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第2話 上階に住む男

   ピンポーン、とインターホンを押してみた。……返事はない。念のためもう一度押してみたが、やはり返事はなかった。  ――ひょっとして、越して来た人たちは新婚かカップルで、痴話ケンカかもしくは激しいセックスをしてただけなんじゃないのか? そこへのこのこあやしい男がやって来たもんだから、覗き穴の向こうで『うわ〜誰か来たし!』『どーせセールスかなんかでしょ? ねぇ、それよりさっきのつ・づ・き♡』『ばか、聞こえんだろ♡』なんていう甘ったるくも羨ましい会話などが繰り広げられているだけなんじゃないのか……?  モワンと浮かんだ虚しすぎる妄想に心が冷え、一季はすごすごとそこから立ち去ろうとした。  それに、挨拶といっても手ぶらだし、ノーネクタイのワイシャツ姿で、しかもサンダル履き。それにかなり酒臭いはずだ。こんなヨレヨレの男がフラフラドアの前に現れたら、そりゃどんな住人でも気持ちがいいわけがない。 「……寒い」  四月とはいえ、夜はまだまだ花冷えだ。酔って身体が火照っていても、失恋直後の独り身には堪える寒さだ。たったの五階建てなのに一向に登って来る気配のないエレベーターの前で佇んでいることも虚しく、非常階段で下へ降りようと思い立ち、一季はもういちどその部屋の前を通りかかった。エレベーターの反対側の廊下の隅に非常階段はあるのだ。  が、そのとき、さっきの部屋の扉がゆっくりと開いた。  ラブラブカップルの蔑むような視線を覚悟して廊下に硬直していたが、中から顔を出したのは、すらりとした長身の若い男だった。 「はい、どちらさん……?」  ここらへんではあまり耳馴染みのない、柔らかな関西弁だ。ちょっと重ために見える黒髪は、癖っ毛を生かした無造作ヘアで、そこはかとなくしゃれているように見える。前髪の下から覗くアーモンド型の双眸はそこはかとなく知的であり、細面にすっと通った鼻梁の涼やかな、華のある男だった。    あやしい男が突然訪ねて来たことに面食らっているのか、男は軽く目を見開いて、一季のことを見つめている。  そして、これまでにないほどの美男子に見つめられる(もとい、観察される)こととなった一季の方も、ぽやんとなって男を見上げている。  ――うわぁ、かっこいいな……。ううっ、今の僕には、溢れんばかりのリア充オーラが眩しすぎる……。  と、思わず後ろにふらつきそうになったが、ぐっとこらえた。そして一応、社会人として不躾ではない程度の笑みを浮かべつつ、一季はぺこりと会釈をする。 「あの、え、えーと……僕、下の階に住んでる者なんですけど……」 「え…………えっ?」 「えっ? あの僕、下に住んでる者で、大きな音がしたので、大丈夫かなと……」 「あっ、あっ! す、すんません! めっちゃうるさかったですよね!! すんません!」  関西弁男はパッと申し訳なさそうな表情になり、ドアを片手で支えながらぺこりと頭を下げた。見た目の割に腰の低い物言いである。どうも、『騒音について文句を言いに来た人』と思われているように感じられ、一季は慌てて両手を振った。 「あ、いえいえいえ! そうじゃなくて、大丈夫ですか? 何かあったのかと思って……」 「へ? あ……あー……ちょっと、積み上げていた本が崩れてしもたんです。慌ててそれ片付けとったら、今度は鍋やらなんやらひっくり返してもて……お恥ずかしい」 「本、そうですか……」  あれだけの轟音を響かせて崩れる本とはどんなものだろうと思っていると、男の肩の向こうに、男の部屋が見えた。  まず目に飛び込んで来たのは、堆く積まれた段ボールの山である。そのさらに奥、八畳のワンルームの部屋の奥には、斜めに傾いた組み立てかけの本棚が見える……。よく見ると、玄関を入ってすぐのキッチンスペースにも山のように段ボールやゴミ袋が積み上げられていて、まさに足の踏み場もない。 「えーと、お引越し、されてきたんですか?」 「あはは〜……そうなんですけど、今日一日バタバタしとったら、荷ほどきする時間がなくて」 と、男はばつが悪そうに苦笑しつつ、ぽりぽりとうなじを掻いた。そうこうしているうちに、斜めに傾いていた本棚がゆっくりと倒れ始め、ガターン!! と床に倒れ伏したではないか。 「うおおお! やってもた……!!」 「……あの、手伝いましょうか? お一人じゃ、この荷物片付けるの、大変でしょうし……」 「ええ? いやいやいや、そんな! 初対面の方にそんなことお願いできませんから……!」 と、遠慮する男の背後で、ゴトゴトゴトと段ボールの山が崩れてゆく。リビングへ通じる道が完全に崩落し、男は「おおぉ……」と悲哀に満ちた声を出している。見た目の割に抜けたところのある男なのだろうかと思いつつ、一季は珍しく積極的に手伝いを申し出ていた。 「あの、手伝いますよ。これじゃ眠れないでしょうし」 「え、でも、そんな」 「僕、明日は休みですし。……その、なんとなく、一人じゃいたくない気分なんで……」 「え?」  一季が自分の腕を摩りながらそう言うと、男はどことなく不思議そうな目つきになった。そして、ワイシャツ一枚でアルコール臭を漂わせつつ、やや目元を赤らめている一季の全身を改めて見回して、男はぽっと頬を真っ赤に染めた。 「あ……はい……そういうことなら。お願いしょうかな……。すんません」 「いいえ。じゃ、お邪魔します」 「ど、どうぞどうぞ!!」  おっかなびっくり玄関の中へ入れてもらうと、荷物のせいで狭苦しくなったキッチンの傍で、男はもじもじしはじめた。大きな身体を所在無げにもぞつかせながら、男は一季に向かってぺこりと小さく頭を下げる。 「俺、塔真(とうま)泉水(いずみ)て言います。ほんますんません、こんな時間から……」 「いえいえ! あ……僕は嶋崎一季といいます。こちらこそ、よろしくお願いします」 「嶋崎さん……その、おいくつなんですか? 学生さん、てわけやないですよね?」 「僕は今年二十五です。威厳がないので、だいたい若く見られますけど……」 「二十五か、若く見えはりますね。俺のが三つ年上ですわ」  そう言ってホッとしたように笑う塔真の顔に、一季はしばし見ほれてしまった。なんと優しげな笑顔だろうか。  ――ノンケ、かな。同類の匂いはしないけど……いい男だなぁ。  作業をしつつ近所の商業施設情報などを語りながら、無意識に男の性癖について考察を始めてしまう。……が、一季は、そんな卑しい自分を殴りつけたくなった。結局物欲しげに男漁りをしようとしている己が心底恥ずかしい。  しかし、軽く腕まくりをして筋肉質な腕を晒し、カーテンを引っ掛けている塔真の後ろ姿にも、惚れ惚れしてしまう。肩幅が広く、背中から腰の引き締まったラインが最高だ。なんと格好のいい後姿だろう。  ――こんな人に愛してもらえたらどんなに幸せだろう。ノンケを身体で落とす人もたまにいるけど、マグロの僕じゃ無理だよな……。  フェラも手コキもテクがないと言われるし、ノンケを落とせるレベルのいやらしいキスなんて出来うるはずもない……とそこまで考えて、一季はまたハッとした。  ――いやいやいやいや!! だから何を考えてるんだ僕は!! この人は関西から越して来たばかりの善良な市民だ! ただの上階の住人だ!! まったく、なんて浅ましいんだ僕は……!   それにたとえ、誰かといい関係になったとしても、セックスでがっかりされてふられてしまうに決まってる。そういう未来が、あまりにもはっきり見えすぎている。それならばもう、『中イキ』だの『メス堕ち』だの『カラダから始まる愛』といった魅惑的な性体験に憧れることをやめ、右手を恋人と思って独り身を貫けばいいのだ。  ――僕みたいな人間には、そういう生活がお似合いさ……。  ダンボールからやたら分厚い本を一冊一冊取り出して本棚に収めながら、一季は人知れず、悲しみに満ちた溜息をこぼした。  そんな一季の儚げな背中に熱い視線を送る者がすぐ背後にいることに、一季はまだ気づいてはいない。

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