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第70話
無理に何かを聞こうともしないで、会話といえば大学の講義についてだとか、藍が好きな映画やドラマの話だとか。そんな普通の話題は藍が紫之宮の跡継ぎだということを忘れさせた。会話だけ聞いていると何処にでもいる極普通の大学生にしか思えなかった。
その時間はαやΩ、運命や跡継ぎの事を忘れさせて穏やかに緩やかに過ぎていった。
翌日も、そのまた次の日も永絆は藍のマンションに泊まった。一度、着替えや必要な物を取りに自分の部屋に戻ったが、菫の買ってきた物で溢れている部屋はとても寂しくて、藍の温もりに触れた今、この部屋で一人で過ごすのは辛かった。
藍はその事を分かっているのか、何も言わなかった。当たり前の様に大学へ行き、帰る時間を合わせて一緒に藍の部屋に帰る。二人でスーパーへ寄り食材を買って、二人で一緒に作り食べた。
料理の腕は永絆の方が上で、藍は一人暮らしをしてはいたけれど定期的に実家から家政婦がやって来て家事をこなし、作り置きの料理を冷蔵庫に入れておくので自分では殆ど作った事がなかったらしい。
肩を並べて料理をするのは楽しかった。意外と手先が不器用な藍が必死で皮を剥いた野菜を見ると自然と笑いがこみ上げた。こんな風に肩の力を抜いて笑えたのはいつぶりだろうか。
菫が寝たきりになってからは一緒に出掛ける事もなくなって、楽しく過ごす事もなかった。刻一刻と迫る菫の生命のタイムリミットを感じずにはいられなくて、いつの間に心から笑う事を恐れていた。
菫の死はまだ哀しくて、不意に泣きたくもなる。
けれどそんな永絆をふんわりと抱きしめてくれる藍の腕に守られて、永絆は安心しきっていた。
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