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I fall into you-2
「だから、俺、実の母親の顔覚えてねぇんだわ」
シンジは六華の話をずっと黙って聞いていた。
こんなに騒がしい居酒屋でしていい話なのかと疑問に思い、何度も、安直に尋ねてしまったことを後悔した。
『黒埼君、年末年始はご両親と過ごしたりする?』
他愛ない問いかけを発端にして六華の過去を知ることになった。
もし特に予定がないのならどこか出かけないかと、そう誘うつもりだったシンジは、当然タイミングを逃して飲み食いもしばし中断させていた。
六華は平然とビールを飲みながら話していた。
途中、追加注文もしていた。
「しんちゃん、腹壊したのかよ?」
「……ううん」
「あんま食ってねぇのな。お茶漬けサラサラにすっか?」
「……それはもうちょっと後で」
知らなかった。
黒埼君の過去。
お兄さんへの愛情が半端ないのは、その辺が起因しているのかもしれない。
育児放棄した母親の代わりに、正式に離婚するまで、お兄さんが黒埼君の面倒を一人で見ていたのだろう。
威勢のいい店員のかけ声が背中を通り過ぎていく。
隣のテーブルで起きた哄笑がやたら鼓膜を震わせた。
「しんちゃん」
さっきから意味もなくおしぼりで手を拭いていたシンジは正面に座る六華に焦点を合わせた。
「悪ぃ」
「え?」
「こんな話、重かったな」
シンジは僅かに体内に回っていたアルコール成分が一気に蒸発したような心地になった。
おしぼりを下ろし、その勢いで箸を落とすという彼にしては珍しい粗相に至ったが、まるで気に止めない様子で胸の奥底から感情を絞り出した。
「正直びっくりしたよ、だけど……っ」
職業柄、他人の家庭の内情を知ることは多々あった。
それぞれいろんな事情がある、いろんな家族のあり方がある。
だが、さすがのポーカーフェイスも今一番時間を共にしていたい相手である六華の話となると平常心ではいられなかった。
何か言葉をかけるべきなのか。
それとも何も言わずに次の話題へさり気なく切り替えた方がいいのか。
一つ一つの小さなことに迷って密かにてんぱっていたシンジは台詞を続けた。
「だけど……話してくれて嬉しい。黒埼君の、今まで俺の知らなかったことがわかって……嬉しい」
ポーカーフェイス、シンジの柄にもない精一杯な言葉に六華は特に返事をしなかった。
連続生四杯の後で頼んだ抹茶ミルクの残りを溶けかけた氷ごと一気に飲み干す。
「お開きにすっか、しんちゃん」
街中はすっかりクリスマス一色に仕上がっていた。
街路樹にはイルミネーション、店頭にはツリー、ショーウィンドウにはホワイトカラーのディスプレイ。
がっちり腕を組んだカップルと時折擦れ違う。
もちろん、シンジと六華は腕を組まず、手だって繋がない。
同じ歩調で少し隙間を空けて並んで歩く。
それだけでもシンジには十分だった。
「寒ぃ」
夏が好きで冬が苦手な六華は厚めのジャケットに両手を突っ込み、ファーつきのフードをかぶっていた。
シンジは暖色コーデュロイパンツの尻ポケットに片手だけ突っ込んで、冷たい外気に片手の指先を曝していた。
「帰る?」
まだ零時前、明日は二人とも休みだった。
「この間、俺が買ってったワイン、一本余ってたよな」
「うん、残してるよ」
「ピザまんツマミにしてそれ飲む」
黒埼君、今日はもう帰りたいのかと思った。
いきなり「お開き」にしたから。
俺の態度に傷ついたのかと思った……。
寒くて歩けねぇと六華が珍しく駄々をこねてタクシーを拾い、五分程でシンジのワンルームマンション付近に着き、手前のコンビニでピザまんを買って帰宅。
部屋の中は外と変わらず寒かった。
一先ず暖房とホットカーペットを点け、シンジが手洗いとうがいをする中、六華はジャケットのフードをかぶったまま縮こまって座り込んだ。
「寒ぃ」
「はいはい、ちょっと待って」
「しんちゃん、俺、やっぱワインいいわ」
「え?」
「ホットミルクつくれ」
それ、かわいすぎるから、黒埼君。
コートを脱いで部屋用のパーカーを羽織ったシンジはコンロに鍋をかけた。
すぐに沸騰した牛乳をカップに注ぎ、砂糖をちょっと入れ、自分にはコーヒーを淹れてテーブルに持っていく。
「あっちぃ」
相変わらずジャケットを着込んだままの六華、かじかんだ両手でカップをとり、ホットミルクをちょっとずつ飲んでいる。
やばいな、かわいすぎる、黒埼君。
「火傷、気をつけて」
「ん」
「クリスマス、お兄さんと過ごすの?」
「は? 仕事に決まってんだろ、兄貴は浮かれる世間にころっと流されたりしねぇ」
「そんな感じはすごくするけど」
「でもまぁアヤさんと一緒いんじゃねぇの」
「前から思ってたんだけど」
「ん?」
「黒埼君、あの人のことアヤさんって呼んでるんだね」
「ん」
大人気ないとわかっていながらも嫉妬せずにはいられず、シンジはこっそり肩を竦め、コーヒーをがぶりと飲んだ。
「あちっ」
「火傷すんじゃねぇぞ、しんちゃん」
部屋の中が大分暖まってきた。
六華はなかなかジャケットを脱ごうとしない。
「しんちゃんの調子狂った感じ、悪くねぇ」
うっすら膜の張ったホットミルクを覗き込んで六華は笑った。
斜向かいに座っていたシンジがジンジンする舌の疼きを持て余し気味に、ちょっと涙目になって、視線を傾けてみれば。
六華は指にはめていた複数のシルバーリングを一つずつ外していた。
「俺さぁ」
「え?」
「なんだろな、急にしんちゃんと二人っきりになりたくなってさぁ」
居ても立ってもいられないって、ああいうの、指すんだろうなぁ。
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