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第1話

雨音瑞希(あまねみずき)はひとり教室のドアを開ける。誰もいない教室は、がらんとして広々としていた。 今日は3月1日。瑞希たち三年生は卒業式だった。式は無事に終わり、卒業証書や卒業アルバムを受け取ってから、打ち上げになった。 瑞希たちが通うのは、田舎の公立高校だ。周囲にはファミレスや洒落た店もなくて、瑞希たちのクラスは、学校の調理室を借りて、打ち上げをすることになった。 最初はクラスメイトとも楽しく話をしていたが、盛り上がって騒がしくなるにつれ、瑞希はついていけなくなり。 他のクラスからの乱入者が出始めた頃には限界になって、独りでこの教室へと逃げてきた。 以前より、だいぶ緩和されてはいるが、人嫌いは未だに健在で、完全には克服できていない。 後ろ手にドアを閉め、瑞希は引き寄せられるように窓際に向かった。 窓辺に立って見下ろすと、一本だけ植えられている川津桜が目に入った。ソメイヨシノより紅の強い、濃いピンクの花びら。その美しさに目を奪われる。ため息が出るほど綺麗だ。 早咲きの桜は、卒業生たちの卒業を祝福するみたいに満開だった。春を感じさせる穏やかな日差しの中、風に揺らいでいる。 ひとつの机に腰をおろして、教室をもう一度ぐるりと見渡す。ふと、日浦翔真(ひうらしょうま)のことが気になった。お祭り騒ぎの好きな翔真は、まだ自ら打ち上げを盛り上げ、楽しんでいるはずだ。 三年生になってクラスが分かれたらどうしよう?そんな瑞希の心配をよそに、三年生も翔真と同じクラスになった。  友達として過ごした3ヵ月。恋人として過ごした1年と7ヶ月。約二年間に、たくさんの思い出が詰まっている。 修学旅行も学園祭も、日々の日常でさえ鮮やかに彩られて。翔真がいたから楽しかったし、学校生活を笑って過ごせた。 明日からこの教室とも、学校ともお別れだ。そう思うと、何だか寂しい。 ひとりで感傷に浸りかけたその時、教室のドアが音を立てて開いた。振り返ると翔真が立っていた。 「やっぱりここか」 翔真が中に入ってくる。ドアを閉め、鞄を入口近くの机の上に置く。翔真は瑞希の鞄とコートも持って来てくれていた。 「打ち上げ、もう終わったぜ」 言いながら、翔真が瑞希の側まで歩み寄ってくる。 「寒いだろ」 翔真が肩にコートをかけてくれた。 「あ、うん。サンキュ」 陽があたるとはいえ、背中が寒い。3月に入ったばかりの教室の空気は、まだひんやりとして冷たかった。 コートに袖を通す。 「桜、見てたのか?」 「うん」 「綺麗だな」 窓際に立ち、桜を見下ろす翔真の横顔を見上げながら、瑞希は無言で頷きを返す。その顔がふいに瑞希の方を向き、目があった。 「瑞希、卒業生代表の挨拶、良かったぜ」 翔真に言われるとほっとする。少しだけ瑞希の唇から笑みがこぼれる。 卒業までデッドヒートを繰り広げた翔真との首席争いは、瑞希が2勝分だけ多かった。それを評価され、卒業生代表の挨拶は瑞希に決まった。 「入学した時の新入生代表の挨拶で、初めてお前を見つけた時のこと、思い出した」 翔真が瑞希と視線を合わせたまま、静かに語り出す。 「強烈な一目惚れだった。あの時の瑞希は()が潤んで、声もちょっと詰まり気味で。どこか哀しげで、儚くもあって。そうかと思えば、凛とした強さもあって。目が離せなくなるくらい、綺麗だった。妙に色気もあったしな」 翔真の言葉を聞きながら、瑞希は思い返していた。 3年前の新入生代表の挨拶の時も、今日の卒業生代表の挨拶も、周りからどう思われるかより、天国(そら)にいるはずの父と母をすぐ近くに感じて。そこに祈りを込めただろうか。 翔真が外の桜にもう一度目を向けて。返す瞳で切り込むように見つめてくる。 「まるで桜みてぇ」 この男は……。 こっちが恥ずかしくなって赤面するようなことを、平然と言ってのけるのだ。しかも、笑えなくなるくらい大真面目で真剣に。 瑞希は伏せ目がちになり、消え入りそうな声で尋ねた。 「お前は……俺に幻滅したりしないの?」 自分が決して褒められるような性格じゃないことを、瑞希が一番よく知っている。 翔真の指が、瑞希の頬に優しく触れた。 「さぁな。時々はするかもな。でも、知っちまったら、好きなヤツのこと、丸ごと受け入れたいって思うのは、当然だろ?」 翔真には両親が事故で亡くなったこと。中学の時には、成績トップのやっかみを受けて、クラス全員から無視されたことなど、瑞希のあまり他人には知られたくない過去を伝えていた。 「もう、何度も言ったぜ」 変な憐れみでもなく、偏見でもない。翔真が瑞希に向ける眼差しはいつも温かかった。瑞希の裸の心まで丸ごと包みこむように。 喧嘩もするし、自己不信から翔真を試したこともある。 でも、その度に、見守られていることや、翔真の大きな愛に包まれていることに気づいて、さらに惚れ直しただけだった。 離れられないのも、翔真を失えないのも自分の方で。かけがえがなくて、困るくらいに好きすぎて。とっくの昔に翔真の虜になっている。 ありのままを受けとめてもらえる。それがどれだけありがたいか。 翔真に愛されていると感じるから、自分のことも好きになれるし、自信を持てる気がする。 翔真は繊細な瑞希の心の痛いところまで、抱きしめてくれた。閉ざした心を開いてくれた。今まで必死に守ってきたものさえ、翔真の前だと必要なくなる。 「自分の道は、ちゃんと自分で決められる。心配しなくても、瑞希はちゃんと自分の足で立ってる。そうだろ?」 「……っ」 一瞬、息がつまって、胸が熱くなる。泣きたいくらいに熱い気持ち。顔も泣き笑いみたいになって翔真に告げる。 「……ありがとう、翔真。お前には、感謝してる。感謝しても、しきれないくらいに」 普段なら絶対に言えない言葉が出てきて。必要以上に感傷的になっている。翔真との思い出をたくさん抱えて。今日、卒業するからだろうか? 「なんだよ、瑞希。お前が殊勝だと調子狂うだろ?」 頭を優しく撫でられる。 身を屈めた翔真の顔が近づいてきて、唇にキスされた。触れて離れるだけの軽いキス。 その翔真の顔が離れたと思ったら、今までとはガラリと表情を一変させる。少し挑戦的に試すかのように。 「ところで、瑞希。俺がなんでここに来たか知ってんの?」 「えっ?……えっと、俺が出ていって心配だったから、とか?」 急に聞かれると戸惑う。 間近でニヤッと笑った翔真に、瑞希はなんだか悪い予感を覚えた。 「お前とヤりたいからに決まってんだろ?」 「はあっ!?」 思わず素っ頓狂な声をあげる。 「考えたら、俺ら学校でエッチしたことないじゃん。 卒業記念に一発ここでヤってこうぜ」 「…………」 たっぷり10秒くらい絶句した後、 「バカじゃないの!?」 「いつもの調子が戻ったな」 けっこう本気で言ったのに、翔真は可笑しそうに声をあげて笑う。ふと、気づいたように、 「また、何気に俺の席に座ってる所が、可愛いよな」 翔真に言われてはっとする。意識しないうちに翔真の机の上に腰かけていた。ひとつ前の席は瑞希のものだったというのに。 なんだか恥ずかしくなってどぎまぎする。 「俺のこと誘ってんだろ?」 言いがかりみたいに決めつけられて、瑞希はさらに焦った。 「こっ、これは偶然だって……」 「瑞希が長いことおあずけ食らわせるから、俺、めっちゃ溜まってんだけど?」 耳朶(じだ)に息を吹きかけるように囁かれ、机の上で固まる。 受験生だから当然だけど、センター試験やら、大学入試やら落とせないものが重なって、翔真とのセックスは途切れがちになっていた。 今年に入ってからは、毎日学校にも来なくなり、家に籠って勉強づけになっていたから、翔真と会う回数も減っていて。 でも、確かセンター試験が終わった直後には、『瑞希とセックスしないと、返って勉強に集中できない』という理由で、半ば強引にせがまれてしたし。 「もう、大学入試も終わったからいいだろ?」 ねだるように、翔真の唇が首筋に吸いついてくる。 「でも、まだ受かってるかわかんないし?」 「大丈夫だって。俺らならぜってぇに受かってるって」 翔真のこの自信は、いったいどこから来るのだろうか? そもそも、翔真の部屋でするならともかく、学校の教室でしたいとか、論点がずれているのは気のせいだろうか? 今の所、人の気配は感じないとはいえ、いつ誰が入って来てもおかしくないのに。 「邪魔が入らないうちに、さっさとしようぜ」 「ちょっと待てよ」 瑞希は牽制するように、翔真の肩を押し返した。 「こんな所でしたら、後がめんどくさいだろ?」 翔真は制服のポケットを探っている。 「これ、持って来た。あと、一応、これな」 取り出して、「これ」らを瑞希に見せる。コンドームとカプセル型のローション。

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