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第25話 嘘だけはつきたくない

  「……こ、こんばんは」 「こ……こんばんは」  その日の晩。  泉水が一季の部屋へやって来た。仕事が終わってそのまま訪ねて来たのだろう、泉水はスーツ姿のままである。   +  今日は定時きっかりに職場を出た。  里斗とのやり取りで気が滅入っていたせいもあるが、ちらちらと一季の様子を窺い、仕事に集中できていない田部のそばにいることが、なんとなくいたたまれなかったせいでもある。  おそらく田部は、一季らの会話を耳にしたのだろう。  ――気持ち悪いって、思われてるんだろうな……。  普段とても人懐っこいだけに、こうして露骨に距離を取られるのは、地味にくる。一季は普段と変わらぬ調子を心がけつつも、どこか胃の痛い思いをしながら仕事をこなしていたわけだが。  ――明日から、どういう顔をしてればいいんだろう……。  今日起こった出来事のせいで、うまく頭が回らない。  泉水を寝取られそうにはなるし、一季の元恋人(結局セフレだったわけだが)が嵐山だったということも察せられている様子だし、里斗はどうやら泉水を狙っているようだし、田部にはセクシュアリティが露見してしまったようだし……。  帰宅してシャワーを浴びた後、特に食べるあてもない味噌汁を淡々と作りながら、一季は溜息をついていた。泉水と何をどう話せばいいのか、何から説明すればいいのか、全くもって、分からなかった。   +  そして今、目の前にいる泉水の表情もまた、かちんこちんに強張っている。  玄関先で泉水を出迎えた一季も、次にどんな台詞を口にすればいいのか皆目見当がつかず、ただ「どうぞ……」とだけ何とか呟く。 「お、お邪魔します……」  そうして部屋に上がり込んで来た泉水は、ベッドの脇に敷かれたラグマットの上に正座をした。上着も脱がず、緊張感を漂わせている泉水との沈黙に耐えかねて、一季は冷蔵庫からビールを二本取り出し、センターテーブルの上に並べようとしたのだが……。 「あ、あの……っ、まずは、謝らせてください……!!」 「え?」 「ほんまに、すみませんでした……!!」  泉水は突然、がばりとその場で土下座をした。一季は仰天して、テーブルに置きかけた缶ビールをごろんと倒してしまう。 「あ、あの子! 工学研究科の院生で、ただの学生やて思ってたから、研究室に入ってもろただけなんです!! やましい気持ちがあって、部屋で二人きりになってたわけと違うんです!!」 「あっ、はい、それは……」 「ちょっと油断して膝の上に乗られてしもたけど、何もしてません!! 誓って何もしてません……!! せやから、全然手遅れとかちゃうんです、信じてください……!!」 「あ、あの、もちろんそれは信じてますから。頭を上げてください……」  一季は大慌てで泉水の肩に触れ、身体を起こすよう促した。すると泉水は恐る恐るといった様子でゆっくりと顔を上げ、心なしか潤んだ瞳で一季をじっと見上げている。 「僕の方こそ、あの……ごめんなさい」 「え……? なんで、謝らはるんですか……?」 「あの……嵐山、先生のこと……」 「あ……はい」  嵐山の名前を出すと、泉水の表情が分かりやすく硬くなる。  泉水のそんな顔を見てしまうと、一季の緊張感も否応無しに高まってしまうわけなのだが、ここで尻込みするわけにはいかない。  一季はぐっと息を飲み、覚悟を決めて口を開いた。 「嵐山先生とは……ゲイバーで、知り合ったんです」 「ゲイ、バー……ですか」 「はい……。出会いが欲しくて。……ちょっと前まで、よく行ってた店があるんです」 「……出会い」 「一人でいたくないばっかりに、そういう場所へ出入りして……いろんな人と、してました」 「……」  こんなこと、言わなくていいことかもしれない。泉水が知る必要などないことかもしれない。だが嵐山のことや、これまでのことを説明する以上、ゲイバーに出入りしていたことを隠すことは不自然だろう。  なにより、泉水にだけは嘘をつきたくない。  ただの自己満足かもしれないが、軽蔑されたとしても、嫌われたとしても、泉水には正直でいたいと思った。 「だ……誰としてても、気持ちよくはなれなかったし、相手の男性たちも、僕としててもつまらないと言って……一度きり、っていう人ばかりでした。でも、嵐山先生は僕の反応なんてお構いなしの人だったから、珍しく、関係が続いていたんです。職場が同じって言うことに抵抗はありましたが、嵐山さんは『そっちの方が都合がいい』と言っておられて」  泉水の顔が、怖くて見れない。  握りしめられた膝の上の拳は、微かに震えて筋が浮かんでいる。それを穴があくほどに見つめながら冷や汗を流し、一季は話を続けた。 「でも、あの人も僕とのセックスに不満を抱いていたらしいんです。それで、別の相手を探しに行った先で、他の男性に無理矢理抱かれたらしくて。……それで今は、すっかりネコになってしまわれたみたいなんですけど」 「ネコ……? え? あのガチムチが? ……い、挿れられるほうになったってことですか?」 「……はい。それであの、渡瀬くんに、その相手の男性を寝取られてしまったらしく……」 「えっ? え? 俺に迫って来たのあの、渡瀬くんが? 嵐山先生をネコにした男をネコにして……????」 「ん? いえ、あの、そうではなくて」  嵐山がネコになったという時点でクエスチョンマークが空気中に漂い始めていたが、そこに渡瀬の話が絡み始めたことで、泉水は理解が追いつかなくなってきたようだ。一季は顔を上げ、ぱちぱちと忙しなく目を瞬いている泉水を見つめた。 「ええとですね、渡瀬くんはネコで、嵐山先生もネコ、僕もネコで……」 「あ、ああ、なるほど、そういう……え? でも、あのインテリマッチョはもともとネコちゃうかったわけで、今後嶋崎さんを狙うかもっていう……」 「あ、いえ、嵐山先生は、完膚なきまでにネコにされてしまったようなので、そういうことはもうないと思います」 「えっ、そ、そんなことがあるんですか……」 「ええ、あるみたいで……」 「ほほう……」  泉水は狐につままれたような顔でゆるゆると頷きながら、ようやく一季の眼差しを正面から受け止めた。  目が合うと、泉水はやや頬を染めた。涼やかに整った泉水の双眸に見つめられるだけで、一季の胸も、とくとくと鼓動を速める。照れと気まずさがあいまって、目を逸らしたくなってしまうけれど、一季はひたと泉水を見つめ続けた。 「泉水さんは僕を綺麗だとか、可愛いとか、たくさん言ってくださいますけど……実際はそんな、いいものじゃないんですよ」 「え、いや、そんなわけ、」 「いいえ、浅ましいことをしてました。寂しさを埋めるために、温もりを求めて、行きずりの相手に抱かれてたんです。そうしてるうちにいい出会いがあって、不感症のほうもよくなるかもなんて、心のどこかで期待してた。……何も、うまくはいかなかったけど」 「そやったんですか……?」  一季は手を伸ばし、泉水の手をぎゅっと握る。すると泉水は真っ赤になって一瞬手を震わせたけれど、すぐに一季の手を握り返してくれた。そのぬくもりに力をもらい、一季は噛みしめるように語りかけた。 「そんな僕にとって、あなたとの出会いは、本当に本当に、素晴らしい幸運だったんです」 「嶋崎さん……」 「あなたが好きなんです、本当に。だから、誰にも()られたくないんです」 「へ? ……と、とられたくなぃ!? 俺を……!?」  泉水の顔が、茹で上がったかのように真っ赤に染まる。一季は泉水を必死で見つめながら、訴え続けた。 「ずっと、僕のそばにいて欲しいんです。僕は、セックスは下手かもしれないけど、泉水さんのことを幸せにしたいと思ってるんです」 「セッ……!!?? ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! 俺が誰かにとられるとか、そんなことあるわけないやないですか! それに、セッ……せ、せ、性行為とかそんなん関係なしに、俺も嶋崎さんとずっと一緒にいられたらって思ってるんですよ!?」  泉水は、がしっと一季の上腕を掴んだ。  そして悲壮さの滲むような真剣な眼差しで、熱烈に一季を見つめている。 「俺だって、あなたが好きです。大好きです。浮気なんて、出来るわけがない。それに、セッ……クス(やや小声)のことも、ゆっくり考えていきましょうよ。焦る必要なんてないじゃないですか」 「泉水さん……」 「俺は絶対、渡瀬くんとどうこうなったりしません。あんなとこ見られといてなんやけど、信じてください……!!」 「でも心配で……。泉水さんの近くに、お色気ムンムンの肉食超絶美少年がいるのかと思うと……」 「あの子がお色気ムンムン? い、いやいやいやいや、俺からしてみりゃ、嶋崎さんのほうがよっぽど、お色気ダダ漏れなんですけど」 「え?」  泉水は一季の上腕を掴んでいた手から力を抜き、優しく肩に添えた。  そっと指を持ち上げて、目にかかりそうになっていた一季の前髪を斜めに流す。そして、ようやくふわりと微笑んだ。 「俺と出会えたことが幸運だって言ってもらえたこと、めっちゃ嬉しいです。俺みたいな童貞が相手でええんやろかって、ちょいちょい思ってしもてたけど、そう言ってもらえて、なんやほっとしました」 「……え? そうだったんですか?」 「俺がむっちゃエロいテクニシャンやったら、嶋崎さんの不感症だって治して差し上げられたかもしれへんのにって……」 「て、テクニシャンて……あははっ」  重苦しい空気をただわせながら、泉水が大真面目にそんなことを言うものだから、一季はついつい笑ってしまった。すると泉水は一瞬きょとんとしたあとに、照れ臭そうに破顔した。 「僕は、そういうあなただから、好きになったんですよ。僕を大切に扱ってくれるところや、泉水さんの純粋なところに、すごく、癒されるんです」 「純粋……っすか。そら、童貞ですもんね……」 「あっ、いや、そういう意味じゃなくて……! むしろ、童貞でいてくださってありがとうっていう気持ちしかありませんし!」 「え? ほんまですか……?」  一季は膝で立ち上がり、泉水のほうへ近づいた。そして、ベッドを背に正座している泉水のほうへとにじり寄る。  照れを噛み殺しながら、一季は小さな声でこう言った。 「童貞は、僕で卒業してくださいね」 「……………………え? まさか、い、今から………………」 「あっ、いや、今じゃなくて! あの、いずれ……いずれ、もっとお互い、慣れて来たら……って意味で……!」 「あっ…………、そ、そうですね!! い、いずれ……いずれ!! 俺、それまでにもっと修行しなあきませんしね!!」 「しゅ、修行?」 「あっ、いや!! べ、べつに他所でエロいことするとかそういう意味とちゃいますからね!! 俺、いろいろ、色々もっと勉強して、あなたを気持ちよくできるように……!!!!」  いつものように、汗をかきかき、あたふたし始めた泉水である。  一季はぐっと身を寄せて、泉水の上に跨った。  すると泉水は目をまん丸にして、やや高い位置にある一季の顔を呆然と見上げている。普段は見られない泉水の上目遣いにきゅんとしながら、一季は泉水の耳元で囁いた。 「その修行も、僕とだけにしてくださいね」 「……ファッ…………ふぁ、はい…………!!! ももも、もちろんです……!!!」  カッと熱くなる体温と、ブルブル震えながら腰を支える大きな掌に甘えて、一季はそっと泉水に抱きつく。ぎゅっと抱き返してもらえると、心の底からほっとした。  すると、自然に、もっと泉水と触れ合いたいという気持ちが湧き上がってくる。一季は少し身を離し、泉水の襟足を指先で軽く撫でながら、ためらいがちにこう尋ねた。 「キス、してもいいですか……?」 「キッ…………っス……ですか!?」 「だ、だめですか……?」  「とととと、とと、とんでもない!!! 是非ともよろしくお願いいたしします……!!!」 「ふふっ。……こちらこそ」  まるで茹でダコのように顔を紅潮させ、途端にソワソワし始めた泉水に優しく微笑みかけながら、一季はそっと、泉水のそれに唇を寄せた。

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