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第2話
「てっきり生徒だと思いましたよ、あのときは」
ふふ、と笑いながら喜志が椅子から立ち上がった。僕も知らなかった。彼は今でも珍しい、男性の養護教諭――いわゆる保健室の先生だった。
僕を横抱きにしたまま職員室の前を横切り、廊下を進み、保健室に着く頃にはきっと、僕のあだ名は決まっていたのだと思う。
「姫井先生のおかげで、私までいまだに教頭から『騎士 君』なんて呼ばれるんですから」
喜志と姫井、騎士 と姫 。決して小柄というわけではない僕を抱えて姿勢よく歩く姿は、確かに映画で見た騎士そのものだった。なぜそれを僕が知っているかって?僕が入学式を諦めて処置を受けている間に、僕たちの写真があっという間に出回ったからだ。僕のことも喜々として『おてんば姫ちゃん』なんて呼ぶ教頭が、実は写真を撮った真犯人なんじゃないかとにらんでいる。
「そんなところに立っていないで、座ったらどうですか。コーヒー淹れますから」
喜志の視線の先の丸椅子に僕は腰かけた。この部屋はいつも消毒液の独特な香りに満たされているが、今は開け放たれた窓からすっきりとした空気が流れ込んでいる。銀色のワゴンの上にガーゼやピンセットの入った瓶が並び、ちかちかと光を反射している。ベッドを仕切る薄いミントグリーンのカーテンも今は全てまとめられていて、この部屋がほんの少しだけ広く感じる。
「ミルクと砂糖多め、ですよね」と喜志が背を向けたまま問いかけてきた。今日も変わらず、張りのある白衣が背の高い彼の身体を覆っている。
僕がここの教師だと知った瞬間から、喜志は僕に敬語を使っている。話を聞く限り僕よりも五つは年上のはずだが、先輩教師や校長に接するときと同じ話し方をするのだ。敬語を使っているのに、相手によらず妙に堂々としているのも変わらない。
「どうぞ」
ぼうっと部屋を見渡していた僕に、紺色のマグカップが差し出された。
「わっ」
「っ……しっかり持ってください」
無意識に受け取ろうとして、指先がわずかに重なった。カップの中でカフェオレがゆらゆらと渦を描いている。反射的に引っ込めようとしてしまった僕の手は、逆に大きな手に包み込まれていた。手の甲から感じる温度は冷たい。僕は知っていた。そのひんやりとした指先が、優しく額を覆う感触を。
「まずは三年間、お疲れ様でした」何事もなかったかのように言いながら、喜志が向かい側へと座った。
「姫井先生が着任した年に入ってきた生徒たちが、もう卒業ですか……早いですね」
「ええ、三年も経ったという実感がないです。いまだに失敗も多いですし」
僕の言葉に喜志がにやりと笑う。
「保健室なんて一度も来ない生徒もいるのに、姫井先生は三年間で何回ここへ来たことか」
今日の卒業生を含めて、一人を除き誰よりも多く来ていることは間違いない。 懲りずにその辺でこけて消毒してもらうのは日常茶飯事だし、授業の準備に追われて体調管理ができず、全校集会後に熱中症と貧血で倒れそうになって、この部屋のベッドにお世話になった。一年ほど前には科学準備室でビーカーを洗っているときに洗剤で手を滑らせて、硝子の破片でざっくりと指を切った。傷は大きくなかったが、出血が多くて一番派手な怪我だったかもしれない。
「痕は……ああ、残ってしまっていますね」
喜志も同じことを考えていたのか、また僕の手をとって薄く残る傷跡をするりとなぞった。
「喜志先生、あのっ……」
顔を上げたその表情を見て、からかわれていたことに気づく。手を引き戻し、勘付かれないように呼吸を整えて本題を切り出した。
「ありがとうございました。田村も無事に、卒業することができました」
僕はありったけの感謝を込めて、頭を下げた。
田村は三年で初めて担当した生徒だった。物静かで真面目な、良くも悪くも目立つことのない生徒で、最初は僕も特別気にかけることはなかった。しかし、徐々に学校を休むようになり、一学期の終わりには遂に週に一度も来なくなってしまったのだ。いじめがある様子もない。他の生徒に尋ねても、彼らも困惑しているだけだった。
「私は彼の話を聞いただけですから」と涼しげな顔で喜志は応えたが、その目元は柔らかく細められている。
この高校は県内でもトップクラスの進学校で、ほぼ全員が大学受験をする。そこで生徒たちが直面するのが受験ストレスだ。進学校だからこそ、周囲の優秀さが目につき、自分の成績に落胆する。田村はそれに加えて、親からのプレッシャーを強く感じていた。たとえ親本人がそのつもりではなかったとしても。
「田村がここに登校することができたから、早いうちに教室にも戻ることができました。僕だけでは力不足で……」自分の言葉に気持ちが沈み込む。手元のマグカップの中に小さな溜息が零れ落ちていく。
全てが重なった瞬間、ふっと糸が切れてしまうということを僕は喜志を通して知ることになった。この部屋でどのような会話が交わされたのか、僕は知らない。だが、田村が保健室に通っている間、窓越しに見えた田村の表情はいつも穏やかだった。そして対面する喜志の眼差し――僕は彼の少し意地の悪い、からかうような、あるいは呆れかえった表情ばかり見てきた。だから、どきりとしたのだ。そのとき彼がまとっていた空気は、目が離せなくなるほど深い優しさが込められたものだったから。
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