げていたが、“父親”と呼べるかどうかはクガミの中ではまた別の話だ。
ヤエに傷を負わせた相手が憎くないわけではない。が、親子として過ごした時間が短いせいか、憎悪よりもただただ悲しいといった感情の方が強かった。
クガミはヤエの様子を窺がう。
ヤエは自分のことを薄情な息子だと思っただろうか? と心配していたのだが、クガミの杞憂だったようだ。
『ふふ、そっか。うん、君はいい子に育ったね』
とても嬉しそうにヤエが笑う。触れれもしないのに、褒めるようにクガミの頭に手を置いて撫でる仕草を繰り返した。
実際に触れられているわけではないのに、くすぐったい感じがしてクガミはどういった表情をしていいかわからない。笑おうにも、普段笑いなれていないせいで口元が引き攣ってしまうのだ。
結局、仏頂面のまま暫く撫でられていると、満足したヤエが『ありがとう』とクガミから離れた。
ヤエが軽く瞳を閉じる。どう話したものか、と考えているようだった。そうして、数拍置いて静かな声で話し始めた。
『……僕に傷を負わせたのは、ウツヒだ。でも、僕もいけなかったんだよ。彼の気持ちや彼の置かれた状況を知りながら……どうしても母さん――――サリアを手放すことが出来なかったんだ。サリアと出会ったのは、ウツヒの方が早かった。でも、僕はサリアに一目惚れして……サリアも僕を好いてくれた。ウツヒからしてみれば、友だと思っていた者に横から想い人をとられたんだ。恨まれても仕方がないよ』
ヤエが、自嘲的な笑みを浮かべる。彼には似合わない笑い方で、それだけ彼が後悔していることが分かってしまった。
恋、だの愛だのは、どうしてこうもややこしいのだろう。
ヨキに振られ、ウツヒの気持ちが少し分かるだけに、ウツヒだけに全ての責任があるとはクガミには思えなかった。
きっとヤエが言う通り、ヤエにも、そしてサリアにも責任があるのだ。
皆が幸せになれるような方法があればよかったのだろうが、それが夢物語である事はクガミとて十分に理解している。
苦い思いを噛み締めながら、クガミはヤエの話に耳を傾ける。
『僕自身はどうなっても構わなかったんだ。だけど……彼の怒りの矛先は僕以外にも向いてしまってね。君を身篭った彼女を守り、ウツヒの目に届かない場所へ飛ばすのが精一杯だったんだ』
ヤエの話は、あえて詳細を話していない節があった。が、それが分からないほどクガミは鈍くは無い。
ウツヒが自分を身篭っている状態のサリアに攻撃しようとし、それをヤエが庇ったためにヤエは依り代に深い傷を負うことになったのだろう。
『僕はね、ウツヒともう少し話し合えばよかったと後悔することはあっても、サリアと番になったことだけは後悔していない。彼女も、そう言っていたよ。だから、生まれてきてくれて、そして元気に育ってくれて、ありがとう。君は僕とサリアの宝で、大切な息子だ』
真剣な眼差しでクガミを見つめるヤエが、そう言って笑んだ。
「ッ……」
クガミは、言葉を詰まらせた。つん、と鼻の奥が痛み、涙の気配が直ぐそこまでしていた。
捨てるほどいらない子だったのだろうかと、心のどこかで思っていた。
しかし、それこそがクガミの思い込みだった。自分は、きちんと両親に愛され、望まれて生まれてきたのだ。
じわりと目尻に滲んだ涙を気取られぬように、クガミは下を向く。そんな自分の頭を、ヤエが半透明の手でゆっくりと撫でていた。
それから二、三言葉を交わした頃にヤエが、『さてと、そろそろ時間かな』と別れを匂わせる言葉を発した。
「……もう、話せないのか」
まだ話し足りない、とクガミはヤエに言う。
『話そうと思えばいつでも話せるよ。イザナに力を借りることにはなるけどね』
ヤエがおどけて片目をつぶってみせた。
今回の邂逅が最後ではないと分かったクガミは、「そうか」と名残惜しさを堪えるように拳を握り微かに笑う。
話し始める前までは、自身の父親である事を疑っていたというのに、今ではすっかりクガミの中で真っ白に塗りつぶされていた父親の顔が、ヤエの優しい顔へとすり替わり鮮明に焼き付いてしまっている。
これも、血の繋がりがなせることなのだろうか、とぼんやり考えながら桜の樹の正面へと戻っていると、不意にヤエが『あ!!』と声を上げた。
『そういえばイザナとはもう番の儀式はした?』
ヤエの唐突な質問に、クガミは転びそうになりながら立ち止まる。そうして、ぶんぶんと頭を横に振った。
「ち、違う!! イザナとは……別に……何も」
蚊の鳴くような声で答えながら思い出したのは昨日の事で。クガミは、頬が熱を持つのを感じた。
『隠さなくてもいいって。でも君からイザナの香りが強くするから、てっきり儀式は済ませたものかと思ったのになぁ』
ヤエが残念そうに言う。
(匂い?)
クガミは自身の腕を鼻の近くに持ってきて匂いを嗅いだ。
まさか、昨日の行為の最中についた匂いが取れていないのかと心配になったが、そんなことはないようだ。ただ、微かだが自分の物ではない桜の香りがふわりと鼻を擽り、クガミはなんとも言えない気持ちになった。
たぶん、ヤエもこの香りとそれが意味するところに気が付いたのだろう。
これ以上、イザナとの仲を実父に探られるのは避けたいクガミは、
「……番の儀式をすると、どうなるんだ?」
と興味ついでに話を逸らした。
昨日イザナに抱かれたことで番になってしまったのかと不安になったが、ヤエの口ぶりからすると、イザナと交わることが儀式ではないようだ。
では一体儀式とはどういうものなのだろうか?
それに、イザナがあれほど自分を番にしたいと言い寄って来ていたのに、儀式を行わない理由は一体なんなのだろうか?
別に番になるつもりはさらさら無いが、イザナならば自分に無理矢理儀式を行うことも出来そうなのにそうしない理由も気になったのだ。しかし、それを直接ヤエに尋ねようものならば、からかわれるか根掘り葉掘り聞き出されるに違いない。
だから、敢えて遠まわしな尋ね方をしたのだが、ヤエはクガミの質問の裏までは読み取れなかったようで、クガミは内心安堵していた。
『そうだなぁ、神と同じ年月を生きることが出来る、とかかな? 他には――――』
と、不意にヤエの声が途切れた。
「ヤエ、余計なことをクガミに吹き込むな」
気が付くとイザナが自分達の側に両腕を組んだ格好で仁王立ちしている。きっと気になって様子を見に来たのだろうが、それにしては頃合が丁度良すぎる気がする。
もしかすると、ヤエが話そうとしていた儀式の内容を知られたくないがために、話の途中で割って入ってきたのではなかろうか。
(……なんて、考えすぎか)
クガミは頭を振ってそれまで考えていたことを追い出す。
『えー、イザナってば、クガミに逃げられてもしらないよ?』
「……その時はその時だ」
じゃれ付くようにイザナの周りをふわふわと漂い回るヤエを眺めながら、「今日はもう聞けない、か」と一人ごち、クガミは屋敷へと足を進めるのだった。
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