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6 思わぬ客
「タロ、足貸して……はい、次後ろな」
タロにカミングアウトした日から3日後の夕方、散歩から帰ってきてタロの足を拭いていると、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい。
あ、タロは奥に行っててくれよ」
たぶんいつもの宅配便の人か誰かだろうけど、もし初めての人だとタロを見て驚くといけないから一応タロに奥に行ってもらってから、さっき閉めた玄関の鍵を開ける。
「久しぶり、学 」
「光 ……」
玄関の前にいたのは、突然俺の前から消えた元彼の光だった。
「お前……」
すでに吹っ切っているとはいえ、光に言いたいことは山ほどあったはずなのに、いざ本人を目の前にすると言葉が出てこない。
「いきなり来てごめん。
俺、学の前に顔を出せるような立場じゃないのはわかってるんだけど、でもどうしても会いたくて」
俺が何も言えずにいる間に、光はそんなことを言いながら俺を押すようにして家の中に入ってきて、玄関の引き戸を閉めた。
光は中に入ると、興味深そうに家の中を見回した。
「ふーん、古そうに見えたけど、中は新しいんだ。
いい家だね。買ったの?」
「まさか。
借家だし、ちょっと訳ありなんで家賃も安いんだよ。
っていうか、お前、俺がここに住んでいること、誰に聞いたんだ?」
俺がここに住んでいることを知っている人達は、みんな光のことをよく思っておらず、俺に黙ってここのことを光に教えるとは思えなかったので、不思議に思ってそう聞いてみると、光は不自然に視線をさまよわせた。
「ええっと……、SNSを見たら学がこの近くの商店街によく行ってるってわかったから……」
「え? まさか商店街からずっとつけてきたのか?
なんでまた、そんなストーカーみたいなこと……」
そう自分で言いかけて、俺は光がわざわざそこまでした理由に思い当たった。
おそらくだが、光は俺に会う前に、俺が今どんな暮らしをしているのか確認しておきたかったのだ。
この家が古いとはいえ一戸建てだったから、こうして俺の前に姿を現したものの、もし俺が狭いぼろアパートにでも住んでいたら、そのまま会わずに帰ってしまったかもしれない。
「ごめん!
だって、もし俺が電話とかメールしても、学は会ってくれなかっただろう?
だから、いきなり訪ねて行くしかないと思って」
光はそんなことを言っていたが、俺には言い訳にしか聞こえなかった。
だいたい、光に取られたお金のことだってあるのだから、普通に考えたら連絡がくればとりあえず一回くらいは会うと想像がつくはずだ。
「学、俺のヌードの絵、結局売ったんだね。
この前、演出家の寺嶋太陽が買ったって、SNSに何枚も写真をアップしてたの見つけて驚いたよ」
「ああ、あの絵、売れてたんだ」
寺嶋太陽というのは、確か光とつきあっている時に、ゲイだと公言している有名な演出家なのだと聞いた覚えがある。
あのヌードの絵は元橋さんに預けてそのままになっていて売れていたことさえ知らなかったが、確かに元橋さんならゲイの人にまとめて売り込むくらいのことはやりそうではある。
「悪かったな、勝手に売りに出してしまって」
「ううん、それはいいんだ。
それより、学、すごいよ!
あの寺嶋さんに絵が認められるなんて!」
俺にはその演出家のことはよくわからないが、光はかなり興奮気味だからきっと凄い人なのだろう。
けれども俺にとってはやはり、あの絵は本来売るべきものではなかったという意識があるので、光のようには喜べなかった。
「ねえ、学。
また、ああいう絵を描きなよ。
モデルだったら、俺、いくらでもしてあげるよ」
そう言った光は、付き合っていた頃に何度も見た、あの顔になっていた。
色っぽくて、タチのゲイならすぐにでも食らいつきたくなるような、男を誘う顔に。
「俺、学にひどいことをしたって、すごく後悔してるんだ。
あんなふうに学の前から消えたりしなければよかった、学と別れなければよかったって、あれからずっと思ってた。
ね、学。
俺たち、やり直さない?
学のところから持ち出したお金は、少しずつでも必ず返すからさ」
もしも、光がそう言い出したのが光が出て行った直後だったとしたら、たぶん俺は光の提案を受け入れていただろう。
下手をしたら、光の表情に誘われるまま、その場で光のことを押し倒していたかもしれない。
けれども今の俺は、とてもじゃないがそんな気にはなれなかった。
付き合っていた時はあんなにそそられていた光の色っぽい表情を見ても、少しも心が動かない。
ああ、もう本当に好きじゃないんだなと、どこか他人事のように思う。
「お金は、もういいよ。
モデル料だと思って、取っておいて」
光は喜んでいるようだからよかったものの、本来ならあんな絵をモデルに許可なく売った上に、買った人がSNSに写真を上げたりしたら、こちらが迷惑料を払わなければならないくらいだ。
元橋さんも手切れ金だと思えと言っていたし、金のことはもうこれでチャラということにすればいいだろう。
「それと、俺、光とよりを戻す気はないから」
「そんなこと言わないで、考え直してよ。
俺、心を入れ替えたから、もう二度とあんなひどいことはしないし。
それに学、まだ俺のこと好きでしょ?」
俺の気持ちを探るような、しかしその実 自信たっぷりな光の言葉を、俺ははっきりと否定する。
「いや、好きじゃないよ。
これからも、もう光のことを好きになることはないと思う」
だって、今の俺には誰よりも好きで大切な存在がーータロがいるから。
「意地はらなくてもいいよ。
学、俺のこと抱きたいでしょ?」
はっきりと断ったのに、それでもまだ、光は俺に言い寄ってきた。
そして、誘うような色っぽい目で俺を見ながら、そっと俺の腕に触れた、その時だった。
「ご主人様に触らないでください!」
叫ぶような声と共に、パシッという音がして、俺に触れていた光の手が払われた。
「えっ?」
「た、タロ?」
驚く俺と光の間に、いつの間にか人間に変身していたタロが割り込んでくる。
その表情は今まで見たこともないほどに厳しく、相当怒っているようだ。
「ご主人様は、あなたのこと好きじゃないって言ってるじゃないですか。
あきらめて、さっさとこの家から出て行ってください!」
「あの……、学、誰なの、この子」
いきなり出てきて怒り出したタロを、光はものすごく不審そうな目で見る。
「い、いや、その、この子は……」
「この子、高校生?
まさか、中学生じゃないよね?
学、こんな子供にご主人様とか呼ばせてるわけ?
それにパジャマに猫耳って……」
あたふたしている俺の目の前で、光は明らかにドン引きしている。
それはそうだろう。
俺だって、自分の元彼がパジャマで猫耳の高校生にご主人様と呼ばせているのを見たら、ドン引きになる。
「猫耳じゃありません!
犬耳です!」
「あ……そう、ごめん、犬耳ね……」
タロの言葉に答える光は、完全にかわいそうなものを見る目つきになっている。
「学、俺もう帰るね……」
「どうぞ、おかえりください!
それで、もう二度と来ないでください!」
「ああ、うん、もう来ないよ……」
今にも吠えかかりそうな剣幕のタロに答える光は、さっきまでの色気はどこへやら、すっかり疲れた顔になっている。
「俺が言うことじゃないけどさ、学。
警察に捕まらないようにね……」
「ああ、うん……」
「それじゃ、もう会うこともないと思うけど元気で」
「ああ、お前もな」
俺が若干途方にくれた顔でそう答えると、光は玄関の戸を開けて出て行った。
光が出て行くが早いか、タロは玄関の戸をぴしゃっと閉めた。
「こら、タロ。
人前で人間に変身しちゃだめだろ。
光は付け耳だと思ってたみたいだし、尻尾も見えなかったからよかったけど、そうじゃなかったら大騒ぎになってたぞ」
「あ……ごめんなさい」
俺がタロに注意すると、そうきつく叱ったわけでもないのに、タロはみるみるうちにしょんぼりと尻尾を下げ、耳もぺったりと寝かせてしまった。
「いやまあ、俺もタロがあいつを追い出してくれて助かったけどな。
しかしタロがあんなに怒るの初めて見たから驚いたよ。
そんなに光のことが嫌だったか?」
仮にも元彼のことをこんなふうに言うのは何だが、光は人の金を取って姿を消すようなやつなので、タロは野生のカンで光が悪人であることを嗅ぎつけたのかもしれない。
そう思って俺は気軽な気持ちで聞いたのだが、なぜかタロは急にうろたえだしたかと思うと、目に涙まで浮かべ始めた。
「えっ? た、タロ?」
タロにつられてうろたえてしまった俺を、うるんだ瞳で見上げると、タロは今にも泣きそうな声で言った。
「ご主人様…僕、僕……ごめんなさい……。
すいません、僕、ちょっと頭を冷やします……」
そう言うが早いか、タロは俺の目の前で一瞬で犬に戻ってしまった。
「え、どうしたんだ? タロ」
何が何だかわからないでいる俺にぺこりと頭を下げると、タロは置きっ放しになっていたぞうきんで足を拭いてから家に上がった。
そしてそのまま気落ちしたような様子で二階に上がっていくタロを、俺はどうすることもできずに見送ったのだった。
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