29 / 87
闇金事務所へようこそ-2
「え? あ……っ」
黒埼は去りかけていた綾人を背もたれから力任せにソファ上へと引き摺り込んだ。
やや強引なその動作に片方の靴が脱げた綾人は、次の瞬間には、黒埼の腕の中にいて。
「あ、あの……弟さんが戻ってきます」
「なんだよ、別にエロいコトするわけじゃねぇ、肩揉みだぞ。それとも佐倉さんはソッチをご所望か」
「ちっ、違います」
真っ赤になった綾人に黒埼は口角を片方持ち上げる。
薄い黒のサングラスをかけ直し、綾人の銀縁眼鏡もかけ直してやると、自分に背中が向くよう綾人を反転させた。
我が身より細い、裸にすればふるいつきたくなるその体に、手を伸ばす。
いつも整然と纏っているスーツ越しにぐっと肩を掴む。
「あっ」
片足をフローリングにつけ、靴の脱げた片足をソファに乗り上がらせた綾人は、いきなり力の籠もった黒埼の掌に思わず声を上げた。
「悪い、痛かったか」
「あ、いえ……大丈夫です」
「やっぱり凝ってるな」
「そ、そうですか?」
「ガチガチだぞ」
大きな掌がじっくり肩を揉む。
今まで人にしたことはあるが、されたことがない綾人は、慣れない行為に辟易した。
「あの、もういいです」
「まだ始めたばかりだ」
「お客さんが来ますよ」
「予約は入っていない」
「予約なしで来る方も」
「今日は特別予約制だ」
太い親指でぐりぐりと凝り固まった箇所を刺激する。
堪らず綾人は首を窄めた。
「何だか……それ、くすぐったいです」
ビクビクと痙攣しそうになるのを我慢して、綾人は、唇をぎゅっと噛む。
「おいおい、余計な力入れるんじゃねぇよ」
「……だって……くすぐったいです」
「駄目だ、力、抜け」
今度は首の骨の両サイドに親指が埋まる。
くすぐったさが一気に増して綾人は体を前へ折り曲げるまでに至った。
「~~っ……」
「敏感だな、いつもより感度よくないか?」
「……っ、くすぐったいんです……!」
あまりにも綾人がくすぐったがるので黒埼はうなじから一端両手を遠ざけてやった。
今度は背骨へと降下していく。
背筋に添って親指でマッサージするように解していく。
「あ……」
純粋に気持ちがいい。
「そこ……」
「ん? この辺か?」
「はい、そこ……いいです」
「なるほど。じゃあサービスして延長だ」
「っ……あ……すごく……気持ちいい」
「よしよし」
心持ち項垂れた綾人が洩らしたため息に黒埼はご満悦となる。
綾人がいいと言った箇所を集中的にぐりぐりしてやった。
「ふぁ……」
自分の体を思いやってくれる黒埼の大きな手に、最初は強張っていた綾人も、満足そうにまたため息をついた。
「昼は職場で扱き使って、夜も肉体労働させてるからな。事業主としてたまにはこういう風に労わってやらねぇと。息抜きも必要だな」
黒埼の言葉に綾人は首を左右に振った。
正に心身労わられてまどろみそうになりながら、背後の男に、切れ切れに告げた。
「……働かせて頂いて、その上住む場所も……そして、そばにずっと……黒埼さんが……いてくれる」
私のこれまでの人生で、今、この生活こそが息抜きなんです。
「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇの」
黒埼はうっすら赤く染まった綾人の耳たぶを見下ろしてこっそり笑った。
より思いを込めて彼の体を労わってやる。
「これくらいの強さ、どうだ?」
「……あ」
「痛いか? 弱めるか?」
「……いえ、それくらいで……丁度いいです」
「ここはどうだ?」
「ん……っそこも……いいです、すごく……気持ちいい……」
「欲張りな体だな、佐倉さん?」
「……す、すみません」
「いいんだよ、ほら」
「あっ」
「悪い、今のは強かったな」
「……でも、ちょっと強いくらいが……じわじわ来て……初めてです、こんなの」
「よしよし、もっと奮発してやる」
事務所の隅、革張りのソファで上機嫌の黒埼は声が上擦る綾人にマッサージを続ける。
一方、事務所の出入り口である立て付けの悪いドアの外、昼休憩から戻ってきた黒埼弟は通路でずっと凍りついていた。
兄貴、職場ですんのだけはマジで勘弁……。
「大分日が高くなってきたな」
「そうですね、六時を過ぎてもまだ明るいです」
「ほら、桜だ」
「え? あ、ぽつぽつ咲いてますね」
帰宅ラッシュの満員電車が線路上を走り抜けて咲きかけの桜の花びらがふわりふわり舞う。
まだ冷たさが残る黄昏れ前、街中の雑音に囲まれて並んで歩く二人。
「桜の下には死体が埋まってるんだと」
「え? どこの桜の木の下にですか?」
与太話を本気にした天然の気が多々ある綾人に黒埼は小さく笑った。
「迷信、迷信。根っこが邪魔で死体なんか埋めらんねぇ」
「お詳しいんですね」
「あんまりにも怖いくれぇ綺麗だから何か理由付けしたくなるんだろうな」
遠い三日月をサングラス越しに見上げた男の横顔に綾人はちょっとばかり見惚れた。
雑踏と桜、日と夜、相反する情景の中で男の羽織るダークスーツが夕日含む風に僅かに揺らめいた。
「今度花見にでも行くか」
「いいですね、是非」
「あんたの手料理と酒、夜桜、で、野球拳、最高の組み合わせだ」
「野球拳は……し、しません」
「兄貴ぃぃぃっっっ! 俺と! 俺と野球拳!! 今日の夜から朝まで野球拳っっ!!」
今夜の献立に使われる食材が詰まった買い物袋を両手に提げていた黒埼の弟が一歩後ろから大声を上げた。
「ネギが落ちそうだぞ」
「このネギすンげぇ長ぇんだよ、ぱねぇぞ、兄貴!」
「長ネギですから」
「なぁなぁ、飯、何にすんだ?」
「すき焼きです」
「ぱねぇ!!」
大好きな兄といい仲である綾人のことを気に入らない弟だが、美味しいごはんにはホイホイつられてしまう。
「うまいすき焼きで俺をブイブイ言わせてみろ!」
「ブイブイ、ですか?」
「強いて言うならギャフンだ」
「兄貴ぃ、あったまイイ!!!!」
新しい職場、案外、綾人はうまくやっていけるかもしれない。
ともだちにシェアしよう!