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肺を圧迫される痛みに顔を顰めた。水の儀式以降時折訪れるようになった痛み。鈍くズキズキと主張する痛みにもようやく慣れ、誰かに悟られることもなく隠し通せる自信があった。
生徒会室のある特別棟には部活棟の渡り廊下を経由していかなければいけない。渡り廊下は点滅を繰り返す蛍光灯で夜はそれなりに雰囲気が出て苦手だった。
校舎と少し離れているために妙な静寂に包まれ、いらないことまで考えさせられる。
あと少しで特別棟の入口だというところで紅葉の前に障害物が立ちはだかった。
「あっれー? 誰かと思ったら会計様じゃーん」
床に座ってゲラゲラと汚い笑い声をあげる複数の男子生徒に眉根を寄せた。
ちらりと彼らが背にしている部室を確認すればバスケ部と書かれている。金持ちおぼっちゃま校だからと言って不良がいないわけでもなく、特にバスケ部はガラの悪い生徒が集まる風習があった。
「会計様最近綺麗なったよなー」
「それな! 金パ眼鏡んときはただのいけすかねぇチャラ男かと思ってたけど、黒髪にしただけでこんな印象ってかわるのな!」
「黒髪ってか眼鏡じゃねえの? めっちゃ睫毛なげー」
チャラ男なお前らにチャラ男とは言われたくない。
紅葉のことなどお構いなしに会話を続け、思わず溜め息が零れる。不意に、一番近くに座っていた男が手を伸ばしてきた。
へらりと笑って手を躱せば、同時に収まっていたはずの胸の痛みに襲われ体をふらつかせる。たたらを踏んで後ろに倒れそうになるのを唖然として見送る彼らだが、その瞳に映しているのは紅葉の背後だった。
「紅葉君、大丈夫?」
「え、かざりさん?」
背中を支えたのは淡い笑顔を浮かべた神原。
「……お前なにしてんの?」
「何って、西東 たちが俺の紅葉君に手ぇ出そうとしてるから駆けつけた的な? 正義のヒーロー的な?」
「俺の、って……えっもしかして会計様とお前ってそういう関係!?」
目をいっぱいに見開かせた彼らはフレンドリーに神原と言葉を交わしており、親しげな様子だ。
軽い掛け合いを他所に、そういう関係、と頭の中で反芻する。ついと告白を受けたことを思い出してしまい、顔が赤くなった。
視線を伏せて赤面した顔を隠せば一番近くにいた彼(西東といったか)と目があった。
「……」
「……脈アリ?」
「っ!」
ぼそりと呟かれた一言が耳に入り、火がついた勢いで顔が熱くなっていく。神原にだけは気づかれたくない。
いつの間にか、背中を支えていたはずの腕は紅葉を逃がすまいと前に回って腰をがっしり掴んでいた。
脳内に浮かんでいた逃走の二文字は霧散した。
「西東なんか言った?」
「いやぁ? なんも言ってねぇよ」
ニヤニヤと笑う西東は完璧この状況を楽しんでいる。
逞しい腕に抱かれ、布越しに感じる熱に意識してしまう。芽吹き始めている気持ちに気づかないふりをするはずだったのに。それは気づいていないでは済まされないほどに、大きく成長していた。
感情を制御できず、全てをぶちまけてしまいそうになるときがある。それがとても怖かった。
「じゃ、会計様も頑張って」
西東の声にハッと意識を浮上させる。
未だ神原の腕の中、校舎に向かって遠くなる西東たちの背中を見つめた。
「紅葉君」
やけに近い声に睫毛が震えた。
高すぎず低すぎない声はスッと馴染むように耳に滑り込んできては鼓膜に溶けていく。
「紅葉君」
「なんですか」
「体調悪いの?」
「別に」
「嘘はダメだなぁ。立ち眩み? 目眩してたでしょさっき。最近顔色も悪いし、無理してるんじゃなーい?」
「してませんって」
「紅葉君ってば細過ぎて心配になるんだけど」
「ねぇ委員長。会話のキャッチボールしましょーよ」
ムスッと言えば笑い声が返ってくる。
余裕のない紅葉に対して余裕綽々の神原は心底嬉しそうに、楽しそうに笑いを零す。
今まで以上に距離の近い、神原との距離に心臓が破裂しそうだった。
「紅葉君、好き」
噛み締めるように囁かれる。
「好きで好きで仕方ないんだ」
拘束された紅葉にはどうすることもできず、ただただ顔を赤くするしかない。
体中が熱くなり、全ての意識が耳に集中する。
「あっ、のさぁ……! 僕、断ったじゃん」
「うん。知ってる。でも、俺諦め悪いんだもん。仕方ないよね」
「大の男がっ、もんとか使うなし……!」
ごまかそうと、関係ないことを口にしてみるけれど顔の熱も赤みも取れることはなかった。
静かな廊下に二人の息遣いだけが聞こえる。それがより現実味を帯びさせた。
バクバクと暴走する心臓の音がどうか届かないことを祈り、なんとかこの状況を脱する術を考える。早く、早くこの場を抜け出さなければ取り返しのつかないことになりそうで、背筋が震えるのだ。
「紅葉君さぁ、自分の気持ちに素直になってよ」
「……」
「おうちのことばっかり考えて、自分のことなんか二の次、三の次でしょ。もうちょっと自分を優先してもいんじゃなーいの? 俺が思うに、紅葉君、俺のこと好きでしょ?」
「っなにを」
何を持って言うのか。
一際跳ねた心臓の音に驚く。
体の前で結ばれていた手が紅葉の胸に押し当てられ、余計に鼓動を意識せざるを得ない。どくん、どくんと早鐘を打つそれに神原は小さく笑いを漏らした。
「ほら、こんな早いよ、紅葉君の心臓の音」
「も、……風璃さんっ」
懇願するみたいな切ない声に恥ずかしくなった。
名前を呼ばれるたびに頭の奥が甘く痺れて、麻痺でもしたかのような感覚に陥る。
耳から滑り込んでくる声が、包み込む腕が、触れる指先が、全てを溶かしてしまいそうでおかしくなる。
いっそ溶けてしまえば楽なのに。
「紅葉君、好きだよ」
ストン、と胸に甘い甘い言葉が落ちた。
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