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第3話
「姫井先生の励ましは、田村にもきちんと伝わっていましたよ。他の先生方もあなたの努力を見ていた。もちろん、私も」
ゆっくりと、静かな響きで告げられた言葉に、僕ははっと顔を上げた。あのときと同じ視線が、今は僕に向けられている。不意打ちはずるい。このタイミングでそんな風に言わないで欲しかった。僕の涙腺は今日すでに一度崩壊していて、今だってじわりじわりと決壊しそうなのを必死に押しとどめている。
それに、と僕は心の中で呟く。三年前から変わらない綺麗な男は、その眼差しの威力をわかっていないのだろうか。喜志としては他意はないだろうが、僕の心臓は勝手にばたばたと騒ぎ出す。そんな僕の心情を知ってか知らずか、喜志はからりと口調を変えた。
「彼らが卒業したということは、姫井先生ももう新米教師を卒業ということですね」
「卒業……」そうか。三年も経てば新米なんて言っていられないのだ。
「この一年間は、怪我でここへ来ることもほとんどなくなりましたし」と喜志はおかしそうに笑う。
「最初はあまりにも多いから、私に会いに来ているのかと思ったくらいでしたが」
「そんなことはっ」
そんなことはない?本当に?怪我をするのはもちろんわざとなんかじゃない。今でも一つのことに集中すると他がおろそかになってしまうし、加減を忘れて無理をしてしまうことも何度だってある。でも僕は、心のどこかで安心していたのだ。どんなにくだらない理由でここへ来ても、喜志は必ず受け入れてくれる。僕の話を聞いて、ときどきくすりと笑って、ああだこうだと厳しく忠告をしながらも優しい手つきで僕に触れる。
でもその度に言い聞かせてきた。これが彼の「仕事」だと。
「まあ、どうやらただ一生懸命なドジっ子だっただけなようですし……今回も私の勘違いということかな」
「勘違いって、それはどういう……」
「さあ?」
肩をすくめながら、これが卒業試験ということでしょうか、と呟く。固まる僕を一瞥し、形の良い眉を上げて喜志は僕のカップを取り上げた。水道へと向かう背中を、僕は呆然と見つめる。頬がかぁっと熱くなるのを感じた。一度は収まったはずの鼓動が再び走り始める。ええと、つまり?喜志は僕が彼のことを……僕は彼を、彼のことを……
がたんと音を立てて椅子が転がった。
「喜志先生っ」
驚いて振り返った喜志に向かって、僕は一歩ずつ踏み出す。
「僕は……僕は、あなたのことが、す――――」
がたがたがしゃん!
「危ないなあ、まったく」
聞き慣れた呆れ声が耳元で響く。いつの間にか僕は喜志の腕の中にいた。混乱した僕は思わず彼の胸を押し返す。だが、力強い腕は僕を捕らえたままだ。逃げるな、と囁かれ、全身が硬直する。
「それで、続きは?」
薄い澄んだ色の瞳が僕を見つめる。初めて出会ったときと同じだ、と不意に思う。あのときからきっと僕は――
「好きです」
するりと言葉が口から滑り出た。その音に急に現実に引き戻される。心臓がいよいよ口から飛び出してきてもおかしくないくらいに暴れていた。
僕を抱く腕が、小刻みに震える。次第にくすくすと堪えきれないような声が漏れ出る。喜志が笑っていた。目尻に皺を作り、今まで見たことがないくらいに楽しそうな顔で。
「一人前とはいかないですが、合格としましょう」
私はあなたのそんなところが好きなわけですし、とさらりと言う。僕は自分の耳を疑った。しかし、一ミリも逸らすことを許されないほどの強い視線が、僕の疑念を一瞬にして打ち崩す。
「残念ながら卒業証書はありませんが」
ふわっと表情が緩む。一方で、腕にぐっと力を込められた。僕の身体も意識もすべて、彼に引き寄せられる。
「卒業、おめでとう」
返答を紡ぐはずの僕の唇が、甘く、柔らかく塞がれた。
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