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第5話 好奇心に負ける

 運動部では三年生が引退し、文化部では引き継ぎが行われ、僕は来年度の副委員長を任される事になった。  全国模試で上位数名に入ったなんて噂の流れた嵯峨野先輩なら、なんの問題もなさそうに思えるのに引き継ぎを済ませた先輩は相変わらず参考書を持参し、放課後を必ず図書室で過ごす。その襟元が緩められる事はもうないけれど、たまに先輩の手がネクタイの結び目の下に触れるから、やはりそこにはアレがあるのだろうと思う。    言葉は悪いけれど先輩目当てで来ていた多くの生徒も、挨拶以外は話しかけてくれるなと言わんばかりの気迫で問題集を解く姿に数は徐々に減っていき、僕は今日も返却された図書のリストと現物が揃っているかをチェックして、貸出予約の入っているものとそうでないものを分け、本棚の乱れを直す。  静かな空間に響いていたペンの音が止まる。微かな衣擦れの音と、ん〜! と伸びる声そして小さな溜め息。  壁に掛かった時計を見れば、今日は随分と長い時間を先輩は勉強に費やしていた。  大きな音を立ててドアが開いた。  僕と先輩は何も悪い事はしていないのにも関わらず、大袈裟なほどびくりと飛び上がった。 「まだいるのか? お前たちだけだぞ? 鍵、締めちまうぞ」 「あ。また最後まで居座っちゃった」 「嵯峨野、お前、今日、答辞の練習すっぽかしたな?」 「えぇ!? あ!」  すみません……と俯いた先輩に近付くと、雪島先生は実に男らしい骨ばった手で柔らかそうな髪に包まれた頭を撫でた。 「受験勉強、がんばってんだな」  顔を上げてふわりと笑う先輩。見惚れてしまいそうな笑顔……なのに、長い睫毛が落とした影の下、それを見つけた僕は胸が痛くなった。 「先輩、睡眠不足ですか?」 「ん〜、ちょっとね」 「焦ってんのはよぉく解った。今日の練習分は明日に回すから、明日は絶対にすっぽかすなよ。ホームルーム終わったらすぐに第二準備室に来いよ? んで、睡眠はしっかり取れ」 「はい……でも、絶対大丈夫って安心感が欲しいんです」  先生の言葉に頷いて、手早く机に広げた筆記用具を片付けながら言う先輩の言葉からは、なんとも言えぬ覚悟が感じられた。だから僕は喉まで出かかった 「先輩なら余裕でしょう?」  という一言を飲み込んだ。憧れの人達を前に、大事な時期に不用意な一言を投げ付けた無礼者の後輩として記憶されるのが嫌だったのかもしれない。かと言って既にがんばっている人に対して 「がんばってください」  なんて言うのもひどく追い詰める気がして、結局僕は図書室を出る先輩の背中に 「応援してます!」  と声をかけるのが精一杯だった。  先輩はゆっくりと振り返ると、ありがとう、と澄んだ声で応え、ひらりと手を振って踵を返した。 「ほら、お前も委員会の仕事は終わり。寄り道せずに帰れよ」 「あ、はい。すみません、時計見てなくて。あ!」  僕が聞いても良いんだろうか? 直接先輩に聞かずに、雪島先生に聞いても良いんだろうか?  躊躇いは好奇心にアッサリと負けた。 「先輩……嵯峨野先輩の志望校って?」  国立といえば! の東京のあの大学だろうか? それとも京都の……? 「あぁ、聞いてないのか? あいつの志望校は――言うなよ? バカだよな。あいつならもっと上狙えるかもしれないのに」  そう言う先生の声は寂しさと嬉しさの混じり合った複雑な音で僕の鼓膜を揺らした。  ――この街から電車一本で行ける俺の出身校だよ――

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