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第3話 春風とともに訪れた……恋〈泉水目線〉

   ――す、すごい美人やで……。どうしたらええんや俺……どないしよ……何話したらええんやろ……。  塔真泉水(とうまいずみ)は童貞である。  外見こそ秀でたものを持ってはいるものの、恋人いない歴=年齢という、完膚なきまでの童貞なのだ。  ――うわ、うわぁ、なんかええ匂いする……。飲んではったんやろか……目とかうるうるでめっちゃエロい……。あっ、動いた! どないしよ、あああ、俺は、どうしたら……!! 「難しそうな本が多いけど、漫画も結構持ってるんですね。これもこっちの本棚でいいんですか?」 「えっ!? あ、あ、はい、そっすね。お、お願いします……!」 「はい」  そう言って儚げに微笑まれるだけで、泉水の胸はバクバクと高鳴った。  親切な人だ、まるで天使だ。上でガタゴトうるさい音をたてているというのに嫌な顔一つせず、しかも荷ほどきを手伝ってくれるという素晴らしき優しさ。まるで女神だ。  ――ていうか俺!! せっかく漫画がどうのこうのって言ってくれはったんやし、『嶋崎さんは漫画とか読まはるんですか〜?』とか何とか言うて、会話広げたらよかったんちゃうんか!? 何でファ〜っと会話終わらしとんねん!! 何であっさりキッチンの片付け再開しとんねん俺!! アホ!! 俺のアホ!!  内心悶絶しながらも、泉水は淡々とキッチンに調味料などを収めていく。たいして使うあてもない塩胡椒を並べつつ、ちらりと一季の横顔を盗み見る。どことなくしょんぼりとした表情で丁寧に漫画本を並べている一季の指先を見ているだけで、鼻息まで荒くなってきてしまった。  ――……ていうか、なんや……寂しそうな感じやな……。ひとりでおりたくないて言うてはったけど、何かあらはったんかな……。…………ん? ひとりでいたくない。それって、それって……!?  ――ま、まさか、そういうフラグ……!!??  そんなことを思いついてしまったが最後、泉水の心臓はこれまでにないほどに荒々しく暴れまわり始めた。思わずふらついてシンクに手をつき、すーーーーはーーーーと深呼吸を繰り返した。 「塔真さん? 大丈夫ですか?」 「えっ!? あ、あ、はい!! 何でもないんです!! ちょ、ちょっと……息苦しいな……って、あははは」 「ちょっと埃っぽいからですかね? 換気しましょうか」 「あ、はい……すんません」 「いえ」  一季はまた微笑んで、すぐに窓を開けてくれた。ひんやりと冷えた春先の風が、ふわりと部屋に満ちてゆく。泉水は人知れず、また盛大に深呼吸した。  ――落ち着け……落ち着け俺……。っていうか、何で男相手にこんな興奮してんねん俺!! えっ!? 俺ホモやったん!? そら……そら童貞やけど……童貞やけども……これまでそういう機会に恵まれへんかったから童貞なんやと思ってたけど……。  泉水は中学高校と男子校で育ち、そして大学も工学系に進んだため、ほぼほぼ女性と触れ合うことのない環境で育ってしまった。それゆえ、二十八にもなってまだ童貞だ。泉水自身も、己が童貞であるという事実を心の底から気にしている。  泉水は見目が良いため、女性たちが寄ってこないことはなかった。数少ない女子学生や、アルバイト先の本屋などで、女性スタッフや女性客に言い寄られたことも一度や二度ではない。  しかしこれまでずっと男にばかり囲まれて来てしまったため、女性の生態というものを、泉水は全く理解できていない。女性をどう扱えばいいのか、何を話せばいいのか、彼女らが何を考えているのか、まったくもって分からなかった。  そのため無口にならざるを得なかった泉水は、いつの間にか『イケメンってさ〜理想が高すぎるんだよね〜』だの『自分のこと好きすぎなんだよね〜だからうちらなんてお呼びじゃないよね〜』だの『イケメンだけど〜一緒にいても全然おもしろくなーい』だのと勝手にこき下ろされ、勝手に嫌われてしまうということが何度もあった。  学生時代に経験したそういう出来事がトラウマになり、泉水はすっかり女性不信である。恋愛というものに夢が持てず、女性という生き物に怯えのようなものしか感じることができず、勉学と研究に没頭しているうちに二十代後半。そして今もめでたく童貞というわけなのだ。  そんな泉水が、こんなにも心を動かされる相手。  あろうことか、それは男だった。しかし、一季はこれまで泉水が出会ってきたどの女性よりもずっと美しく、優しく、儚げで、見ているだけでムラムラと抱きしめたい欲求が高まってしまう始末だ。  ――……って、いやいやいやいや、ムラムラって何やねん。別にムラムラなんてしてへん……そら、うなじとかワイシャツの首元ちょっと開いてる感じとか手首とかなんやめっちゃ色っぽいけど、そんな……ムラムラなんて、そんなわけ……。 「っくしゅん」  自分の仕事そっちのけで頼りなげな後ろ姿をガン見していたら、一季が小さくくしゃみをした。  ――うわあああああああかわいいいいいいいい!! くしゃみ、くしゃみっ!!! ……むっちゃかわええ、かわええ…………じゃなくて!! 「あっ、寒いですよね! すみません!! 嶋崎さん、薄着なのに換気なんかさせてしもて……!!」 「い、いえ……平気ですよ」 「何言うてはるんですか。すぐ閉めますね! あ、あと……なんか着るもん……あ、これでよかったら、」 と、今来ている黒いパーカーを脱ぎかけて、泉水は動きを止めた。  ――あかんあかんあかん!! これ、朝からずっと着てるやんか! こんな、汗臭くて埃っぽいパーカーを嶋崎さんに渡すなんて言語道断や恥を知れ恥を!!  「あ、本当に大丈夫ですし……」 「あ、あきませんよ! 風邪でもひいたら大変やし!」  若干鼻を赤くしながら健気に遠慮する一季がまたむず痒いほどに愛らしく、泉水はソワソワしながら服の入ったダンボールを開いた。そこから深緑色のトレーナーを引っ張り出し、一季のほうへずいと差し出す。 「よかったら、これ……どうぞ」 「す、すみません。じゃあ、遠慮なく」 「や、やっぱ寒かったですよね! 四月とはいえ、夜はまだ冷えますよね〜あはは〜」 「ええ、本当に」  ぎこちない泉水の言葉にも、一季は嫌な顔一つせずに優しく返事をしてくれる。慈愛に満ちた一季の態度に感動しつつ、もぞもぞとトレーナーをかぶって着込もうとしている姿をしげしげと堪能していると。 「っ…………!!」 「わ、大きいですね。塔真さん、背が高いから羨ましいです」  ――うおおおおおどっちゃくそかわえええええ……!! な、なんやコレ、なんなんやコレ……!!   華奢な一季には、まるでサイズが合っていない。着丈も、肩幅も、袖の長さもまるきり大きく、ダボっとしたシルエットが身もだえるほどに可愛いのである。裾から覗いているのが、灰色のスラックスというところが非常に惜しいと、泉水は思った。そこから見えるのが一季の素肌であったらと思うと、思うと……。 「うぐ……っ……」 「えっ鼻血!? ど、どうされんたんですか!?」 「な、なんでもないんです……か、花粉症……花粉症で鼻粘膜が過敏になっていて多少の刺激でもついつい鼻血が出る体質で!!」 「ああ、花粉症ですか。そろそろ症状出始めますもんね。マスクした方がいいですけど、持ってますか?」 「だ、だ、だいじょぶ……です」  鼻を押さえていても、ボタボタと滴る真っ赤な鮮血。さぞやドン引きされていることだろうと思ったが、一季は心の底から心配そうな顔をしていて、健気にテイッシュを探してくれたりと慌ただしくしているではないか。  ――なんちゅう人や……。俺、俺なんて、嶋崎さんのエロい格好妄想して鼻血出してんのに、そんな俺のためにティッシュ探してくれるとかどんだけええ人やねん……あかん、あかんでこれ……俺……マジでこの人を……。 「ティッシュありました! これで拭いて、ぐっとここを押さえて……」 と、ティッシュ箱とともに駆け寄って、鼻血まみれの鼻頭を押さえてくれようとした一季の手首を、泉水は無意識に強く掴んだ。  そして次の瞬間には、信じがたい台詞が口から飛び出していた。 「お、俺と……付き合ってください……!!」

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