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第1話
この世界に、自分と同じ顔をした人間があと2人いると聞いたことがある。
その人物はこの狭い島国のどこかにいるかもしれず、あるいは外国のどこかで暮らしているかもしれない。
柏木 省吾 はこの話をただの迷信だと思っていたが、それは誤りだった。
もうこの世にはいないあの人と、同じ顔をした人物が近くにいる。
口調も性格もあの人と全く違うのに、顔立ちもスタイルもあの人にそっくりで、嬉しいのか哀しいのか分からない複雑な感情に捉われてしまう。
今弾いているピアノの音色は、この狭いBARの客達にどんな風に聴こえているのだろう。
もの悲しい旋律が、哀しみを湛えているのか、怒りを孕んでいるのか、悦びを表現しているのか、自分では全く分からない。
唯一言えることは、あの人と同じ顔をしたあの人物が、入り口付近のカウンターでジンライムを傾けながら、省吾の演奏を聴いてくれているということだけだ。
「完全に観客を味方につけてんな、アイツ……」
園部 楓 はジンライムをちびちびと飲みつつ、カウンターの向こうでシルバー類を磨く相田というマスターに話しかけた。
「日本人離れしたイケメンで、ピアノのテクニックも半端じゃないからね」
「何者だよ?って、毎日訊いてんな、俺……」
相田と楓は高校時代からの付き合いだ。
2人は別の大学に進んだが、時折会って近況報告をし合うくらいには親しかった。
そんな相田が親が経営していたBARを継いで2年になろうとしている。
そしてそのBARに楓が入り浸るようになって、そろそろ1年が経過する頃だ。
楓の会社からこのBARが近いと知って、会社関係の愚痴を相田に聞いてもらうために通っているという訳だ。
「ゴメンね、楓。彼の素性は教えられないんだ」
そう相田が言うと、カウンターの上からハラリと書類が舞い落ちてきた。
大方店関係の書類の山が崩壊したのだろうと、楓は書類を拾い上げるが、見た瞬間それに釘付けになってしまった。
柏木省吾、22歳。
東都音大中退、と書かれた履歴書だったからだ。
「アイツ、東都音大に通ってたのか……」
「あ、ちょっと!楓、それ返して!」
慌てた相田に省吾の履歴書を奪われてしまうが、楓としては知りたいことを知ることができたのだから、取り上げられても何も感じない。
それより、東都音大と言えば、ピアノを習う者なら誰もが憧れる超難関の大学だったはずだ。
省吾がなぜ卒業することなく中退したのかは知らないが、聴衆を虜にするような演奏ができる理由だけは理解できた。
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