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先輩は俺のことが好きだ。と思う。
恋愛的な意味での話だが、願望で言ってるわけじゃない。
モテたい気持ちはそこそこあるけれども、「先輩」といったって部活の――バレー部――のだし、男だし、いくら俺だって、男の先輩にモテてると思い込むほど、落ちぶれてはいない。と思う。
別に男同士の恋愛に異議があるわけじゃない。でも、こういうのは、いかにも男子校あるあるな都市伝説みたいで、自分に現実に起こるなんて想像すらしたことがなかった。
だから、まだ正直、やっぱこれは俺の自意識のなせるわざ、単なる思い込みなんじゃないか、と思わないではなかった。
俺自身は美少年とかでもないし、クールなイケメンってわけでもない。タッパは180㎝越えて、生意気にも先輩よりもデカい。バレー部では、ウィングのポジションで、エース候補とはいえ、残念ながら突出した才能があるわけでもなく、自分で言うのもなんだけど、それはもう絵に描いたような平凡で普通の男なのだ。
男同士の恋愛に容姿や才能がどのくらい重要かは知る由もないが、それでも、男の先輩が俺みたいな普通の男を好きになるなんてどうにも想像しがたい。俺だったら、もっとイケてるやつを選ぶ。正直、カッコいいとか可愛いとかって後輩はいくらでもいる。っていやいや、男選ぶ前提がすでにおかしいだろ。
結局、これは自意識過剰ゆえの俺の、暴走したただの妄想なんじゃないのか。
と、思いかけていたところに、昨夜、先輩から連絡が来た。
“卒業式が終わったら、部室に一人で来てくれ”
今、汗臭さと消臭剤と湿布の臭いの入り混じった部室で、俺は一人、ぽつんと先輩を待っている。
この呼び出しが、告白のような甘い、浮ついたものなんかじゃなく、卒業していく先輩からの最後のダメ出しを、延々聞かされるってしょっぱいオチの可能性も全くないとは言わない。
だったとしても、20人近い後輩の中、俺一人を、自分の卒業式の日にわざわざ呼び出してまで説教するっていうのもやっぱり奇妙だ。
だろ?
だいたい、あの人は説教とか、そういうタイプの人じゃない。後輩たちに一過言あるときなんかは特に、くどくど言わず、黙々とやって見せるような人だ。
先輩――美山先輩は、派手さはないけれど、堅実なプレイスタイルのセッターで、2年の頃から公式戦全試合、正セッターで出場するような、チーム要の存在だった。だから、そういう意味でカッコいいと思っているし、先輩として尊敬もしている。
俺は元々、物怖じしないというか、先輩も後輩もなくどんどん絡んでいくタイプだったから、どの先輩ともそれなり仲は良かった。だから逆に、あの人とだけ特別仲が良かったという意識はなかった。まあ、先輩はいつも笑ってるような愛嬌のある人で、絡みやすい先輩ではあったと思う。
ただ、そんな先輩と一時期、部活中にとにかくよく目が合うということがあった。これは、別の先輩からも「おまえら、何見つめ合ってんだよ?」と、からかわれるぐらいだったから、俺の妄想や過ぎた自意識のせいではないはずだ。ただそのときは、先輩と単に気があってるんだ、ぐらいに俺は思っていた。
それがいつの間にか、先輩とはほとんど目が合わなくなっていた。それに気がついたのは、先輩が熱中症気味で倒れた時だった。
その日は朝からぐんぐん気温が上がり、昼前には外気はすでに40度を越えていた。紅白戦の最中、どういうわけか、コート、傍らの美山先輩とふいに目があった。あれ、この感じ、久しぶりだな、と思った。まるで久しぶりに先輩を見たような気がした。
と、次の瞬間だった。先輩はがくんと唐突に崩れ落ちた。幸い俺と横にいたミドルブロッカーのやつが寸でのところで受け止めたので、先輩は、床に倒れて怪我するようなことはなかったのだが、体育館の隅で後輩たちに介抱される先輩を見ながら、俺は、先輩と全然目が合わなくなっていたことに、そのときようやく思いあたった。
なんで目が合わなくなったんだろう。いや、そもそもなんで前はあんなにも目があっていたのか。
あれは、先輩と目が合ったというより、もしかして、先輩が俺を見ていたのじゃないか。
そう思ったのは、ある時、先輩が頑なに俺を見ないようにしているらしい素振りを感じたからだった。
部活終了時すぎまでコーチにしぼられ、俺は遅れて部室に戻った。
「お疲れ……」
西側の窓からの紅い日が部屋の隅に微かに残り、薄闇が落ちてガランとして見えた部室には、先輩が一人残っていた。それ自体は不自然なことじゃなく、部室の施錠は当番制で、先輩がその日当番だっただけのことだった。
部室に入ってきた俺に「おまえ、ヨレヨレだな」と先輩は苦笑し、俺も「勘弁してほしいっす」と情けない声で応えて、どっかと部室の床に座り込んだ。
「ああ、俺、もう立てる気しねえ」
ロッカーを背もたれに、俺は力の入らない足を投げ出していた。
ふと、先輩の視線を感じた。ああ、施錠のために俺が帰り支度をすませるのを待ってるんだと思った。
「先輩、鍵もらっていいっすか。施錠して、鍵も責任もって返しとくんで。俺、マジすぐは立てないっす――」
投げだした足をさすり、ブンブン叩きながら言った。
先輩は、ちょっと考えてから、そうか、とつぶやき、鍵についたキーチェインの鈴をチリチリ言わせ俺の傍らに来た。俺は無頓着に下からそんな先輩を見上げるように手を差し出した。
先輩の顔は薄闇にちょっとシルエットになっていて、その表情はよくわからなかったけれど、ただ、俺が見上げた途端、先輩はふいに顔をそらし、鍵は鈴をチリチリいわせて、俺の手をそれて床に落ちた。
先輩は、「すまん」と慌てて鍵を拾うと、やはり俺の目を避けるように、
「頼むな……」
とその鍵をトンと俺の手に落とし、バタバタと部室を出て行った。
些細な事だったけれど、妙な感じがした。
それから、気にしてみてみると、先輩は俺とは意識的に視線を合わせないようにしているように見えた。
だからといって、先輩と疎遠、というかよそよそしい関係になったかというとそういうわけじゃなかった。
俺はスパイカーとして身長はそこそこあったけれど、パワー不足を言われていて、体力と体づくりのために部活中におにぎりを5~6個食べさせられていた。食が細いわけじゃなかったし、成長期で食欲は旺盛な方だったけれど、とはいえ部活中におにぎり5個、6個はきつい。正直、吐きそうになることもあった。
夏の暑い盛りで、食欲自体が落ちていた。なんとか2個まで食べたけれど、部活終了までに全部をとても食べきれる気はしなかった。とはいえ、残して持って返るのも気が重かった。残したおにぎりを見て――しかも3個も――作った母親がこの上なく不機嫌になることは明白で、最悪、翌日から、おにぎりどころか弁当までボイコットされる恐れがあった。
「何?篠原、おにぎりか?いらないの?」
休憩中、おにぎり入りの保冷バッグを片手に途方に暮れていた俺に先輩が声をかけてきた。
「食べます?」
軽い気持ちできいた。
「え?いいの?」
たかがおにぎりに先輩が想像以上にうれしそうに言うので、ちょっと驚いた。
「こんなん、普通のおにぎりっすよ。中身、梅干しだし」
先輩は俺が差し出したバッグから、大事そうにおにぎりを取り出している。
おにぎりは1つずつラップフィルムで包んであり、更にそれら3つのおにぎりは白地に黄緑のライン柄の布巾に一つにまとめて包んであった。
その布巾を広げ、
「丸いやつだ!」
先輩がちょっとはしゃいで言う。
「ああ、うちの母親、三角のおにぎり握れないんで――」
「うちもうちも」
先輩は1つ目のおにぎりを口にほおばったまま明るく言った。
「俺、丸いやつの方が好きかも」
さらに2つ目を取り出しつつ、先輩は言った。
よく食うな。
俺は思わず苦笑する。
「何?」
先輩はもぐもぐやりながらきいた。
「いや、よく食えるなって。俺、見てるだけでなんか酸っぱいもんがこみ上げてきそうっていうか……」
「マジかよ。うまいのに。贅沢なヤツ」
“贅沢なヤツ”?
「俺ら寮生には、手作りのおにぎりは贅沢品なんだって」
先輩はいわゆるスポーツ特待生というやつで、親元を離れ、学校併設の寮で生活していた。
「へえ、そんなもんすか」
「そうだよ」
「あ、でも、寮の食堂の飯、うまいって誰か言ってましたけど」
「うまいよ。でも、食堂のおばちゃんは俺らのためにおやつのおにぎりまで握ってはくれんだろ」
「でしょうけど……」
そこで、休憩は終わり、先輩は食べきれなかった残りのおにぎり1個をもって帰った。
翌日の部活後、先輩は、空の保冷バッグと、おにぎりを包んであった布巾を返してくれた。その布巾には丁寧にアイロンがかけられていた。
「先輩、アイロンなんかかけるんだ?」
思わず聞いたのは、純粋に驚いたのもあったけれど、布巾に生真面目にアイロンがかけられているのがちょっと可笑しくもあったからだった。
「なんだよ?」
「いや、意外というか……」
「それぐらいやるだろ?」
「なんか先輩って家庭的っすね」
これは俺のいつもの軽口だった。だから、先輩がちょっと困ったようにうつむいてしまって、俺は逆に戸惑った。
先輩がおにぎりを喜んでたことやら、アイロンがけされた布巾やらにいたく感動したうちの母親は、それ以来ときどき、先輩の分のおにぎりを俺に持たせるようになった。先輩は毎回めちゃくちゃ喜んで、あっという間に5,6個ものおにぎりを平らげていた。
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