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第19話 不快な男
「はぁ…………」
それから数日。
一季はため息ばかりの日々を過ごしている。
あの日以来、泉水と気まずい雰囲気のままなのだ。
家も近いし、同じ大学で働いているのだから、会おうと思えばいつでも会えるようなものなのだが……。
本格的に講義が始まっている今、泉水と学内で出会う機会はほとんどない。教務課のあるB棟と、泉水の研究室があるA棟は中庭を挟んで向かい合っており、距離的にはとても近い。ちょっと用事を作って会いに行くこともできるのだが……それも、気まずくてできていないのである。
「…………はぁ」
「ちょ、嶋崎さん、マジため息ばっかじゃないっすか。こっちまでへこむんすけど」
「あ、ああ、ごめん……」
「なんかあったんすか? 俺でよければ話聞くっすよ!?」
田部はそう言って、ぐっと親指を立てて白い歯を見せた。その頰には、今もまだ痛々しい白い湿布が貼られている。
雄叫びをあげ夜闇の中へ消えて言ったあの日。酔っ払いながら例の女性の家へと攻め込んだ田部は、例の派手めな彼氏に一発殴られてしまった挙句、不審者として警察へ突き出されそうになったのだとか。
月曜の朝っぱらから、廃人のようになりつつそんな話を語っていた田部の状況を思うと、あんなことがあったくらいで凹んでいてはいけないような気がした。だが、あの朝の出来事を思い出すにつけ、泉水に申し訳なくて申し訳なくて、一季は呼吸をするたびに溜息をついているような有様である。
――絶対へこんでるだろうなあ……泉水さん。せっかくやる気になってくれてたのに、あんな避け方して……。ああ……どんだけ身勝手で最低なんだ僕は……!! 泉水さんは童貞なのに、あんな拒否の仕方されたら、心に深い傷が残ってしまうに決まってるじゃないか! はぁ……泉水さんがEDになっちゃったらどうしよう……。
あの日一季は、泉水といちゃいちゃする夢を見ていた。
とろけるように甘い時間だ。泉水への愛おしさが全身を満たし、触れ合うだけで心が満たされるような、愛に溢れたひとときの夢……そこからふと目覚めた時、実際に泉水が目の前にいたことが、ものすごく嬉しかった。
泉水に触れることができて、一季自身も幸せだった。出来ることなら、あのまま先へと進んでみたかった。一季の愛撫をあんなにも喜び、気持ちいいと褒めてくれる泉水のことが、愛おしくてたまらなかったからだ。
泉水からも触れて欲しい、一緒に気持ちよくなりたいと思っていた。なのに、いざ泉水にスイッチが入ったことを察するや、途端に身体が強張ってしまったのである。
――ううっ……雰囲気、すごく良かったのに……。あの時僕が嫌がらなかったら、泉水さんだってその気になってたっぽいのに……!! はぁ……なんてダメな人間なんだ僕は……。
今後ももしこんなことが続いたら、泉水の心は一季から離れていってしまうかもしれない……と、不安が募る。
「……はぁ…………」
と、一季はデスクトップの前で、深い深い溜息を吐いた。
泉水がひどく奥手だということや、性に対してうぶであるということはよくよく理解しているし、そういうところが可愛くてたまらない。
しかも泉水は、一季の過去も現在も丸ごと受け止め、全力で愛そうとしてくれている。一季もまた泉水の気持ちに応えたく、彼を幸せにしたいと心から願っている。なのに、身体の反応は裏腹で、意思だけではどうにもならない部分がもどかしい。
――つい、考えちゃうんだよな……。もし泉水さんに触られて、何も感じなかったらどうしよう……って。途中までは盛り上がれたとしても、いざ本当にセックスをしようってなった時に、僕がやっぱりマグロだったら、泉水さん、すごく傷つくだろうな、とか……。
そういう考えが頭をよぎってしまうと、高ぶりかけていた全身が急激にこわばり、触れられることに恐れを感じてしまう。こうして中途半端に愛撫を拒否してしまうこと自体、泉水を傷つけてしまうということも、一季はよく分かっているのだが……。
痛かった過去や、不感症という悩みを受け入れてもらった今も、やっぱりまだ不安は消えていないらしい。
あの日自分で言ったように、触れ合うことに慣れていけば、いつかは泉水とセックスができるのだろうか。
――でも、泉水さんの優しさに甘えてばかりじゃいけないよな……。僕なんかと付き合っていてもつまらないって思われてしまうかもしれない。泉水さん、けっこう……いやかなり精力強そうだったしなぁ。このままで、いいのかな……。
どこまで泉水に甘えていいものなのだろうか。いつまでも一季のペースに合わせてもらうばかりでは、泉水の性欲は発散されず、鬱積していくばかりなのではないだろうかと心配になる。そしてその鬱屈した性欲が、どういった方向に発散されることになるのか……そんなことを考えてしまえば、いてもたってもいられない。
泉水は、誰もが羨むほどのハイスペックさを備えた好青年。男としても、大学教員としても、素晴らしい人材だ。実際、泉水の担当する講義は大教室が溢れるほどの大人気で(他学部の学生が覗きに来るからだ)、講義の前に学生証チェックをせねばならないといった問題さえ起きている状態である。そんな泉水に、性的に迫る相手が出てこないとも限らない。
泉水とて、男だ。もし一季より魅力的な相手に、泉水を誘惑されてしまったら? つまらないマグロの自分では、太刀打ちできないかもしれない……。
「はぁ……」
とうとう一季が頭を抱えて溜息をついていると、教務課のドアが開き、来客を知らせる軽やかなベルの音が響いた。一季はサッと条件反射的に顔を上げ、仕事の顔に戻る。
しかし教務課にやって来た人物の顔を見た瞬間、一季の表情が、瞬時に硬いものへと変化した。
「どうもみなさん、こんにちは」
マッチョな身体をビジネススーツでかっちり包み込んだ、銀縁眼鏡の男。
つい先日一季を振ったばかりのインテリマッチョ・嵐山が、手土産片手に教務課にやって来たのである。
「あ〜、嵐山センセ、おひさっすね〜。うわ、いっつもうまそうな差し入れ、あざーっす!」
「おー。田部くんは今年も教務なんだな。ていうかその湿布、どうしんたんだい?」
と、愛想のいい田部がカウンター越しに嵐山の相手を始めた。すると有名洋菓子店の紙袋を目にした女性職員数名がわらわらと席を立ち、「いつもすみませ〜ん」「みんなで美味しくいただきますね〜!」など、軽い口調でお礼を言いつつ、給湯室へと消えていく。
チャラっとした口ぶりで修羅場のことを語って聞かせている田部の向こうから、嵐山の視線をちりちりと感じた。あまりの不快さに、一季はむっつりと黙り込む。そして、溜まりまくっていた書類仕事を高速で片付け始めた。泉水のことでへこんでいたため、ここ最近仕事の手が遅いのである。
すると、嵐山は田部の修羅場話を「ま、自業自得だな。そういう女はきちんと見極めないとダメだろう。君は見る目がないね」と居丈高な口調でバッサリ終わらせ、カウンターに片肘を乗せた。そして、何事もなかったかのような調子で一季のほうへ声をかけて来る。
「嶋崎さんも。今年度も、よろしくお願いしますよ」
「……はい、こちらこそ」
「今年って、講師室前と同じとこ使っていいのかな? 嶋崎さん、案内してくれません?」
しかも嵐山は、くいっと嫌味な仕草で銀縁眼鏡を押し上げつつ、軽薄そうな唇に笑みを浮かべてそんなことを言ってきた。あまりの無神経さに腹が立ち、一季は冷ややかな声で田部に仕事を回そうとしたのだが……。
「そういうことなら、こちらの田部がご案内…………って、えっ? ど、どしたの?」
「…………ううっ……そっすよね、俺が女見る目ねーからこんな目に遭うんすよね……ううっ……」
「ちょ、田部くん……。えええ? だ、大丈夫?」
「ふぇええ……」
嵐山の無神経な正論が、田部の弱った心に刺さってしまったらしい。田部は顔をぐしゃぐしゃに歪めて、デスクに突っ伏して泣き始めてしまった。仕事中に号泣する田部に呆れるやら嵐山に腹が立つやら……一季はなんともいえない複雑な気分を腹に抱えつつ、ぽんぽんと田部の背中に触れたあと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……今年度から、講師室の場所は変更になりました。ご案内します」
「あ、そう。頼みますよ」
「……」
壁にくっついた金属製のキーボックスから鍵を取り、一季は重たい気分で教務課を出る。やや後ろからついて来る嵐山の不躾な目つきが、尻にぶすぶすと突き刺さってすこぶる不快だ。
しかもこんな日に限って、廊下を歩いている者は誰もいない。午後いちの講義時間中で学生が少ないのは当然としても、いつもなら職員たちがウロウロしているはずなのに。
非常勤講師らのデスクを設置している『講師控え室』は、教務課のあるB棟の二階にある。自動販売機や円形のソファが置かれた休憩スペースの、すぐ向かいだ。
休憩スペースは窓が大きく、日の光がさんさんと差し込み、開放的で明るい雰囲気だ。普段は大学院生や教員、または事務職員らがここで休憩を取ったりしているものなのだが、今日はあいにくの無人。ひと気があれば、一季もさほどこの薄情男のことを意識せずに済んだのに。一季はちらりと、嵐山を横顔で振り返った。
すると嵐山は一季を睥睨するような目つきのまま、くいと自動販売機のほうへ顎をしゃくった。
「なんか飲む? 奢るけど」
「……いりません。ここが今年度の講師控え室です。嵐山先生は週三勤務ですので、専用のデスクをご用意させていただきました。どうぞご自由にお使いください」
「おいおいおい、他人行儀だなぁ〜。いいじゃないか、ちょっとくらい付き合えよ。僕と君の仲だろう?」
「僕は忙しいので、これで失礼します」
「まぁ待てって。僕は君に、大事な話があるんだよ」
さっさと立ち去ろうとした一季の手首を、有無を言わさぬ力で嵐山が掴んだ。
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