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第1話 ネコでマグロは致命的

   その日、嶋崎一季(いつき)は自宅で呑んだくれていた。  恋人だと思っていた男に捨てられ、心の底から憔悴していたからである。  一季の恋人(正確には恋人だと思っていた男)は、素晴らしくたくましい男だった。中学から大学までレスリングで鍛え上げた筋肉質な身体に、強靭な性欲、そして凄まじい持続力。ムキムキに盛り上がった筋肉をワイシャツの下に隠し持ち、眼光鋭いいかつい顔に銀縁眼鏡をかけていた。いかにもインテリマッチョという言葉が似合ったその男は、実際頭も良く、一季の勤務する英誠大学において、スポーツ生理学の教鞭を取る講師であった。  知性と野生を併せ持つそのインテリマッチョ……もとい嵐山周作に惚れ込んでいた一季だったが、ある日、見てはいけない現場を目の当たりにしてしまった。  それは、嵐山が、車の中で他の男に抱かれている場面であった。  閉校後の駐車場の隅っこに、ぎっしぎっしと尋常ならざる振動を見せるワンボックスカーがいた。それはあまりに不審さが過ぎた。できることなら素通りしたい案件ではあった。  だが、一季はこの大学の職員である。大学の治安を守らねばらならない。どこからどう見ても放っておけないレベルで揺れているその車内を恐る恐る覗き込んでみると、スモークガラスの向こうで、ガチムチがガチムチに抱かれているという凄まじい痴態が繰り広げられていたのだ。  しかも下にいるのは、この半年の間、一季が夜毎抱かれていた相手。 「オラ、イケっ! 俺のデカマラでイキまくれ!! オラ、オラァっ!!」とか、「清楚な見た目の割には、ふしだらなケツマンコじゃねぇか! うまそうにチンコしゃぶりやがって!!」とか、「オラ! もっと鳴け!! もっとケツ振りまくって俺をイかせてみろ!」と華奢な一季を壁に押し付けながら激しく行為に及んでいた嵐山が、今は逞しい脚をおっ広げ、「オウッ!! オァ、アアん!! しゅごい、〇〇クンのデカマラ、しゅごいぃぃ!!」と大ハッスル。それはまさに、地獄のような眺めであった。  相手の男は、大学に出入りしているスポーツメーカーの営業だった。元恋人に負けず劣らずの猛々しい肉体を持った、上背のある男である。その男とは、一季も面識があった。何度か領収書を受け取っただけの間柄ではあるが、一体いつからそういう関係だったのだろう。  現場を目撃してしまった日はショックのあまり回れ右をしてしまったので、後日一季は、恋人に詰問した。珍しく本気で怒っている一季を見て、嵐山はひどく煩わしげに溜息をついていた。 「君とのセックスに満足できなかった。もっと激しいことがしてみたかったが、君はあまりにマグロすぎた。いつしか不満が募り、他の男に目が移ってしまった。そしてたまたまクラブ遊びをしていた日、トイレで強引にこの男に襲われた。そして、ネコとしての扉を開け放ってしまったのだ」――という旨のことを面倒臭そうに語り、「というか、君はただのセフレだろ。別に俺が誰としてようが、関係ないよな?」とケロッと振られた。  そう、一季はただのセフレだったのだ。  嵐山にとっては、ただのセフレだった。しかも、一季のマグロぶりに不満を募らせていたという……。  この悲しみをどう表現すればいいのだろうかと、一季は途方に暮れていた。そんな時は酒だ。酒に頼るしかない。酒の力を借りて、この苦しみを忘れ去ってしまおうと、一季は馴染みのゲイバーへ…………行こうと思ったが、今日は何だかそういう気分にはなれず、缶ビールを買ってふらふらと帰宅したのである。  ぐびぐびとビールをあおり、ぶはっと一息。そして一季は長い長い溜息をついた。もやもやと蘇る地獄絵図をなんとか記憶の端に追いやりつつ、あえて音を立てながらボリボリと柿ピーを噛み砕く。  ――どうせ僕はマグロだ。誰かに誘われてセックスしたって、「つまんねーネコだなクソっ」とかなんとか言われて一瞬で捨てられるだけだ。嵐山さんと半年も続いたのは、僕があの荒っぽいセックスに文句を言わなかったからってだけだろう……。  ――そもそも、あんな乱暴なセックス、どんな人だって嫌がるに決まってる。キスも前戯もおざなりで、ただ男根を突っ込んでピストンするだけの単調な行為。逞しい肉体で僕のような弱者を支配し、虐げ、蹂躙し、肉便器のように性欲のはけ口にしたいだけなんだ……。  もし尻の感度のいい男であったら、あんなクズのような男に縋る必要はないのかもしれない。外見だけを見るならば、一季はとても美しい男だからである。  身長は171センチ、痩せ型。明るい鳶色の髪の毛は地毛。まっとうな社会人らしくきちんと整えられているそこに、もしも誰かが優しく指を通すなら、さらりとした感触が肌に心地よいことだろう。眉のあたりで斜め分けにした前髪の下には、なだらかな流線を描く眉がある。そしてその下には、くっきりとした二重まぶたの目。長いまつ毛に縁取られた目元はそこはかとなく妖艶で、ちらりと流し目をくれてやれば、大概の男女はどきりと胸を高鳴らせることだろう。  薄い桃色の唇は、二十五歳の男のものとは思えないほどに初々しい。そこに何か卑猥なものを咥えさせ、可憐なそこを汚してやろうとという妄想を抱いてしまうものもいるかもしれない。  だが、どうも一季は不感症であるらしく、前立腺をいじられようが男性器を扱かれようが、まるで快感を感じることができない。中に入っているという異物感があるだけだ。なんなら、ペニスでの自慰のほうがよっぽどイける。かといって、根っからのネコ体質である一季が、タチへの華麗なる転身を果たせるわけもなく、悶々とした鬱屈はつのってゆく一方だった。  ネットなどでよく目にする、『指だけでイっちゃう』とか『メスイキ』とか『連続絶頂』などの魅惑的な性的体験には、てんで縁がないのである。ただ、そうして男に抱かれているという状況には嬉しみを感じるため、バーなどで誰かに誘われれば、断ることはしてこなかった。だが、二度目が続かない。誰しもが不満げに「そんなに良くなかった?」とか「君としてると、自信をなくすよ……」とか「お前とヤっててもつまんねー」と言い、次へつながる関係性が持てないのである。  しかし嵐山はそのあたりが雑でよかった。一季の反応など御構い無しに、ガツガツ腰を振って一季を揺さぶり、勝手にイってたっぷり中出しをしたのちあっさり終了。いつもレイプまがいの無配慮なプレイを強い、言葉攻めも下品だった。そう、嵐山は一季のことなどどうでもいいのだ。一季が感じていようが痛がっていようがどうでもよく、ただただ自分が出したいだけ。まるでオナホールのような扱われ方ではあったが、そうしていじめられているときだけは嵐山に必要とされているように感じられ、喜びを感じたような気がしていた。でも嵐山は人柄もゲスだ。外面は社交的で紳士的だが、一季に対する態度はただのクズだった。  ――そろそろ、まともな恋人が欲しいなぁ……。でも、僕はセックスが下手だから、カラダから始まる関係は望めないしなぁ……。たとえ清い関係から始まったとしても、そういう関係になったが最後、絶対にふられるだろうし……。  ――セックスなしでも僕を愛してくれる人なんて、この世にいるんだろうか。……いないよなぁ。  出会って、好き合って、交際する。となると、その次に必ず待ち受けているのはセックスだ。そこをすっ飛ばして精神的な繋がりのみで愛し合い、末長く良好な関係を続けることのできる相手……そんな相手が、自分の前に現れるとは思えない。しかも、男同士で……。 「あー……もう、僕はこの先、どう生きればいいんだろう……」  気づけば、ワンルームのフローリングの上には空き缶が五、六本転がっていた。酔いが回れば回るほど将来が不安になり、ぽろぽろと涙が溢れてくる。  ――ゲイだし、まともな交際なんかしたことがないし、マグロだし、だからといってタチにもなれないし……僕は、なんて価値のない人間なんだろう……。  ワイシャツのまま膝を抱えて、一季は重苦しい溜息をついた。もうこのままベッドに潜り込み、最悪の気分のまま眠りについてやろうかと思ったその時。  ドドドドドォン……!! と、マンションの上階から、ものすごい衝撃音が降り注いで来た。 「うわぁ! な、なんだ!?」  パラパラと、小さな埃が天井から降って来る。一体何事かと上を見上げるも、そこにはのっぺりとした白い天井があるだけだ。 「上の人って……誰だっけ。確か空家だって聞いてたような気がするけど、誰か越して来たのかな」  一季は、英誠大学から自転車でほんの十五分程度の距離にある、ワンルームマンションに住んでいる。大学からは近いが多少家賃が張るため、学生の姿は見かけたことがない。  五階建てマンションの二階が、一季の住まいである。真上の部屋は先月から空家になっていると、大家から聞いたことがあったのだが……。 「引っ越し、してきたのかな。あぁ……荷ほどきで苦労してるのか。何かひっくり返しちゃったのかもな」 と、一季は誰にともなくそう呟いた。長きに渡る一人暮らしが寂しすぎて、独り言が口に出やすくなっているのだ。  その時、今度はガラガランガシャーン!! と派手な金属音が響き渡った。鍋類をひっくり返したような音だ。一季の予想は、どうやら的中しているもようである。 「……大丈夫かな」  ここまで騒々しいと流石に心配になってしまう。人になんか会いたい気分ではなかったが、何となく気にかかり、一季は挨拶がてら、上階の住人の様子を見にいくことにした。

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