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始章:名無しの記憶

 帰る時は『ただいま』。  迎える時は『おかえり』。  ありふれた日常の中で紡がれる合言葉は沢山転がっていて、不思議と身体に染み付いてしまう魔法のようだ。  魔法の言葉は決して、綺麗な言葉だらけじゃないことに少女は疑問を覚えている。絵本や児童文学で見られるようなキラキラと輝く世界は存在しえない。幻想を打ち砕かれては、不完全で矛盾(むじゅん)の支柱の中を生きる人間が、不自然な生き物であると、目の前に居る女性に吐き捨てる。  言葉数が少ない少女にしては、珍しく長く喋った方だろう。口の中がかさついて、目の辺りに熱が(ほとばし)るのを感じた。  女性は驚いた顔を浮かべたが、直ぐに柔和な笑顔に戻る。 「完全であるべきなら、生き物でいる必要はないのです」  完全を否定する女性は、自分の膝を枕にして眠る黒い少女の頭を優しく撫でる。  不完全な生物を肯定する女性は、蒼い双眸(そうぼう)を細めながら微笑んだ。 「貴女は好奇心旺盛な子なのね」  女性が口にした言葉は理解しようにも、稚拙(ちせつ)幼稚(ようち)な少女の頭では首を傾げるだけだ。  風に煽られて踊る女性の髪毛が星の涙を散らすように爛々と輝いていた。風がどこから吹いているのか、少女は確かめようと立ち上がった。  病的な程に白い部屋は清潔感を通り越す。歩いても歩いても、どこに行き止まりがあるのか分からない不安定な白さだ。  空気が入り込む場所を探そうと、覚束(おぼつか)無い足を進める。この部屋に壁はあっただろうか。少女は前に出した両手をパントマイムのように振りながら、ふわふわと感覚が(うわ)ついて跳ねる意識をどこか外側から見ているようだ。  突風が素肌を突くように触る。少女は風を感じた方向を振り返ると、女性が黒い少女を抱きながら裂け目を見詰めている姿が飛び込んできた。  声を上げようと口を開いた。  だが、少女の口から音は漏れ出ることなく、呼吸をしようと口を開閉させる魚のように無音を吐き出していた。  ――まだ知りたいことが沢山ある。  黒い少女を連れて、女性は白い部屋に生じた裂け目から漏れ出る光を浴びて、立ち尽くす少女に笑みを向ける。母のような慈愛(じあい)に満ちた眼差しが嫌に寂しさを(つの)らせる。  亀裂(きれつ)が入る音色が響いた。小さかった音が迫り来るように大きく変化していき、白い部屋を一層(まばゆ)く照らす閃光(せんこう)飛散(ひさん)した。視神経を刺激し、今まで感じたことのない激痛が少女を襲う。  焼き切られる回線が火花を散らす。切れてはいけない回線が熱を与えられながらプツリプツリと一本、二本と引き伸ばし引き千切られていく。  痛みがどこから来るのか幼すぎた少女には分からない。それでも少女は涙と共に抑え切れない感情を吐露(とろ)した。 「――置いて行かないで」  白い世界の中、少女は全てを忘却する。涙の意味を知らずに、少女は消えていく彼女達の後ろ姿を最初で最後の記憶の(ページ)に焼き付けた。  ――覚えているのは。  優しく頭を撫でてくれる(てのひら)の温もりと。  名も知らぬ子守唄だけ――

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