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第1話 上原卓美
朝の校舎の中に、ペタリペタリと自分――上原卓美 、という、当年とって三十六歳の美術教師――の足音が響く。
足の運び方が悪いのか、何故か自分の足音は、ペタリペタリと響くので、ひと気のないこんな時間帯だとそれはそれは見事に響き渡るのだ。
健康を気にしてくれる恋人が気を使って、ちょっと値の張る医療用のサンダルを用意してくれても、自分が履いているとこの足音がするので『便所スリッパ』扱いだ。
用意してくれた恋人には大変申し訳ないことだとは思うけど、まあ、だからといって歩き方を直す方法なんぞわからないので、どうしようもない。
職員室からは一番遠く、特別教室が詰め込まれている別館の最上階、四階の一番奥にある美術準備室が目的地。
校舎内では常に身に着けているくたびれた白衣のポケットから、鍵を取り出して扉を開ける。
すっかりなじんでしまった油絵具と粘土と、煙草の香り。
もとは白かったはずだけれど今では黄ばんでしまったカーテンと窓を開けて、部屋の空気を入れ替える。
「すっかり春だねえ……」
きりっとした冷ややかさの中に、少しだけ日差しの気配がする。
外気と一緒に紛れ込むのは、凍った土が解け始める香りと花の香り。
遠くから、ピアノの音が聞こえてきた。
最寄りの私鉄駅から、すっかりなじんだこの学び舎まで、徒歩20分。
途中にある女子校では、朝からピアノの音を響かせる。
この時期はきっと卒業式の練習なのだろう、聞こえてくるのは、卒業式での定番曲だ。
「あちらは華やかでいいなぁ」
ふふと笑い、ポケットから煙草を取り出して咥える。
火をつけようかどうか迷って、先にコーヒーをセットすることにした。
備え付けのコーヒーメーカーに準備するのは、当然のように三杯分。
「ウチはむさくるしくてすいませんねえ」
静かに部屋に入ってきて隣に立ち、手伝いを始めるのは、わが校自慢の若き学校長だ。
創立一族のホープで、この学校の出身者。
仕立てのいいスーツを身に着けて、きれいな身のこなしで動く、一般的な基準でハイスペックのいい男。
自分にとってはもともと同級生だったこともあって、対外的に格好つけている姿よりも、普段の残念な姿のイメージしかないけれど。
わが校は文武両道と自由をうたう男子校なので、なんというか……ハイスペックな割には、少し流行りの男子とは毛色の違う男子が通っているのだ。
その最たるのが、この男――恵畑弘道 、通称バタ。
「それがよくて、ここに通っているのもいるんだから、いいんじゃね?」
「君みたいなのもいることだし?」
「そうそう」
こちらがバタのことを『残念な中身の男だ』と思っているように、バタもそう思っているのを知っている。
在学中から今に至るまで、自分の秘密基地のようにこの部屋を使わせてくれていることでも、うかがい知れる。
自分たちが高校生のころ、この部屋の持ち主は、かなりくたびれたじいちゃん先生だった。
この部屋で息抜きをして好きに過ごして、自分たちは外の世界と己をすり合わせていく術を身につけた。
今ではただの秘密基地。
いつか誰かが、かつての自分たちのように、この部屋を訪れるかもしれない。
訪れないかもしれないけど。
ただの秘密基地でも、ないよりはまし、のはずだと自分は思っている。
多分、バタも。
「お、そろそろ時間か?」
ガラガラと鉄の門扉が動かされる音がする。
生徒たちの登校時間いなって、正門が開けられたのだろう。
遠くのピアノの音が変わって、聞こえてくるのは『早春賦』。
「うめはぁ~さい~ぃたぁか、さく~ぅら~は、まぁだかいな」
聞こえる音は無視なのかよ。
全くピアノの音とは関係のない、都都逸を口ずさむバタに苦笑いしながら、出来あがったコーヒーをマグカップにそそぐ。
登校してくる生徒たちからこっちの姿がほとんど見えていないのは知っていて、バタは毎朝ここで登校時間を過ごす。
遠目で見守るなんてしおらしいことをしているくせに、すがすがしい朝の空気の中でバタはうまそうにタバコをくゆらせる。
教師として正しいんだか、正しくないんだか。
「花の順番て、なんだっけ?」
「一般的にいわれる、春の花が咲く順番なら、梅、桃、桜」
唐突なバタの質問に答えるのは、珍しく遅くやってきた雄一郎――日向雄一郎 。
「そうだっけ? けど、講堂前の桜なら、つぼみが膨らんできていたぞ?」
「あれは、ソメイヨシノじゃないからな」
きっちりと、三つ揃えのスーツを着込んで髪を撫でつけ眼鏡をかけた、『ザ堅物教師』な見た目のこいつは、英語の教師で自分らの同級生で、同じ穴のムジナだ。
「おはよ、雄一郎。今朝は遅いじゃん」
「よしの選曲の基準が、お前のセンスだってことを、今、納得した」
差し出したコーヒーを受け取りながら、雄一郎が笑う。
「何? 都都逸?」
「昨夜の帰り際に、歌ってた」
「ばあちゃんが、春先になると歌ってたからね……って、昨日のよしくんの門限破り、やっぱお前が原因かぁ!」
「すまん」
「あと少しで卒業なんだから、お前が自重しろよ! ウチのよしくんを毒牙にかけといて、これ以上迷惑かけんなよ!」
「マジですまん。よしがかわいいのが悪い」
「よしくんはかわいいよ。そこに異論はないけど、悪いのはお前! よしくんじゃない!」
ぎゃんぎゃんといつもの言い合いが始まって、自分は笑いながら外を見る。
部屋の空気はすっかり入れ替わって寒いくらいだけれど、もうしばらく、このままだろう。
「ほら、きたぞ」
指を差せば、バタも雄一郎も窓に駆け寄った。
愛し愛されているのは、いいことだ。
自分は二人に場所を譲って、咥えたままのタバコに火をつける。
ああ、春だね。
いい朝だ。
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