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運命のつがい ①
うなじに、あたたかい吐息がかかる。
うつらうつらと幸せな微睡 の中を漂っていた俺は、触れる息のくすぐったさに身じろいだ。
「…かんじゃ…ダメですよ…」
もはや口癖のようになってしまっている言葉が、勝手に唇の隙間から零れ落ちた。
だが、いつもならそのままうなじに口づけ、熱い舌が肌をなぞるのに、――固い歯がそこに当てられ、はっと意識が急浮上する。
しかし、時すでに遅かった。
止める間も避ける間もなく、かぷり、と噛みつかれる。
「あっ…」
体が行為に慄 き、震えた。
「とうと」
しかし、背後から聞こえたのは、甘えた幼い声。
……小さな歯が、俺のうなじをかぷかぷと咬んでいた。まだ顎の力が弱いので、その歯が皮膚を食い破ることはなかったが、一瞬、心臓が止まりそうなほど驚き、焦った。もちろん一気に目も覚めた。
「~~~ひろむ…っ」
うたた寝しているところを、我が子に食いつかれた俺はどきどきと早鐘を打つ心臓をなだめながら、身を起こす。
「とうと」
起き上がった俺に、うれしげに「にぱり」と笑う次男のあどけない顔に叱ろうと思って開いた口が力なくぱくぱくと開閉する。言葉が出て来ない。かわいい。おまえは天使か。我が子がかわいすぎてツラい。叱れない。俺はダメな父親だ。
昼食後にリビングで昼寝をさせようと寝かしつけていたつもりが、自分も一緒に寝てしまったらしい。
うなじを齧られてこんな風に起こされたのははじめてだったが、子供の横でうたた寝してしまうことはわりとよくあった。
第一線で働いていたころを思えば贅沢な生活かもしれなけれど、子育てというのはまた別種のエネルギーを使うし、それこそ定時も有休もないわけで…、思っていたよりもずっとハードだった。
……働かずに専業主夫をさせてもらっている身なので、文句を言える筋合いでもないのだけれど。
ただ、いずれもう少し子供たちが大きくなって子育てが一段落したら、また秘書の仕事に戻りたいとは思っている。復帰は次男の小学校入学を目途に考えていた。俺の将来設計に夢川も賛成し、待っていると言ってくれた。それがなによりもうれしかった。……ちょっと惚れ直した。
現在、次男の弘 は四歳になる。
三つ年上の長男、歩 とくらべると行動的でやんちゃ坊主だ。
歩は、もう一人の父親である社長――夢川 理 によく似ていて、落ち着いた大人しめの子だった。
息子たちは、二人ともおそらくαであると思われる。
幼い子供の時分はまだ性種の分化がはっきりとはしていないので、思春期あたりに正式に調べることが義務付けられているのだが、性格的にも能力的にも彼らはαの特徴を有していた。
長男の歩は多少神経質な面もあるけれど、外見も内面も夢川によく似ており、頭も良く器用でなんでも上手にこなす。
次男の弘は元気があって笑顔がかわいらしく、周りの者がつい構ってしまいたくなるような魅力を持っている。夢川の祖父がそんなタイプのαだったらしい。
ちなみにその夢川の祖父こそが、夢川が継いでいる今の会社を日本有数の金融企業にのしあげた立役者で、カリスマ事業家だったという話だから祖父に似ているらしい弘も将来が楽しみだったりする。
歩にしても弘にしても、あまり俺には似ていない。
俺の遺伝子どこいった…と冗談めかしてぼやいた俺に、夢川は「歩の耳は君似でさくら貝のようにかわいらしいし、弘のつむじは君と同じ左巻きですよ、…ほら、かわいいでしょう。二人とも君と一緒です」とにこやかにのたまった。
恥ずかしすぎて俺は黙りこむしかなかった。
……夢川がまさか俺に対してこんなに甘くなるなんて、まったくもって予想外だった。
先輩と後輩、上司と部下という関係を経て、俺たちは結婚し、夫夫 になった。
二人の子供にも恵まれ、――おそらく家庭円満で、ある意味理想的な家族として周りからは見えているだろう。
しかし――、問題がまったく一つもないわけでもない。
むしろ長年先送りにしてきたその「問題」を俺はどうするべきかとここ最近、それで頭を悩ませている。
四歳児に言ってもわからないかも…と思いつつ、俺はかわいい我が子を諭した。
「ひろむ、うなじを噛んではダメだよ」
「うぇ? しゃちょー、ちゅーちゅーするよ?」
……なぜか我が家の子供たちは、父である夢川のことを社長と呼ぶ。
ついついくせで「社長」と呼んでしまう俺に主な原因はあるのだが、夢川は外で他の者たちにも「社長」と呼ばれることが多いので、いつのまにやら社長呼びが定着してしまっていた。
ちなみにすでに小学校に通っている歩は家の中では俺のことを「父さん」、夢川のことをやっぱり「社長」と呼ぶ。
外では、さすがに最近外聞を考えるのか、俺は「父さん」で夢川を「父さま」と使い分けているようだ。……七歳児にして、教えたわけでもないのにすでに処世術を身につけているっぽいところがさすがだと思う。俺が七歳児のときにはもっと動物的だったし、あまり深く物事を考えていなかった気がする。
俺はどう言ったらいいか考えあぐねながら、幼い我が子に向き合った。
「社長は、父さんと結婚しているからいいんだよ」
……本当は、「番」だからと云うべきだ。
それが、婚姻している正しいαとΩの在り方だから。
だけど、――そう説明できない苦しさに胸がどんよりと重くなる。
すべて自業自得なことであるけれど、子供に俺の中に巣食う気持ちを説明するのは難しい。
「ぼく、とうとと、けっこんする!」
にぱりと笑って究極にかわいらしいプロポーズをしてきた我が子に胸をうちぬかれた。胸にはびこる重(おも)しも一瞬で吹き飛ぶ威力だった。
(天使か…!)
うちの子がかわいすぎてツラい。
「そ、そうか…! 弘は父 とと結婚したいのか…!」
天使な我が子についふらふらとよろめきかけた俺は、リビングの戸口から底冷えする声が聞こえたことにより我に返った。
「…………弘、父 とは父と結婚していますから、君がどんなに望んでも決して君のものにはなりませんよ」
俺は弘と二人きりだと思っていたリビングで、前触れなく会話に加わってきた声に仰天し、慌てて振り返った。
そこには、やはりというか夫である夢川が珍しくも不機嫌も露わに佇み、こちらを見下ろす姿があった。
「しゃ、社長!?」
「しゃちょー!」
ぱぁあっと笑顔になった四歳児が、いきなりあらわれた夢川にも動ぜず、ぴょんと飛びついてゆく。
弘は、子供だからというのを抜きにしても、ちょっと空気を読まないところがあった。
読めないというよりも読まないのだ。
今も夢川の機嫌などそっちのけで自分の気持ち最優先に大好きな父の元へ駆けつけていった。
夢川もやっぱり俺同様に弘の笑顔に弱いところがあるので、明らかに機嫌が悪いにも関わらず結局抱き上げて「ただいま」と頭を撫ぜてやっている。
その微笑ましい親子の光景に、俺の動揺も潮がひくように去っていった。
「おかえりなさい」
「……ただいま帰りました」
何年たっても、俺たちはこうやって敬語のまま会話をしている。
周囲にはときに妙な顔をされるが、別段二人の仲が冷え切っているわけでも喧嘩中というわけでもなく、前からの習慣が抜けなかっただけだ。
敬語はなしで、と試してみたことが何回かあるが、どうにもヘンな感じがしてしっくりこないし気にしすぎて会話が減ってしまったのでもう諦めた。
俺たちはこれが自然な話し方なのだからもうそれでいいだろうということになったのだ。
おかげで、弘はともかく歩まで敬語で話すようになってしまったのは、ちょっと困りものではあるのだけれど。
「早いですね。どうしたんですか?」
「急な出張が入りまして……。夜の便で成田を発って一週間ほどN.Y.に行ってきます」
「そう…ですか」
確かに急な話だ。
「なにかトラブルでも?」
「……いえ、むしろこちらにとっては大きなビジネスチャンスに繋がる話です。殿塚から融資の打診を受けました。新プロジェクトとして北米への海外進出を本格的に考えているそうで、私もそれに同行することになりました。……こちらの都合はおかまいなしなところには腹が立ちますけれど、……ええ、本当に、彼は昔から横暴で、そのくせどこをどう調べたのか、ちゃんと私のスケジュールをきちんと把握して話を持ってくるのが最高に気持ち悪いのですけれどね。……ほんとうに、どうやって調べているのか情報源はどこなのか…」
ちらりと疑わしげな目で見られた俺は小刻みに「俺は知りませんよ」と首を振って無実を訴える。先ほど名前があがった殿塚というのは例の腹黒元生徒会長のことだ。フルネームは殿塚 薫 。αの中でも特別に際立つ存在感を放ち、その雅な名前が嫌味なほどに似合う美丈夫だが、たぶん腹のなかは真っ黒なお人である。確かに俺と夢川を取り持ったキューピットといえばいえなくもないけれど、愛の神と認めるにはいささか抵抗がある人物だ。
夢川は出張の準備のために一旦帰宅し、夜に備えて少しでも体を休めるために帰ってきたのだった。
「すみません、しばらく留守にしますけれど、子供たちと家のことをよろしく頼みます」
「はい、任されました」
ちょっとおどけてにっと笑うと、唇のはしにすばやくキスが落とされた。ふわりと鼻腔を夢川の匂いがくすぐった。夢川のフェロモンは、檸檬のような香りだ。さわやかで甘酸っぱくて、俺はうっとりと目を細める。
「離れがたいです。君も連れて行きたい」
夢川は、そんなセリフで俺の心までも虜にするのだ。高じた気持ちのままに、今度は俺の方から右顎辺りへ短くキスを返した。
昔なら…、秘書だった頃なら、俺はあたりまえのように夢川に同行しただろう。
だが、今はそうはいかない。
俺もわかっているし、ムリは承知の上で夢川自身も言っていることは、ちゃんと伝わっている。
弘はともかく歩は学校があるから早々休ませてついてゆくことはできない。
そもそも旅行ではなく仕事なのだから子連れで同伴するなど論外である。
それでも、離れがたい気持ちはあった。
甘く乞われたせいばかりではなく、もちろん俺自身もついていけるものならついていきたい。
夢川が声のトーンを落として俺の耳元で囁く。
「君のうなじは、私のものです。たとえ我が子にも触れさせることは許さない」
ドキリと胸が鳴る。
ときどき、こうやって強い言葉で気持ちをむき出しにする夢川に、俺は弱い。
夢川は抱いていた弘を下ろすと、俺のうなじに顔を埋め、そこに舌を這わせた。
「っ…、待って…ひろむが…」
子供が見ている前じゃマズいだろう! と、逃げようとするが、両腕ごと上半身をきつく抱きしめられて抵抗を封じられた。
「いいかい弘、これは父の特権だ。二度と触れてはならない。わかったね」
「あ…あぃ」
ちょっと怯えたような小さな返事が聞こえ、俺は居たたまれなくなった。
「社長…! 子供相手に本気で威嚇しないでください…! 大人げない!」
「子供だからといって油断なりません」
「弘はまだ四歳だし、自分の子でしょう」
「αにとって血縁はあまり関係ないのですよ」
「…え?」
「知りませんでしたか? ……αにとってΩは、それだけ魅惑的だということです」
「いや、親子ですよ? え?」
戸惑う俺のうなじを舐め、夢川は心なしか苦しげにつぶやいた。
「親子でも、間違いは起こります。ときに兄弟間でも。……あまりおおっぴらに知られてはおりませんが、古来からΩ性の近親相姦はそう珍しいことでもなかったのですよ。本人が望まずとも、Ωのフェロモンはαをどうしようもなく惑わし、誘うのです」
「でも……俺は…」
俺のフェロモンは薄い。
夢川が気付かないほどに。
「――お願いです。私も我が子にまで嫉妬したくはありません。次の君のヒートのときには、私と番になってください」
俺は息を飲んでその懇願を聞いた。
弘は父に叱られてしょぼくれていたのも一瞬で、すぐに興味は部屋の隅に置いてあるおもちゃ箱に移ったらしく、そちらに突進し、遊びだした。
すでに俺たちの会話などには興味もない様子で、おもちゃの電車を走らせるためのプラスチック製レールの連結に夢中になっている。
ちゅっちゅっと首筋をたどる小さなリップ音がまるで哀願のようで、耐え切れずにぎゅっと目を瞑 る。ここまでさせる自分がひどく傲慢な人間に思えた。……きっとこの光景を他のαが目にしたら「なんて身の程知らずなΩなのか」と不快感をあらわにすることだろう。
だけど、俺にとって、それはとても勇気のいる決断だった。
そしてその一方で、長い年月、きっと本心では誰よりも望んでいた――渇望していた願いでもあった。
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