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第2話
はじめに、運動はもう捨ててしまいましょう、と寺地は言った。
「これから足を早くするとか、肉体的なものの技術を身につけるのには時間が掛かります。何しろ、あなたはダイエットからはじめなければなりませんから。ですが、その他の教科の成績をあげることなら、さほど難しいことではないでしょう」
寺地はにこにこと、はきはきとしていた。数刻前まで、あんなに陰湿な空気をまとって、もう間もなく定年かと思うほどくたびれていたのに、そんなものを既におくびにも出さず、自らの頭の中に完成されているだろう計画をつらつらと述べた。
「いじめられっ子が頑張っている、という様子を教師たちに見せつけねばなりませんから、あなたはこれまでに増して真剣に授業に取り組み、テストではよい点を取ってください。勉強で分からないところがあれば、もちろん私が教えます。着実に、確実に、成績を伸ばしてください」
「そんなことだけで、答辞は読めない」
もちろんです、と寺地は頷く。
「絵画と作文で、賞を獲りましょう」
寺地の自信ありげな提案に、そんなの無理だ、と僕は殊更大きく頭を振った。美術の授業なんて、いつも上の空で真面目に受けたこともないし、作文なんてまともに書けた試しがない。コンクールに応募するだけならまだしも、この一年で賞を獲るなんて不可能だ。
蒼褪める僕に、寺地はいよいよ悪戯っ子のようにはしゃいで、あなたには無理でしょうねえ、と意地悪く笑った。
「だから、私が書くんです、あなたの名前で。こう見えても、昔は芸術家になりたかったんですよ」
そうしてね、あなたが頑張っている、というのを教師に印象づけるんです、と寺地は手を叩いた。
「でも、そんなの、いんちきだ。うまくいきっこない」
つまりはゴーストライターを立て、ズルをするということだ。もしも誰かに知られたらと思うと、足元がざわざわとして落ち着かず、どうにも心許ない気持ちに駆られた。しかし寺地は、僕の主張を意にも返さず、いんちきをして何が悪いんですか、悪者をぎゃふんと言わせてやるんですよ、いじめられっ子ふたりが。いんちきなんて、日常茶飯事ですよ。これが成功すれば、海外のアニメなら、わたしたちは弱者のスーパーヒーローですよ。だって、悪者をぎゃふんと言わせてやるんですからね、と、当時中学生だった僕には到底理解の及ばない持論を展開したけれど、しかし、やはりこれも、今になって思えば、僕の中学生活の支えとなってくれていたに違いない。
寺地の策を信用したわけではないけれど、僕がこの隙だらけの作戦に乗っかったのは、そうすれば学校生活が今までよりも、ましなものになると確信していたからだ。いじめられているという事実に、ほんの束の間でも目隠しをできるし、いじめっ子たちに対して、今に見てろよ、という気持ちさえ生まれた。
来年の卒業式で答辞を読む、というミッションを遂行するには、僕は現実的に成績を伸ばさなければならず、どの授業も真面目に(本当に真面目に)受けたし、勉強に煮詰まればすぐに寺地のもとへ走った。寺地は僕の顔を忘れなかった。答辞を読むという目的も、その過程である〈毎日一生懸命頑張っている、いじめられっ子の僕〉を演出することも忘れなかった。寺地は楽しそうだった。寺地は科学準備室に油絵具を持ち込んだ。今度の市美展に、僕の名前で、寺地の絵画を出すことになっていた。こんなことをして、他の教師にばれないのか、と訊ねてみると、私が何をしたって、他の教師は何も咎めませんよ、と涼しい顔をしていた。
しかし三年にあがると、いじめは呆気なく収束した。いじめっ子と、クラスが別になったのだ。おわりは本当に呆気なく、肩透かしを食らった印象さえあった。いじめっ子は別のクラスで新しいいじめられっ子を見つけていたし、僕は依然友達と呼べる存在もなかったけれど、学校生活はいくらも楽になっていた。けれども、あのいじめっ子を見かけるたびに、今にぎゃふんと言わせてやるからな、と、その頃にはだいぶその気に火がついていた。
新学年ではじめてのテストは、良くも悪くもなかった。けれど寺地は、いいですね、いいですね、と喜んだ。
「ここからの伸びが重要なんですよ、見せつけてやりましょうよ」
放課後の科学準備室で、僕は日が暮れるまで勉強したし、寺地は上機嫌で絵を描いていた。時折り、ねえ、きみ、と僕を読んでは、製作途中の絵の説明をされて、担任の教師にはここをこう拘ったと言うんだよ、と指示をした。
市美展で、寺地が描いた僕の絵は金賞を獲った。全校朝会で、全生徒の前で僕は表彰されて、教師全員が立つ中で、寺地はひとりだけパイプ椅子に座り、だれよりも大きな拍手を僕に贈った。
「次は県美展ですよ。あとは、読書感想文なんか書きましょう。三島由紀夫、私はね、昔からよく読んでいたんです。中学生が三島由紀夫を読む、そして感想文を書く、いいじゃないですか」
夏休み前の期末テストでは、前回に比べ随分といい出来だった。通知表を受け取る際、よく頑張ったな、と褒められて、それはそうだろう、と思った。勉強を頑張っているのは確かだった。他の部分でいんちきはしているけれど、試験でカンニングはしていない。
夏休みに入ると、寺地とはめっきり会わなくなった。エアコンの効いた図書室は夏休みじゅう解放されていて、勉強のついでに科学準備室に寄るけれど、いつも鍵がかかっていた。職員室を覗いても寺地の姿はなく、他の教師に訊けば、寺地先生は来られないんじゃないかな、と曖昧な返しをされた。
夏休みの間だけ、僕は大学生の家庭教師をつけた。二学期はじめのテストで、寺地を驚かせたかったのだ。相変わらず友達と呼べる人はいないけれど、ちっとも寂しくなかったし、物足りないこともなかった。僕は、寺地に言われたとおり、勉強だけは一生懸命がんばった。
二学期の始業式で、僕はまた表彰された。県美展に出された絵が、金賞を獲ったのだ。寺地はまた、ひとりパイプ椅子に座り、ステージ上で表彰される僕と目が合うと、黄ばんですかすかの歯を見せて笑い、前と同じように、だれよりも大きな拍手を贈った。
教室に戻ると、僕は教壇に立たされて、今度はクラス中から拍手を贈られた。夏休みの宿題も、いちばんに提出した。しばらくしてはじまった定期テストでは、前回から三十も順位を上げた。授業の合間の休み時間には少しずつ、クラスメイトと話せるようになり、寺地のもとへ行くのは昼休みと放課後だけになった。放課後、定期テストの結果を告げると、寺地は目元を綻ばせ、素晴らしい、と、まるで言葉をこぼすように呟いたので、僕はとても誇らしい気持ちだった。
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