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第1話
雨、雨、雨。
大量の水が高いスーツを濡らしていく。カバンの奥底に折りたたみ傘は入れてあるはずだが、それを取り出す必要はない。
冷たい雨が気持ちいい。
昂った気持ちが、だんだんと薄れていく。
地位や体裁ばかりを気にした生活にはもう慣れた。自由は制限されるけれど、それも大金と引き換えならいいとさえ思った。
それでも息が詰まる時はあって、ふらっと家を出ては夜道を歩き回る。どうせ三十分もすれば使用人たちは僕のことを見つけ、あれこれとくだらない説教をするはずだ。
だからこれはそれまでの、束の間の自由。
そしてそんな一瞬の間に君に出逢えたのは、運命に違いないのだろう。
*
「あのっ、」
後ろから誰かを呼びかける声。もう使用人に追いつかれたのかと思ったが、彼らならこんな声の掛け方はしない。
「そこのスーツの方!」
もう一度呼びかけられて、今度はその標的が自分なのだとはっきり分かって、なんだと思いつつ振り返る。見れば、制服を身に纏った少年が立っていた。
「よかったら、この傘使ってください」
そう言った少年は自分の右手に持った傘を差し出して、左手でカバンをあさりだす。出てきた左手には紺の折りたたみ傘が握られていて、こちらに遠慮をさせない配慮をしてくれたのだと分かった。
「要らない」
だが、それは僕にとっては余計なお世話だ。僕は雨に降られたのではなく、雨に降られにきたのだから。
「でも……」
「要らない」
他人なのだから放っておけばいいのに、その少年は一歩も引かない。
「風邪を引いたら大変ですから。傘は返さなくて大丈夫なので、どうか受け取ってください」
お節介な奴だと思って、これ以上問答を続けるのも面倒だからとその傘を受け取る。
「よかった……ありがとうございます」
少年はホッとした顔でそう言い、反対側へと駆けていった。
僕からのお礼を受け取ることなく、
自分の名前すら、名乗ることなく。
見返りを求めずに優しくする人なんているのだと初めて知って、その少年に興味を持った。
調べれば、少年は早くに母親を失くしているらしい。風邪の悪化が原因らしく、だからあんなにしつこく傘を渡そうとしたのだと納得した。
それを知って、心がじんわりと暖かくなる。そのあと、強烈な痛みに襲われた。
あぁ、君は寂しかったんだね。だから僕に母親を重ね合わせたんだ。大丈夫、僕はちゃんと生きているよ。
そう伝えたい、もう一度少年に会って、そう伝えてあげたい。そして次に会った時には、僕が君の家族になってあげよう。
そうすればもう、寂しくない。
きっとそれが、君が僕に望んだ『見返り』のはずだから。
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