1 / 2

第1話

「やめて」 密やかな声が聞こえてきたのは、朝の美術室準備室。 常盤(ときわ)は思わずドアにかけた手を止め、耳をすました。 「駄目だよ先生」 「でも最後だし……ちょっとだけ」 カチャカチャと軽い金属の音がした。その後に、あきらかにジッパーを下げるときのような音が続く。はあはあと荒い吐息まで聞こえてきた。 ――朝からよくやるよ。 自分の絵を取りに来ただけなのに、これでは入れない。美術室の奥にある準備室には、常盤が高等部で描いた油絵がいくつか保管されていて、卒業式が行われる今日中に持って帰らないと処分されることになっていた。 常盤は好奇心からドアをそっと2センチほど開けて、中をのぞいて見た。 美術教師の佐々木が、生徒らしき華奢な体を腕に抱いている。片手は下へ伸び、生徒の股間あたりでせわしなく動いていた。 ――こいつ、しつこいんだよな。 常盤はこみあげてくる笑いを抑えきれなかった。 「……っく」 思わず出てしまった声が聞こえたのか、佐々木は動きを止めてふりかえった。 「誰かいるのか?」 間一髪すきまから身を隠した常盤は、あわてて教卓の下にもぐりこんだ。 「気のせいか」 佐々木は美術室を見まわす。 その後ろから、色白のほっそりした顔が現れ、常盤は息を飲んだ。 ――(みなみ)!? 「もう職員室に先生方がそろってる時間じゃないですか」 けだるげな様子で言ったのは、常盤と同じクラスの南だった。 「名残惜しい」 「こないだで最後って言いましたよね?」 南の言葉に佐々木は黙り込んだが、その手を引いて抱き寄せると、首筋に強く唇を押しあてた。 「あ……」 ため息に近い声が南の赤い唇から飛び出し、白い顔に朱が()かれる。 見ていた常盤はゾクッとして身を震わせた。 佐々木の舌が南の首をゆっくり舐めあげていく。 「駄目、ほんとに駄目」 上気したような南の声が常盤の興奮をかきたてた。 「おまえの味も匂いも忘れないよ」 佐々木はそう言って南の体を離すと、美術室から出て行った。 ――似合わねえセリフ! 常盤は口を押さえて笑いをこらえた。 30代半ばの佐々木はとても美術教師に見えない筋肉質な体をしていて、ストイックそうな顔の裏で、簡単に教え子に手をつける肉食獣のような男だった。 「あ、やっぱり」 思いがけず近いところから声がして、南が教卓の上から顔を出した。 「こんな時間に来るの、常盤くんしかいないと思ったんだよね」 南は教卓に片手をかけたまま常盤の目の前にしゃがんだ。 「びっくりした?」 もぐりこんでいた常盤は、南にそこをふさがれると出られない。 「そりゃ、びっくりするだろ。まさか南が佐々木とできてたなんてさ」 「できてた、って」 南はおかしそうに笑った。 「じゃ、常盤くんも佐々木先生とできてたんだ?」 「違えよ、そんなんじゃ……」 「おれも同じだよ」 常盤は絶句した。 「嘘だろ、だっておまえ、そんなやつじゃないよな?」 南はこの男子校はじまって以来の秀才と言われていて、常に成績はトップ、学費免除の特待生でIQ180という噂だ。卒業したらアメリカの大学へ行くことになっているらしい。 そのくせ偉ぶったりしてなくて、物腰はおだやか、品行方正でいかにも清潔そうなたたずまいをしている。ふらちな意図で触れたらバチが当たりそうな、どこか神々しい感じのするきれいな少年だった。 「常盤くんほど奔放じゃないけど、おれだって何人かは……佐々木先生はそのうちの1人にすぎない」 「まじかよ」 常盤は目を見ひらいて南を凝視した。 華奢で白くて、汚れを知らなそうな美しさ――この体を知っている男が何人もいるなんて信じられない。 常盤は中等部のころから、好みの先輩や教師に言い寄られるがまま身を任せてきた。そんな自分と南は人種が違うと思って、とくに親しむこともなかった。 「もう今日は卒業式だからね、きみに知られてもかまわないかな」 南はうっすら笑みを浮かべ、ぐいっと教卓の下に頭を突っ込んできた。 「な、なんだよ?」 「常盤くんと肌を重ねてみたいと、ずっと思ってた」 鼻先がくっつきそうな距離で、南は小さくささやいた。

ともだちにシェアしよう!