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それは、恋と呼ぶにはあまりにも歪で、そして弱かった。何よりも自分の気持ちが、わからない。表も裏も塗りつぶされて、どうすればいいのかが、わからなかった。
ポタリと水の落ちる音。目を向ければ水溜りに波紋が広がって行く。降り続けた雨の所為で道の半分を塞ぐ程の水溜り。自分のさしている傘から垂れた水だとすぐに気がついて、傘を閉じる。空は雲一つない快晴だった。あぁ、陽の光に眩暈がする。
「っ、と…。大丈夫か?」
「……あり、がとう…ございます…」
ぐらりと揺れた視界。どうやら知らない人が抱きとめてくれたらしい。なんて偶然だ。でも、体を動かす力がでなくて、掠れた声でお礼を述べる。
「大丈夫か?」
「しょうじき、…あまり…」
大丈夫かと聞かれれば、正直大丈夫ではない。歩ける気がしないし、すでにこの声の主を見上げる力すら残っていない。梅雨時期独特の湿った熱気に、じんわりと肌が汗をかく。
ワイシャツが肌に張り付いて気持ちが悪い。
「家は?この辺か?」
「…………ぅ」
あぁ、いけない。気持ちが悪くて視界が回る。
この人の質問に答えなくてはいけないのに、答えるための声が形を成してくれない。
「――――おい?」
意識が遠のく間際、焦った声が聞こえた。
失恋シンドローム
はっと目を覚ました時、真っ白な天井が目に入った。視界の端に白いカーテンが揺れているのが分かった。ふと息を吐き、寝ていた体を起こすと、ここが病室だと理解できる。
しまった。あのまま気を失ってしまったから病院に運んでくれたのかと頭を抱えてしまいそうになる。
「起きたのか」
カーテンを開け、一人のスーツを着た男が顔を覗かせた。少しつり目でキツイ印象の黒い瞳。短く切り揃えられた黒髪はサイドに流してあり、左耳にピアス。シンプルな銀色のヤツだ。その整った容貌に、劣等感すら抱きそうだ。
「……あの、すみませんでした。ご迷惑を、おかけして、しまって」
「いや、仕事も上がりだったし問題ない。それよりお前、学生じゃないのか」
「あ、いえ。俺は……その、」
陽の上がる内は少し体がだるい。それでも夜なら元気なのかと聞かれてもそうでもない。なぜなのかと聞かれても、それを簡単に答えることが出来ない。
「そうか。まぁ、深くは聞かないが………家には一人で帰れそうか?」
「――――あ、はい。大丈夫です」
「顔色はまだ戻っていないが、もう少しここで休んでいくといい」
男の人はそういってカーテンを閉めた。
「あ、あのっ」
カーテンの向こう側。シルエットでしかわからないけれど、男の人が少しこちらを向く。俺は布団をぎゅっと握り、深呼吸をしてから口を開いた。
「あの、お名前を、聞いてもいいですか」
「あぁ、舘脇だ。舘脇倫太郎」
たてわき、りんたろう、さん。一度復唱してから、ありがとうございますと呟いた。
「……お前、は?」
「あ、俺は、蛇穴です。蛇穴、弥一」
さらぎやいち。この名前は、付けてもらった名前だ。もうずっとずっと昔に、もらった名前。
「………そうか、弥一」
「…はい」
「暑いのが苦手なら、あまり無理はするなよ」
それじゃあな。と今度こそ舘脇さんは音もなく部屋から出ていった。
この場所が俺の知っている病院なら、ここは個室だ。小さな町の病院で、入院患者もいない。
「……だいぶ、楽になったな…」
小さくつぶやいてから、体をゆるりと動かしてベッドから両足を放り出した。随分と体が楽になった気がする。最近は暑くてあまり眠れていなかったからか、どれだけ眠ったんだろう、外を見るともう暗かった。
裸足のつま先が床に触れると、ひんやりとして気持ちがいい。昼間は嘘のように茹だる気温も、今はまだ夜は涼しい。
「……帰ろう」
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