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第1話

「最後だし、ちょっと吹いてみるか」  (たかし)がそう言って俺の手を引っ張った。卒業式は明日。3年の高校生活が終わりを迎える。机の中は空っぽだし、私物は全部持ち帰った。制服だってもう着ることはない。  そういうことだ……すべてがなくなってしまう。自分の生活がガラリと変わったら、気持ちも変わって高校生活と同じように消えて無くなってくれるだろうか。それに期待するしかない。 「鍵かかってるんじゃないの?」  喬は俺の目の前で鍵を揺らして見せる。 「先生の許可もらってるから問題なし」 「相変わらず無駄がないね」  喬はそういう男だ。することに無駄がなく要領がいい。先生たちの受けもいいし、友達も多い。志望していた大学に合格したし前途洋々だ。  俺は親父が営んでいる町工場に就職する。稼業を継ぐといえば聞こえはいいが、将来自分が工場を営んでいけるのか不安のほうが大きい。 「ほら、行くよ」  腕をひかれるまま立ち上がり、教室をでて音楽室に向かう。喬と俺は3年間吹奏楽部で頑張って来た。コンクールで入賞したり全国大会に行けるようなレベルではなかったが、音楽に向き合う3年間は充実していた。万年銀賞なんて言われる吹奏楽部だったけれど俺にとっては大事な居場所だった。  そう……ここも無くなってしまう。  音楽室でそれぞれの楽器を手にしてマウスピースを楽器に挿しこむ。俺はホルン、喬はトロンボーン。どちらも仕事としてはリズム隊。そして和音のベースづくり。旋律を奏でるトランペットのような華やかさはない。 「この楽器、今度は誰が吹くんだろうな」 「やっぱり新入生なんじゃないの?1年と2年は自分の楽器あるし」 「そっか……そうだよな」  喬はチューニングの音を鳴らした。クリアでまっすぐな素直な音。不思議なもので吹く人間によって同じ楽器でも音は変わる。唇の形、アンプッシャーの具合、肺活量で。  同じ楽器を最低三人のパートで構成する。ファースト、セカンド、サードと役割があり、音の違う3種類の楽譜を演奏して3人で和音を作る。楽器ごとに和音と旋律を作り、それが集まって曲のうねりを創り出す。各楽器とパートは全体に大きく影響するから綺麗なハーモニーを作るのはとても大変なことだ。  喬の「ラ」音より二つ低い「ファ」で音をのせる。トロンボーンの深みのある音に対してホルンは軽やかで優しい音だ。力強くはないが丸く全体を包み込むような音。  喬がコンクールの曲を吹き出した。俺もそれに合わせて旋律を奏でる。トロンボーン1本とホルンが1本。曲の表情をつくることはできないが、何回も何回も演奏した曲が俺には聞こえた。クラリネット、サックス、ユーホ、バス。フルート、ピッコロ、ティンパニーのロールとスネア、シンバル。  本当に最後なんだという実感がこみ上げる。本当にもう終わってしまう。俺の時間が変わってしまう。  曲を吹き終えた後、しばらく喬は何も言わなかった。俺もグラグラ内面を揺らす感情を持て余していた。当たり前にあったものなのに消えてしまうことが悔しかった。制服も楽器も……喬も。 「雑巾じゃないほうがいいな」  喬は楽器を片手にドアのほうに歩きだした。ようやく喬が何を言おうとしているのかわかり無言で続く。向かったのは一番近い手洗い場だ。  マウスピースをはずし楽器を大きく回転させて唾抜きをする。カタツムリのようなホルンは管が渦状に巻いているから回して水分を外にだす。  喬はウォーターキーに指を伸ばしマウスピースから息を吹き込んだ。背が高くて腕が長いからこそできる方法。俺には無理だ。  楽器の中に水分が溜まると音の合間に「ポンポンポンポン」とはじけるような音が混ざってしまう。だから皆足元に雑巾を置いて練習中にジャアっと捨てる。これを洗うのが嫌だった。 「もう雑巾を洗うこともないんだな」 「いやで仕方がなかったのにね」 「片付けて……帰るか」  喬の「帰るか」という言葉が寂しくて涙が滲みそうになる。こんな所で泣いている場合ではないというのに。 「ほんとホルンのマウスピースは小さいよな」  外して置いてあったマウスピースを喬が手にとる。トロンボーンのマウスピースに比べるとホルンは小さく浅いカップだ。  喬がマウスピースに口をつけた。え!あれ?俺さっき洗ったっけ?外して……洗って置いた?いやただ置いたはずだ。滲みそうだった涙がひっこむ! 「ちょっと!俺洗ってないし」  喬はマウスピースで軽いタンギングを始める。 ♪ トゥトゥトゥックトゥートゥットゥクトゥートゥートゥートゥットゥクトゥー 音を切るために唇の内側に舌を打ち付けてスタッカートにする。喬の舌と唇が動きマウスピースを揺らしているだろう。カアと顔が赤くなった。 「全然違うのな」  喬は僕の顔色には触れずマウスピースをゆすいでハンカチで拭いた。固まったままの俺が抱えているホルンにマウスピースを挿す。  俺の腕をポンポンと二度叩き音楽室に向かい喬が背を向けた。狼狽えているのは俺だけで喬にとっては何てことのない出来事。友達が飲んでいるペットボトルに口をつける程度のこと。俺は違う。3年間ずっと自分が唇をつけていたマウスピースに喬の唇が触れた。よりによってタンギングなんて……からかわれた?悪ふざけ?ただホルンを試してみたかっただけ?  聞きたいのに聞きたくない。背中に向かい問うてみても答えはない。喬……俺。 「ほら、早くこいよ」  音楽室の扉を開けて喬は俺に言ったから足を動かす。喬の表情や言葉に一喜一憂するのも今日が最後。楽器を吹くのも今日が最後。全部全部が……最後。

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