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第48話「新しい自分へ」

 発情を抑制するのは、トリプトファンというアミノ酸の一種と忍耐力だと、カイルに教えられた(あかり)は、それを試したくて、うずうずしていた。  夜十時過ぎに(たすく)が帰って来ると、燈は裸体にガウン一枚を羽織った姿で彼を出迎えた。 「ただ今。カイルさんはまだ?」 「カイルは楓さんのとこに寄るって言って、まだ戻るって連絡は受けてないよ。」  匡は二人きりなのだと認識すると、燈の細い腰に手を伸ばした。   「今日の会食は退屈で、途中で何度も抜け出そうと思ったよ。…お風呂、もう入ったの?」 「うん。今日は早く寝ようと思って…。」 「じゃあさ、俺の寝室で待っていてよ。」 「…セックスしないなら、いいよ。」  燈の態度に、匡は男の征服欲を掻き立てられる。 「もしかして、また実験?」 「うん。今日は発情しない自信がある!」 「そう…?」  疑わし気に燈を見た匡は、スーツの上着を脱ぎ捨てると、ネクタイも外して床に放り投げた。  リビングルームの革張りのカウチソファに燈を追い詰めた匡は、そこで彼を押し倒してガウンの前を(はだ)けさせた。 「匡さん、ちょっと待って!キスとかは…ダメだと思う!」 「どうして?発情しないんじゃないの?」 「一応さ、逃げ場を確保した(てい)で、…っていう条件なんだよね。」  燈が懇願混じりに抵抗すると、匡は彼を抱き起こした。 「…条件が揃わないと、発情してしまうんだね?」 「元がオジサンの性欲処理用だからね…。」  燈はわざと自分の事を卑下してみせた。それを聞いた匡のテンションが少し下がったようだった。 「ねぇ、燈君。…俺以外に、何人の人と経験してるの?」 「それ、訊く?」 「ご免!ただ、凄く…」 「慣れてるから?…特殊な体質なのもあるけど、俺は一度やったら何でも習得しちゃうんだよね。これは俺の特殊スキルだから!」  燈の怒りを買ってしまったと思い、匡は真剣な表情で再度謝った。 「ご免。訊いちゃいけないって分かってたのに…。ずっと、見ず知らずの誰かに嫉妬してたんだ…。」  燈は匡を許すと、彼の肩に両手を回した。 「匡さんが思ってるよりは少ないからね。…匡さんとシた回数が、誰よりも一番多いから。」  ひと際大きく、匡の鼓動が跳ね上がったようだった。 「抱き締めるのはいい…?」 「いいよ。」  匡の両腕が燈の背に回され、二人の体が密着した。途端に燈の体がざわつき始める。 ――発情、来るな!…俺が発情したら、匡さんの人生が終わる!…匡さんが社会的抹殺を受けてしまう!  燈は匡の絶望的な未来を想像して、込み上げてくる熱い劣情を掻き消す努力をした。  やがて、発情メーターが上がりきる前に、自力で堪える事の出来た燈は、不敵な笑みを匡に向けた。 「…燈君?」 「よし!打ち勝った!」  燈は達成感を抱くと、匡を押し退けて立ち上がった。 「実験終了。…有難う、匡さん!じゃあ、おやすみなさい!」  燈に翻弄された形になった匡は、リビングルームに一人、置き去りにされた。  こうして燈は、発情した自身を、ある程度はコントロール出来るようになっていった。  それから半年が過ぎ、季節が秋に変わった頃、カイルの母親の(かえで)が、本格的に燈の高校進学の準備をし始めた。  燈の経歴が不透明な為、市外ではあるが、楓の友人が校長を務める高校に、経歴を誤魔化して受験させて貰えるように手配したようだった。  中学の三年までアメリカのテキサス州にいた事にして、細かい経歴はカイルの生い立ちに(なぞら)えて、書類等が作成された。  問題の、燈が男に発情してしまう件については、トリプトファンのサプリメントでほぼ解決となった。  燈には代謝異常症が診られ、トリプトファンの定期的な摂取が必要だと、カイルが楓に嘘の診断書を見せると、彼女は取り引きのあった製薬会社に働き掛け、水無しで経口出来るトリプトファンと、その成分で作られた粉末タイプのミルクティーを特別に作らせた。  それらが手軽に入手出来るようになると、燈は一人で外へ出掛けたいと思うようになった。  受験する高校までの距離が車で四十分近く掛かる為、もっと近くで一人暮らしをしたいと、燈は我儘をカイルと楓に言ってみた。それに対し、早い自立を推奨している楓は、合格したら承諾すると約束してくれた。  その日、燈は髪を切る序でに、やや明るい栗色だった髪を、黒く染めるのを実践してみた。  男性美容師相手に一度、発情させられてしまった過去のある燈は、自分で髪を切れるようになっていた。  仕上がりを鏡で確認して、悪くないと自己評価する。  これで黒のカラーコンタクトを使用すれば、日本人として通用するのではないかと思えた。  後でカイルに感想を聞こうと思いつつ、ダイニングルームへ立ち寄る。  そこで、トリプトファン入りのミルクティーを作り、二階の自室へ戻った燈は、数分後、カイルと匡が揉めているような話声に気付いた。  燈は優れた聴力を発揮して、その内容を聞く。話し声は階段下辺りからのようだ。 「燈君を一人暮らしさせるなんて、俺は反対ですよ!」 「…高校に行かせるのは、俺と母さんの考えだったけど、一人暮らしを言い出したのはルーチェ、じゃなくて…燈本人だよ。」 「絶対、無理ですよ!あんな体質で…。」 「大丈夫さ。発情を抑制する薬だってあるんだから。それに、一緒には暮らさないが、俺が近くで監視する。」 「だけど、それでも発情してしまったら?俺が傍にいないと、間に合わないかも知れませんよ。」 「なあ、匡。…おまえが燈に執着し過ぎなの、自覚してるか?」 「俺は…。」  燈と匡の性的な関係は、頻繁ではなくなったものの、まだ続いていた。燈は話を聞きながら胸を痛める。 「発情した燈をおまえに押し付けたのは俺だし、そこは反省してるよ。だけど、おまえがこんな風になるなんて思ってなかったから…。」 「そうですよ!みんなカイルさんの所為なんだ!」 「悪かったよ。…だから燈と離れてみてさ、少し頭を冷やしてみてくれよ。」 「燈君に対して、冷やさなければならない感情なんて、ありませんよ…。」 「おい、匡…!」  匡の足音が近付いて来るのを感じ、燈は慌てて机に向かった。  間もなくして扉がノックされ、燈は「どうぞ」と返事をした。  特に何をしていた訳でもないので、PCの三つあるモニターの画面は全て、デスクトップがそのまま表示されている。  そのデスクトップにあるロゴに目を留めた匡が、何気に指摘した。 「LINUXって、ハッカー御用達(ごようたし)なんだってね。」  特に興味のない話で、匡はクールダウンを試みていた。 「Windowsしか知らない人は、そう言うよね。だけど、Windows使ってるハッカーもクラッカーも大勢いるからね。」  燈が振り返って見上げると、匡と間近で目が合った。黒く染めた髪を匡に撫でられる。 「似合ってないよ。」 「そう?でも、より日本人みたいになったでしょ?」  燈は彫が深い方でもなく、東洋系ではあるのだが、白い肌とバランスの良い顔立ちは、何処にも属さないような美しさを放っている。 「欧米の人の感覚は分からないけど、日本人からみたら、全然、生粋の日本人には見えないからね。」  いつも温和な印象の匡に笑みがない事に、燈は少し悲しい気持ちになる。 「匡さん、何か…今、怒ってる?」  事情は知っているのだが、敢えて訊いてみた。 「怒ってるかも。…君に出て行ってほしくないから。」 「まだ先の話だよ。…匡さんも飲んでみない?トリプトファン入りのミルクティー。落ち着くよ。」 「いらないよ。」  匡の息が首筋に掛けられ、続いて耳朶にキスをされた。 「また、俺を抱きたいの?」  そう問いながらも、発情しそうな一歩手前の処で、燈は平静を保つ努力をする。 「うん…。」  匡に耳元で囁かれ、燈は眉根を寄せた。そして、一旦匡の体をやんわりと押し退けた。 「分かった。…でも、今はダメ。十二時を過ぎたくらいに、匡さんの部屋に行くから…。」  匡はそこで微笑を見せて承諾すると、部屋を出て行った。  そして午前零時過ぎ、燈は匡の寝室を訪れなかった。そして、匡も燈の部屋を訪れる事はなかった。  翌朝、匡に顔を合わせた燈は、彼に言い訳をした。 「昨夜は行かなくて、ご免。いつの間にか寝ちゃってたんだ…。」 「うん、俺も、寝ちゃってたよ。」  匡に怒りの色はなく、穏やかな笑みが返された。  その日の夜、匡が燈の部屋を再び訪れた。 「ご免ね、燈君。…俺が間違っていたよ。」 「何?急に…。」  匡の話が読めずに、燈は首を傾げた。 「君の事を純粋に好きだった筈なのに、最近では君を無理にでも発情させて、君から求められようって思考回路になってた。…悪い大人だよね。」  匡が反省しているのが分かり、燈も罪悪感に駆られ始めた。 「ああ、その事…。それに関しては、俺にも責任があるから、匡さん一人が悪いんじゃないよ。」 「でも、俺は大人だからさ…。だから、やり直しをさせてほしいんだ。」 「やり直し?」  再び燈は匡の意図が読めなくなった。 「一旦、君の体を忘れて冷静になるから、普通に俺と過ごしてほしい。」 「そんなの、改めて言う事じゃないと思うんだけど…。」 「俺にとっては必要な事なんだ。…君を特別に好きだという事を封印して、表面的には普通に過ごしてみる。そして君がここを出て行った後に、君への気持ちを整理してみるから。」  匡は一晩掛けて、この考えに至ったのだろう。燈は彼に賛同する。 「うん。いいんじゃない?きっと、恋とかじゃないって分かると思うよ…。」 「それは…どうかな?」  匡は口の中で小さく呟いた。それを聞かなかった事にして、燈は問う。 「此処を出て行った後は、余り会わないようにした方がいい?」 「いや、それはないから!発情した場合とかさ、直ぐに俺を呼んでよ!直ぐに駆けつけるから!」  匡の慌てぶりに、燈は苦笑させられた。 「分かったよ、匡さん。」  年が明け、春が来ると、高校へ通うことになった燈は、アパートに一人暮らしを始めた。 ――なるべく自分の事を話さない。 ――人と深く関わらない。 ――特殊な人間である事を知られないようにする。  カイルに出された三ヶ条のもと、燈の住むアパートは学校の友人が見つけにくい、学校から少し離れた場所に決められた。  燈の庇護者であるカイルも、同じアパートの一室に部屋を借りようとしていたが、生憎部屋は空いておらず、彼は徒歩で数分離れた場所のアパートに仕方なく部屋を借りた。そこから彼は車で四十分掛けて、職場へと通勤する事となった。  こうして、四六時中、燈と一緒に居られなくなったカイルだったが、GPSによる所在の把握と、燈の部屋の監視カメラの映像をいつでも見られるようにする事によって、幾分、安心し、直接顔を合わせる事も少なくなっていった。 ――発情してしまったら、トリプトファンと忍耐力で遣り過ごす…!  そう自分に言い聞かせて、燈は学校へ向かう。 ――きっと、今日も大丈夫…。  黒髪に染め、黒のカラーコンタクトを入れた燈は、同じ制服の高校生の群れに紛れていった。 ――――

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