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第4話 恵畑弘道
鉄筋コンクリートの建物は、ひと気が無くなると急に音が響き渡る。
外は昼過ぎのいい日和で、きっと日向にいたらそのまま眠くなってしまうのだろうけど、ここは日陰でひやりとしている。
校舎の隅っこの美術準備室。
俺のテリトリーではないけれど、勝手知ったるなんとやらで俺はコーヒーを淹れる。
いい香りをしておちていくコーヒーを眺めていて、そうだカップを出さねばと思いだし、三個並べたところで、ため息をついた。
違う。
雄一郎は今日はもう来ないだろうから、二個でよかった。
ペタリペタリと、遠くから足音が近づいてくる。
高等部の別館には『妖怪ペタペタさん』がいると、中学生の時に噂を聞いて、わくわくしていた弟の顔を思い出した。
あんなに素直でかわいかった弟が、あんな阿呆の毒牙にかかってきれいになって、今日は卒業だよ。
そりゃあ俺も歳をとるよな、と、またため息をつく。
からりと扉を開けて、この部屋の主がやってきた。
さっきまではそれなりにきちんとした礼服を着ていたのに、いつもの白衣に着替えている。
「邪魔してるよ」
「おー。バタ、お疲れさん」
上原卓美というこの部屋の主は、俺が学校長をしているこの学校の美術教師で、いつもくたびれた白衣を羽織り、ペタリペタリと音をさせて歩いている。
不思議なことに、学生としてこの学校で過ごしていたころから、卓美の印象といえばくたびれた白衣と足音なのだ。
全く変わらない。
「あ、コーヒー。さんきゅ。丁度欲しかったんだ」
差し出したカップを受け取り、卓美は部屋の隅にあるイーゼルに向かう。
キャンバスにかけられた布を取り去り、そのままじーっと眺めている。
自分の作品を描くとき、いつも、こうやってコーヒーを飲みながら何かを眺める。
「そういやさあ、校門、えらい騒ぎになってたね」
笑いをこらえた声で、卓美がいった。
卒業生が学校から出ていく時間にあわせて、弟の恋人が、花束を持って出迎えに行ったのだ。
この学校は自分の職場だっていうのに、自分のことよりも、弟の門出を祝いたいといって。
弟を大切にしてくれている気持ちは、大変嬉しい。
しかしそれは、冷静な時に兄の立場で思うことで、学校長の立場に立てば『ふざけんなこのくそ教師!』だ。
そして。
ものすごい本音をいえば、俺のかわいいよしくんを返せ! なのだ。
「ホントにさー、雄一郎のバカが! ウチのよしくんまで巻き込みやがって~」
「や、あれ、雄一郎だけじゃないよ。去年の……ほら、覚えてるかな、生徒会長やってた鎌田」
「あの、美人か?」
去年の卒業生で、やたらキレイで人気のあったのがいた。
弟の親友がそれの恋人だとかで、去年の卒業式で大騒ぎをおこして去っていったのは、まだ記憶に新しい。
男の恋人が男とか、普通になっているあたり、ちょっとうちの学校どうよって気がしないでもない。
男子校に毒されているというか、先進的だととらえるべきか。
まあ、馬に蹴られる気はないんだけど。
「そうそう。あれが、雄一郎と同じ思考回路だったらしくてさ、今年は二人して花束抱えて校門にいたわけ」
「あー……なんとなく、わかった。去年の続きをやったわけだな?」
「そうそう」
ってことは今頃、校長室には電話がかかっているんじゃなかろうか。
職員室はまあ、いわずもがなで。
念のためにとまわした手が、無駄にならなかったことに、俺はため息をつく。
そろそろ休憩時間も終わりにしないと、俺を探しに来るなあ。
「バタ」
「ん?」
「雄一郎にもチビ久にも、釘はさしといたからさ、今夜はほどほどに家に帰りなよ」
コーヒーカップをパレットに持ち替えて、卓美はキャンバスから目を離さずに淡々と話す。
「お前、ちゃんと話してないだろ」
「話したよ」
「雄一郎だけだろ。チビ久は知らない感じがした」
図星は、困るよね。
俺は卓美の言葉に、次のセリフを失ってしまうのだけど、何事もないように卓美は絵を描いている。
「卓美……その……」
「ん?」
「怒らない?」
「なにが?」
俺はこいつに甘えている、と知っている。
今までずっと甘えてきた。
これ以上甘えてどうするんだろうとは思う。
けれど、この方法が最良だと思う自分がいる。
「ええと、さ」
「どうせバタのことだからさ、自分が何をいったってやりたいようにするだろ」
怒るも怒らないもない。
そういって肩をすくめられるともう、はいそうですね、としかいえない。
「大ちゃん、貸してくれる?」
「それ、今更いうのか?」
「今までみたいなんじゃなくて、その……年単位になるんだけど……」
ぱたり。
静かに、卓美が筆をおいた。
「バタ」
「はい」
「それ、自分にどう答えろっていうんだ? 断るなんて選択肢はないんだろ? きっと、ここで勝手に返事して断っても、大介はお前をの手助けする方を選ぶよ」
「ごめん」
大ちゃんというのは、三谷大介 という、俺の秘書。
家族ぐるみの付き合いで、代々、恵畑家のフォローをしてくれているので、大介は学生時代から俺についてくれている。
俺が生徒会長の時は、副会長をしてくれていた。
そして、卓美の恋人だ。
お互いが少ない時間をやりくりして、お互いを大事にしているのを知っていて、俺はずっと大介をそばに置いている。
俺は、ダメな大人で。
母の命を犠牲にして生まれてきた俺は、生きていてはいけないのに生かされている、そう思っていた。
くだらない思い込みを覆したのは、歳の離れた弟。
よしくんは俺にとって、何物にも代えがたい大事な存在なんだ。
だからよしくんの望むことなら、俺は、俺が不本意でも、かなえてやりたいと思う。
教師である雄一郎と付き合うことだって、よしくんが雄一郎を好きなら、と思った。
卒業式に派手なパフォーマンスをやらかすことだって、よしくんが喜ぶと思ったから邪魔はしなかった。
ペナルティは大人が引き受ければいい。
けれどそのために、友人とその恋人を巻き込んでいる。
雄一郎はいい。
自分で選んで納得して起こした行動だ、そのあとのことも納得しているだろう。
ほとぼりが冷めるまで、学校での教職を解いて、語学研修という名目で日本から出すことにした。
よしくんも同じ先に留学させる。
大介の手を借りて、手続きを済ませている。
俺は管理不行き届きを問われるだろうから、引責でこの学校を離れて、春からは別の学校に移る。
けれど。
「ほら、バタ」
卓美は変わらない。
静かなままで、俺に向かって絵を向けた。
「絵具乾いたら、もってっていいよ」
「桜?」
「桜は花束にはできないから、これで勘弁な」
よく見るソメイヨシノより濃い薄紅色は、この学校の講堂前の桜を描いたからだろう。
「卒業、おめでとう、バタ」
「卓美? 卒業、って……俺?」
「大介のことは、完全に納得しているわけじゃないけど……ちゃんと返してくれるならいい。あとで二人で話すし」
白衣のポケットから煙草を取り出して、卓美は咥える。
「それよりお前が、変わったのが、よかったなと思う」
「変わった?」
「チビ久と離れる選択をした。ここを離れることを選んだ。大介を連れていくことにためらいを見せた。今までならなかったことだ。お前にとって、多分、なんか卒業みたいなもんをしたんだと、自分は思う」
だから、卒業祝いにこの絵をくれてやると、卓美は笑った。
ああ、そうか。
卒業おめでとう、諸君。
卒業おめでとう、よしくん。
そして。
ありがとう卓美。
卒業おめでとう、俺。
<END>
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