84 / 84
21
◇◇◇
やわやわと吹いていた風が止み、水を打ったように静まり返る夜は、薄気味悪い程に酷く平坦な世界を作り上げていた。
一人で暮らすには広過ぎる屋敷は、元々は黒栖家の分家筋に当たる家系が所有していた物だった。都合のいい意見ばかりを耳障りの良い言い訳で並べ立て、後ろ指をさされても構わないと言い聞かせながら我が物顔で出戻ってきた。
それを今更ながら静けさに満ちた空間にふと思い返し、翔馬は寝室を隔てる障子に背を向けたまま、柄にもなく物思いに耽る。
ゆっくりと音を立てながら障子が開かれた。背中越しでも感じる神経を逆撫でするようなざわつきに、風がなくとも過敏に鼻腔を擽る毒々しい香り。
翔馬は隣に来た『昴』に対し、組んでいた足を崩し、前髪から覗いた翡翠でちらりと視線を寄越した。
「よう、久し振りだな。黒昴」
「黒昴って……あんまりその呼び方好きじゃないんだけどさー」
無邪気な子供のような喋り方とは似つかわしくない、黒く淀みきった穢れた魂魄。反転の性質を持ち合わせていることに驚きや戸惑いは少なからず持ち合わせているが、歳の割に落ち着いている『昴』は特に翔馬に対して気にする素振りは一度たりとも見せなかった。
「で。いきなり何しに出てきたんだよ」
「ん? いや。俺がようやく馴染んで来たみたいだし、気の緩みが目立って来たなぁ。って思ってさ」
あっけらかんとした軽々しい物言いに、危機感等を募らす心配が不要だと制されているようだ。あまりにもフランクな口調に変わった物だと翔馬は訝しげに眉根を寄せながら、穢れた魂の側面である『昴』を凝視した。
「普通なら出てきちゃいけないんじゃなかったのか」
「まあ、普通ならね。今はアンタ以外起きてないし、別にいいかと思っただけだよ」
子供らしからぬ冷静さに翔馬は却って落ち着かないと内心で悪態をつき、特に派手なアクションを起こさないまま、隣で庭を眺めている『昴』の横顔を一瞥した。
……顔だけなら似てるのかもな。
何故か無意識に蒼星や三月を重ねて、比べてしまう。今の所は顔の造形と無表情だけが二人の雰囲気を醸している。
だが、それだけだ。それ以外は幼馴染と周辺環境による物で培われた物なのだろう。翔馬は苦々しく奥歯を強く噛み締め、やるせなさに静かに激怒した。
黙り込んでいたのも束の間、先程までの軽快な喋り方を引っ込めた『昴』は、翔馬の顔を見ずに口を開いた。
「ねえ、あのさ。いつも気になってたんだけど、俺と両親を重ねて見ないでくんない」
怒りというよりかは呆れ果てているような、妙に達観しきった困り顔を浮かべた『昴』は、薄々というより確実に気付いている様子で翔馬の思考をあっさり言い当てる。
「それ、はっきり言っていい迷惑。あんな人としての情がない、ただの私欲の為だけに人間を実験道具にするような奴ら。『俺』はどうしても耐え難いんだよね」
「あの二人は、そんな奴じゃ……」
「まあ、なんだっていいけどね。少なからず
アンタは信用に値しないのは明白だし。言っとくけど、それは白い方の意見じゃないよ」
突き刺すような敵意に似た鋭利な視線を直近で注がれ、口角を歪めたまま『昴』は翔馬に対してやんわりと注意し、くつりと妖しげに笑った。
「黒昴は、白い昴の周りに居る人間をどう思ってるんだ」
「松村達のこと? 信頼してるに決まってるでしょ」
「……俺との差がエグいな。わざとか?」
「一年も同じ人間と生活出来ただけの違いだし、当然じゃないの」
至極真っ当な意見に翔馬は非常に虚しさやら悲しさやら、寂しさやらで胸全体を支配され、重々しく項垂れた。
……俺は苦手なんだよな。
何を考えているのか読めない人間は特に苦手だ。それが一周り以上も歳の離れた子供だろうと、翔馬は年甲斐もなく怯んでいた。
翔馬の態度の変化など気にも留めない『昴』は、その場で大きな欠伸を呑気に漏らした。
「そろそろ限界かぁ。じゃあ、おやすみ」
穏やかな微笑を垣間見せながら、ふっと身体を翔馬に預けるように眠りに落ちた。
爛れたような異臭は直ぐに消え失せ、穢れ一つのない甘やかな芳香を放つ魂魄に変わる。表の側面である昴に戻ったらしい。翔馬は年相応の寝顔を晒す昴に対して、気の抜けた笑みを零した。
「ったく、世話の掛かる奴だな」
ずっしりと重い昴の身体を荷物を担ぐように持ち上げ、静かに寝室を開ける。
心地よさそうに手鞠は胸を上下させながら眠りこけ、小さな子犬サイズになっている月銀は普段の人型から獣の姿で丸まって眠っていた。珍しく気が抜けているらしい。翔馬はゆっくりと肩に担いだ昴を布団の上に降ろした。
ふと、昼間に出会った志郎が言っていた話を思い出す。
――内側に区分されてるからって、そうそう上手く行かねぇぞ。
――絶対に宮盾の『琴線 』に触れるな。
「……触れたら死を覚悟しろ、か」
いけ好かない金持ちに言われた忠告紛いの警告に、翔馬は苛立ちを覚えたが、それもそうだろうと腑に落ちてしまったのも気に食わない。翔馬は昴を見下ろしたまま、己の双眸にはっきりと映し出される純白に輝く魂魄に暫しの間だけ見惚れた。
スウェットからちらりと覗く綺麗に割れた、くっきりと隆起した腹筋を撫でながら、昴が眠っているのをいいことに翔馬は擽るように手を差し入れ、素肌の感触を確かめる。程良い弾力と硬さが掌によく馴染み、素肌にしっとりと張り付いた良い触り心地だ。
男らしい肉体に色気を感じる日が来るとは思いもしなかったと、身体の輪郭 をなぞるように弄 り、不躾に眼光を研ぎ澄ませたまま、迫りくる興奮に任せた勢いでスウェットを捲り上げようとした矢先だった。
「〜〜ッ!?」
「さっきから何やってるんだよ、この汚物 が」
声にならないような衝撃が下腹部に直撃し、目の前が激しいフラッシュを起こしたまま、翔馬は下っ腹を押さえたまま蹲 る。
容赦ない昴の罵声は静かな苛立ちを滲ませているような、まやかしでもなく実際に軽蔑している冷酷な眼差しを翔馬に向け、さっさと布団に包 まって眠る態勢を取り出した。
「……お、汚物じゃねぇし……」
「眠れないなら簀巻 きにして庭に転がすぞ。こっちは明日も早いんだから、四十路 間近のおっさんもそろそろ寝てくれないか」
「……よ、容赦がねぇ」
「悪いけど、これが素だ」
ピクピクと痙攣 している翔馬を労 ることもせず、二度寝はせずに布団から出た昴は、翔馬の使用している布団を引っ張り出した。
「え、まさか同衾 ……」
「一人で寝ろ」
「……え、ちょ、待っ」
年甲斐もなく迫りくる恐怖に腰を抜かした翔馬は、少しでも子供だからと舐めていた昴に対して今更ながら性的な悪戯を仕掛けようと邪な感情を抱いたことに後悔した、穏やかで静かな夜だった。
◇◇◇
築数年の若さが目立つ小綺麗なアパートは家賃がそれなりに高く、それに見合った設備で充実している。入居してから既に三年近いとベランダの窓を開け、一人煙草の煙を燻らす志郎は口寂しげに煙草の箱を手放せずにいられなかった。
短くなった煙草を灰皿に押し当て、暇を持て余したせいか首の後ろに軽く爪を立ててやわやわと引っ掻く。冷静になれない時の手癖だ。昔は派手に引っ掻いたせいか流血沙汰になったこともあった。
傍らに置いていた携帯電話から着信を知らせる音が鳴り響く。個別に認識出来るように着信音を設定しているせいか、某怪獣のテーマはやはりやり過ぎたかもしれない。
志郎は「ゴリラの間違いだわ」と呟き、通話のアイコンに触れた。
『よぉ、ボンクラ』
「……うわ、美佳子。今夜はお楽しみだったのかよ。うっわぁ」
『引いてんじゃないよ。ったく、昔からのよしみで雇ってやってんだから、その態度はいけ好かないね』
普段と変わらない傍若無人で横暴な口調に纏わりつくような色気を帯びた声色に、志郎はブツブツと文句を垂れ流しながら、調子のいい美佳子に対して、嫌そうに「何の用だよ」と聞いた。
『何、惚れた男が寝取られた気分でも感じてそうだなって思ってね』
「寝取られてねぇし、第一まだ宮盾の奴は童貞だ」
『ははっ。そうだったそうだった』
酒でも入ってるのか、自棄に上機嫌で電話越しの絡み酒でもされているようだ。酷く質が悪い。悪質な絡みには少しだけ傷心気味の志郎には無駄に疲れさせるだけだ。
昔からの間柄、といっても大手飲食チェーンを展開する大企業の不良娘と世界有数のホテルグループの放蕩息子だ。素行の悪い者同士おかしな付き合い方も変に通ずる物があったのか、ずるずると十年以上の馴れ合いをしている気がする。
だが、美佳子は以前から黒栖翔馬という男と知り合いらしい。それもあって茶化しに電話を掛けて来たのだろう。
『あの陰毛野郎はいけ好かない奴だろう?』
「本当にな。なんつーか、人間を見るような目じゃねぇ。中身探られてるみたいで薄気味悪ぃ」
『彼奴が見てんのは人間の魂だからね。実際の人間自体はそんな重要視してないさ』
「……ってか、そもそも浄化屋ってなんなんだよ」
『お祓いとかしてくれる業者とでも思っときな。細かいことは知る必要ないさ』
軽く埃を払うみたいに簡単にはぐらかされ、志郎は子供のように顔を顰める。美佳子にとっては些細な問題なのかもしれないが、誂い混じりに電話を掛けてくるのも余計に腹が立つ。
『助けられた中坊との運命的な再会ねぇ。いやぁ、アンタにも純情ぶれる心があったんだ。いやぁ、面白い』
「……テメェ。ネタにしに来ただけかよ」
『応さ。まあ、肝心の宮盾自身は覚えてなさそうだけどね』
「……他人に興味ないらしいから仕方ねぇだろうが」
豪快に笑う美佳子を他所に、志郎は深く溜め息を吐き出した。
昨年の季節の変わり目となる節目に偶然の再会だった。
出会った頃よりも背丈は伸び、逞しく育った男子高校生。相変わらず正義感だけは強いらしい。容赦がない部分も変わらない。特に性的な問題には更にタガが外れる。それだけで十分な程に一致していた。
……でも、覚えてねぇよな。
今から二年前の春に志郎は当時中学三年生の昴に助けられた。救われたのと同時に、この歳になってまで初恋を拗らせている。
……本当に。
「人間らしくなったよな」
『……それ、いつも言ってるね』
「事実なんだから仕方ねぇだろ。あん時は本当に……」
喉まで出かかった言葉を言いかけて、志郎は慌ててぐっと飲み込んだ。
「いや、なんでもねぇよ」
『……そうかい。じゃあ、アタシはこれでお暇させて頂くよ。煙草、あまり吸い過ぎるんじゃないよ』
「わーってるよ」
小言を最後に通話は切れ、携帯電話の液晶画面を静かに見下ろす。通話時間は思っていたよりも短く、想像よりも会話をしていなかったらしい。
志郎は深く溜め息を吐き出し、煙草を取り出そうとしたが、思い留まるように煙草のケースを床に投げ捨てる。乾いた音がかさりと鳴り、無情な気配を痛感する。
言いかけて言い淀み、志郎は口にしてしまうのも躊躇うことを一人でに呟いた。
「……化け物そのものだった、か。我ながら酷ぇな。絶対に傷付くだろうが」
昴はきっと、そう言われても薄く笑って肯定するのだろう。それを安易に想像し、あまりにもそれが型に嵌るのが嫌な妄想の範囲内であって欲しいと祈るばかりだ。
……でも。
「あの糞天パは、一生かかっても気付きゃあしねぇよ」
嘲笑混じりに勝ち誇った顔で自信ありげに吐き捨て、志郎は本能的にも理性的にも受け付けない翔馬の顔を思い出し、くっと傲慢に口端を釣り上げて笑った。
車椅子の少女にだけ見せる笑顔が脳裏に焼きついて離れない。嫉妬よりも羨望が大きく塗り潰した劣等感を優越感に塗り替えてしまいたい。
志郎は自身にとっての最高値の幸福である初恋の成就に対し、再び決意を新たにしていた。
ともだちにシェアしよう!