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第1話

 窓から差し込む夕日に朱く染まる教室を、立ち慣れた教壇から見渡す。窓枠の細い影が、ずらりと並ぶ机の上に色濃く線を描く。日中のざわめきは嘘のように消え去り、今日という日が普段と何一つ変わらないかのような顔を見せていた。三年後、再びここに立つことがあるだろうか。そんなことを考えながら、息をついて教室から一歩外へ出た。  廊下は教室よりもさらに無機質で素っ気ない。昨日生徒も教員も総出で磨いたばかりなのに、灰色の廊下はすでに薄汚れていた。今日の昼間は風が強かったから、砂埃が舞い込んできたのかもしれないし、いつも以上の数の人が行き来したせいかもしれない。僕はうっすらと残る足跡の上をたどるようにゆっくりと歩き出す。  視線の先に、鮮やかな赤色が一筋見えた。卒業証書を入れた筒を留めるリボンだ。窓のすぐ下に落ちたその赤色だけが非日常的で、今日が卒業式の日だったということを主張しているように見える。そのまま打ち捨てられてしまうのもなんだか切なくて、拾い上げて外へと埃を払ったとき、向かい側の校舎の明かりと人影が目に入った。  彼は窓際に置かれた机に向かって、何か書類を読んでいる。昨日もこのくらいの時間だっただろうか、同じ姿勢でいる彼を見かけていた。今日という日でもいつもと変わらない様子が彼らしい。この二階の廊下から一階にある彼の部屋が見えることに気が付いて以来、授業終わりに彼の姿を探すのが習慣になっていた。電灯の光が俯く彼の髪を柔らかく照らし、そこだけがほんのりと輝いているように見える。その光に吸い寄せられるように、僕は階段を駆け下りた。  からからと引き戸を開ける音に彼がこちらへと振り向く。突然やってきたにも関わらず、ひとつも驚いた様子を見せなかった。 「おや、ドジっ子新米教師。また怪我でもしましたか」 「ドジっ子って……」 「それとも、おてんば姫?」  意地の悪い表情を作って僕に向ける。 「それは、喜志(きし)先生のせいでしょう!」 「私のせい、ですか。私は姫井先生を助けてあげただけなのに?」 「う……」  助けてもらった、ということは間違いない。だがそのせいで、新任早々恥ずかしいあだ名を付けられてしまったのだ。  三年前の入学式。それが僕の大きな初仕事だった。いっぱしの大人の顔をして準備に駆けずり回っていたけれど、まだ大学を卒業してほんの数週間しか経っていない、正真正銘の新米教師。だからどこか現実味がなく、ふわふわと浮かれていたのだと思う。式が始まる二十分前、体育館で新入生を出迎えなければならない僕は、肝心のクラス名簿を職員室に忘れてきてしまったことに気が付いた。今考えれば、名簿なんてなくてもどうにでもなったはずだ。しかし、当時の僕はそんなことに気づく余裕もなく、ずらりと並んで体育館へと向かう生徒たちの間を早足ですり抜け、最後の最後、職員室へと向かう階段で――盛大にすっ転んだ。 「痛ぁ……」  咄嗟につむった目を恐る恐る開くと、白い天井が目に入る。完全に仰向けに倒れてしまっていた。 「おい、大丈夫か?」  しばらく呆然としていたところで、突然視界が遮られた。少し乱れた呼吸が耳に届く。言葉の主は口調に反して僕の肩に優しく触れた。  僕はそのとき自分がどういう状況にいるのかをすっかり忘れて、目の前の人物に釘付けになっていた。頬にかかった細い髪が光に透けて金色に光っている。鼻筋は作りもののようにまっすぐだ。眉の形も美しい曲線を描いていて――それが険しく寄せられていなければ僕はいつまでも見つめ続けていそうだった。薄い色の瞳に、僕の呆けた顔が映っている。 「だ、大丈夫です……」  慌てて身体を起こそうとしたが、かくんと肘の力が抜ける。 「いきなり身体を起こすな。頭は打っていないか?」目の前の人が肩を押さえつけたまま鋭く言った。 「たぶん……」  落下の衝撃で少しくらくらしてはいるが、頭は痛くない。目を覗きこまれて、そのままいくつか短い質問を投げかけられた。僕は急いでいたせいで最後の数段を踏み外しただけだという情けない供述をするはめになって、その言葉に綺麗な顔があからさまに呆れた表情へと変化した。 「脳震盪の心配はなさそうだが……とりあえず保健室で休むといい。どうせ入学式の間は誰もいない」 「入学式!」  ああ、なんということだ。僕はなぜ急いでいたのかって、名簿を取りに行くためだったじゃないか。そして入学式が終わったら、今日から僕のクラスの生徒となる子たちの名前を教室で読み上げなければいけない。こんなところで暢気に寝転がっている場合ではないのだ。突然舞い戻ってきた焦りに心臓が跳ね上がり、僕を押さえていた力のことをすっかり忘れて立ち上がろうとした。 「……捻挫だな。骨折かもしれないが」  ふう、と溜息が頭上から降ってくる。結局僕は一歩も進むことができていなかった。彼は床を這う僕の足元へと移動し、新品の――この日のためにあつらえた、すでに皺だらけのスーツのズボンをたくし上げて一言告げた。 「入学式に行かないと」  焦りだけが身体を急き立てる。しかし腰が抜けてしまっているのかどうしようもできない。 「その足で?少なくともきちんと処置をしてからだ」 「でも」  その瞬間、ふわりと身体が宙に浮いた。視界がくるりと反転し、天井が一気に近づく。 「ちょ、ちょっと!」 「暴れるな。落とすぞ」  美しい造形は、まだ目の前にあった。力む様子もなく僕を軽く抱え上げた彼は、そのまますたすたと歩き出す。咄嗟に肩口へとしがみついたそのとき、僕は初めて気が付いた。彼が真っ白な白衣を着ていることを。

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