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第1話

 寒いですねえ、が口癖だった。  寺地はいつも、しわくちゃでくたびれた、グレーのジャケットをつけていた。首回りには細かいフケを散らして、着古され、擦り切れて汚らしいジャケットを、しかし寺地は、僕の知る限り、夏であろうが脱いだ姿を見せたことがなかった。頬はこけて鼻も細く、その上に四角く大きな眼鏡をのせて、顔面に突如浮き出たような目玉は常にぎょろぎょろと動き、唇は常に不気味に弧を描いていた。骨と皮だけしか残っていないような、枯れ枝みたいな細いからだを揺すりながら、小さな歩幅で静かに歩く教師だった。  寺地は、物忘れが激しかった。教師のくせに生徒の名前など憶えてくれた試しがないし、勝手な都合で(雨が続いてからだが痛いだとか、そういうような)授業が自習になってしまうこともままあった。教師としてよかったのかと聞かれれば、きっと、今となってはそれでよかったのだろうと思う。  そういった意味で、寺地はよく目立つ教師だった。生徒にも、しょっちゅう揶揄われていた。不潔で愚図で、陰湿で不気味で、教師らしくない。生徒たちはいつも寺地の歩き方を誇張して真似し、首元に溜まったフケを笑い、寺地、と呼び捨てにして、授業はひとつも真面目に聞かなかった。なめられていたのだ。  しかし、寺地は怒らなかった。口角は常に上を向いていた。自分を揶揄う生徒たちを、機嫌よく、嬉しそうに楽しそうに眺めていた。細められた瞳には、一点のくもりも、わずかな邪気さえ感じられなかった。少なくとも、僕にはそう見えていた。  寺地は、科学の教師だった。授業と授業の合間の短い休み時間、僕はいつも、寺地のいる科学準備室を覗いた。寺地はいつも、安物のパイプ椅子に腰かけて、腹の上で指を組み、天井を見上げて目を閉じていた。寺地、と呼ぶと、目を閉じたまま、はあい、としわがれた声で返事をした。 「今日は寒いですねえ」  寺地は独り言のように、その口癖を呟いた。そうだね、と僕は言う。もうすぐ三月だ。 「寺地は、今年で定年なの」  そうかもしれませんねえ、と寺地は答える。寺地は去年も、同じ質問を同じ言葉で返していた。見てくれだけを言えば、定年退職を迎える頃だといっても何の疑いも持たずに納得できるのに、しかし寺地は、正確な年齢を一度も教えてはくれなかった。 「あなたは、今年、卒業ですか」  寺地は目を開けないまま、そう訊いた。 「ちがうよ。何度も言っているけど、僕はまだ、二年だから」  ああ、そうでしたか、それはすみません、と寺地は悪びれた様子を微塵も見せずに笑う。寺地はいつも暢気だ。 「寺地、来年までいてくれるよね。僕、卒業式のあと、寺地と写真を撮りたいんだ」  予鈴が鳴ったけれど、寺地には聞こえていないのか、僕を咎めたりはしなかった。 「写真ですか、お友達と撮るのに忙しいでしょう。きっと私と撮る暇なんて、ありません」 「問題ないよ。僕には、その、一緒に撮ってくれるお友達っていうのが、いないから」 「そうですか、どうして」 「いじめられているから」 「はあ、そうでしたか」  寺地は少しも興味がなさそうに、それはそれは、大変でしょう、と言った。  大変なんてもんじゃない。毎日、死にたい気持ちだ。太めの体型を揶揄われ、変声期の来ていない高い声を真似されて、スミタ、という苗字から〈酢豚〉と最低なあだ名までつけられた。上履きは隠されるし、体操服をチョークの粉で汚されて、教科書はびりびりに破られてゴミ箱行きだし、鞄を窓から放り出され、濡れた雑巾を投げつけられたりもした。普通にしているつもりなのに、少し笑えば気味悪がられて、僕とすれ違うたびに女子生徒はいつも、害虫を見つけたみたいに小さな悲鳴をあげた。  親には恥ずかしくて相談できないし、味方になってくれるような友達はいない。保健室や相談室なんて、何の解決にもならない同情や教師の思想、きれいごとを並べ立てられ、結局は、がんばろう、なんて、何をどう解釈しても、解決には程遠い自己満足な熱意を聞かされるだけで終わってしまった。  二年に上がってすぐから、いじめは始まった。その頃から少しずつ、寺地に不思議な仲間意識を持っていた。似たような境遇だな、と勝手に思い込んでいた。そうすればいくらかは、自らが救われたような気持ちになるからだ。それから休み時間ごとに、寺地のいる科学準備室を訪れているけれど、寺地が僕の名前を憶えている様子はちっとも見受けられなかった。だから僕はことあるごとに、学年と名前を述べて、時には今回のように、自らがいじめられているという事実を述べなければならず、何度も何度も、寺地の前で最低な自己紹介をさせられているのだ。 「寺地は、どうして平気でいられるの。あんなに毎日、みんなに揶揄われているのに」  寺地はそこで目を開けて、はあ、と言った。 「揶揄われていますか、私は。それはそれは、気が付かなかったですねえ。生徒たちみんな、元気で、よい子だと思っています」 「よい子だなんて、そんなわけあるかよ。だとしたら僕は今頃、いじめられてなんかいない」  寺地はまた、はあ、と言った。腹の上で指を組み、視線を天井に向けたまま微動だにせず、そう言われたらそれはまあ、そうなのかも知れないですねえ、などと、悠長に呟いた。 「たぶん、そういうところが、私は、鈍くなっているのかも知れませんね。生徒たちは私に親切でないかもしれませんが、それは別に、私だって、彼らに親切ではないですし、でもだからといって、あなたみたいに、多勢に無勢でいじめられるようなことは、あってはならないですね。それはそうだ、うん、それはひどいことですよ」  寺地は、背もたれから身体をはずしてゆっくりと姿勢を正し、眼鏡の奥の大きな瞳をぎょろぎょろと動かして、これまでではじめて、僕の目を真正面から見据えた。そして、乾燥してかさついた薄い唇を動かして、ぎゃふんと言わせてやりましょう、と弾んだ声でそう言った。 「悪いやつらを、ぎゃふんと言わせてやれば、きっと気持ちがいいと思いますよ」  ぎゃふん、と僕は繰り返す。確かにそれは気持ちいいかもしれないけれど。 「でも、どうやって」  小太りで、ぶさいくで、足だって遅いし、もちろん喧嘩も弱い。すぐに汗をかくから、臭くて汚らしいと言われたこともある。太って愚図でのろまな僕に、悪いやつらをぎゃふんと言わせる術なんて、何もないように思えた。  しかし寺地は、珍しく瞳をらんらんと輝かせ、興奮して堪え切れなくなったのか、ふうふうと息を洩らしながら肩を震わせた。 「来年の、あなた、自分の卒業式にね、答辞を読めばいいんです」  は、と、とぼけた声が出る。 「あなたが、卒業式で、答辞を読む。クラスメイト、いや、学年中が驚きますよ。それこそ、ぎゃふんです」 「答辞を読んだところで、ぎゃふんなんて言うわけがない。そもそも僕が答辞なんて、そんなのに選ばれないよ。成績だって一番になれた試しはないし、スポーツだってできないし、それにさっきも言ったように、僕はいじめられているんだから」  何度も言わせないでよ、と僕は嘆いた。寺地は、ああ、と甲高い、か細い声を上げ、大袈裟に頭を抱えた素振りをして、なんて話の分からない子だ、と演説じみたわざとらしい言い方をした。 「答辞を読む生徒の選出なんて、あんなものはね、特に厳密な規定が設けられているわけではないんですよ。去年なんて、成績など関係なく、複数の教師からの推薦で選ばれましたから。だから、複数の教師を納得させたらいいだけの話です」  寺地は、これ以上ない名案だと得意げだったけれど、僕にはとてもそうとは思えなかった。複数の教師を納得させる、それはあまりに抽象的で、とてつもなく難しいことに違いない。けれど寺地は、大丈夫大丈夫、と僕の肩を叩いた。 「卒業までの一年間で、あなたが成長したというところを見せたらいいんです。いじめられっ子から、卒業生の代表になるなんて、青春のシンデレラストーリーですよ」  青春のシンデレラストーリー、という的を得ているのかそうでないのか判断し兼ねるその言葉を、寺地はいたく気に入ったようで、聞こえるか聞こえないかの声で、青春のシンデレラストーリー、と何度も囁いてはひとりでほくそ笑んでいた。

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