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チャイムが校舎の方でなりだした。普通なら3時間目が始まる時間か。
実際、部室に来てから、まだ大して時間は経ってはいなかった。それに式後、卒業生たち同士、あるいは教師や後輩たちと別れを惜しんでいるだろうことは予想がついたから、中々先輩が来ないのは想定内だった。ただ、午後から部活があり、気の早い部員たちが昼前にでもこの部室にやってくるかもしれなかった。
それはまずい。
まずい……だろ?いや、俺は別に困らないが。俺は待ってるだけだ。でも、先輩はまずいんじゃないのか?だって、そうだろ?だって、それは、あれだーー。
突然、ガチャガチャいう音で、俺は我に返った。部室のドアがヒューと外に開き、
「すまん!お待たせ!」
花束やら包みらしきものやら抱えた美山先輩が入ってきた。
「大丈夫っす」
自分の声が裏返りそうになってビビる。
「せ、先輩、花束、すごいっすね」
俺はごまかすように慌てて言った。先輩はあはは、と軽く笑いながら、
「現役のときにもこんな貰ったことなかったのにな」
とドアの傍らの棚に空きを見つけて、腕にかかえたものを押し込むように置いている。その中に、卒業証書を入れた筒もあった。
「えっと、先輩、ごそつぎょうおめでとうございます……」
言い慣れない言葉がちょっと片言になるのを先輩はまた、あははと笑った。
「正直、式の間はあんま実感わかなかったけど……」
先輩は、部室をしみじみ見、
「ここ来ると、ちょっとヤバい」
わざと声を張るように先輩は明るく言った。俺は言葉に詰まった。俺も卒業式とか、自分が卒業するわけじゃないし、今日だって淡々とやり過ごしていた。
でも、そうか、先輩、いなくなるんだ。
今更実感がきた。なんかよくわからん、もやっと変な気持ちが喉元に上がってくる。
「ああ悪い……」
黙り込んだ俺を気遣うように先輩が言った。「呼び出しといてな。えっと……」
そこで先輩は、学ランのポケットから白い手のひらほどの包みを取り出した。そして、ちょっとくしゃっとなった包みの端をならすと俺の方に差し出した。
「え?俺にっすか?」
驚いて先輩を見た。
「あ、うん……いや、厳密には、篠原母と」
俺は声もなく“ええっ‼”と叫んでいた。多分、すごいバカ面で。
「ほら、おにぎり作ってもらってたろ。毎回、すっげーうまかったし――」
先輩はそこで不自然に息継ぎをした。先輩は何かをぐっと飲み込むようにして、
「嬉しかった」
と続けた。
俺もちょっとぐっときそうになって、慌てて、
「開けてみてもいいっすか?」
と聞いた。
先輩は、頷きながら、大したもんじゃないから、と念を押している。
包みを開けると中にまた同じくらいの箱が入っていて、開けると、
「ハンカチ……」
大判のハンカチが二枚入っていた。一枚は、白地に淡いピンクの蝶や花があしらわれたフェミニンなもの。もう一枚は、薄い緑地にタータンチェックのユニセックスなものだった。先輩がアイロンを掛けて寄越した布巾をちょっと思い出した。
「“篠原母”、喜ぶと思います」
つか泣いちゃうかな。先輩は小さく笑った。
「ほんとは直接あいさつしたかったけど、時間取れなくて。よろしく伝え……お伝えください」
俺は思わず吹いた。
「なんで、最後敬語?」
「あ、いや、なんか頼む感じを出そうかと」
二人でちょっと笑う。
で?
部室がシンとした。
先輩は心持ちうつむき加減で、ドアの近くに立っている。俺は、その真正面の窓側に、先輩からはちょっと離れて立っていた。
無言が続く。これは何の時間だ?ハンカチを渡すことが目的だったんなら、もう用は済んだのか?それとも、まだ他にあるのか?どうなんだ?といって俺から何か言うのも変じゃないか?
先輩の表情からはどちらともとれなかった。ただ、いつものような軽口を言えるような雰囲気でもなかった。
それでも、
「あの、先輩……」
いつまでも黙っている先輩にじれて、もらったハンカチの包みをポケットにしまいつつ、俺は恐る恐るきいた。「……用ってこれだけ?」
先輩ははっとしたように顔を上げた。目がうろうろしている。俺はちょっと息を吐き、
「これだけっすか?」
と静かに繰り返した。
先輩は、いや、と小さくつぶやき、
「最後に、ちょっと話したかった」
と言った。
俺は息を大きく吸い、はい、とうなづいて見せる。
「俺、聞きますから」
先輩は初め、うつむき加減に右手の甲を口に当てたまま、黙っていた。
「えっと……」
しばらくしてやっと、覚悟を決めるように口を開いた。
「まず、その……うちはウイングのパワーがもう一つ薄い。篠原のタッパは十分武器になるんだから、課題の体力づくり、おにぎりもっときちんと食べて、しっかりつけろ……」
俺はちょっと首を傾げつつ「ああ、うっす……」と部活のノリで無味乾燥な返事をした。先輩はそこでちょっと苦笑する。
「篠原って……入部してきたときも、最初は俺ら、おまえはちょっとチャラいやつって思ってて……」
俺は、神妙に聞きながら、はあ?と心の中で突っ込む。
「あ、いや、全然チャラくなかったんだけど、おまえって誰とでも、さっと仲良くなるだろ。去年卒業した強面の先輩たちとだって、俺なんか試合以外でまともに口きいたことほとんどなかったのに、どんどん懐いて、夏にアイス買ってもらってたろ?俺らじゃ、ありえんかったから、すげーなって思ってた。ただ、言動がちょっと軽いっていうか適当で、いい加減なとこある……」
「はあ……」
あれ?「……すんません」
「いや、チームをまとめるのにムードメーカーとしてお前みたいなのがいるのって大事だと思う。でも、ある程度、先輩後輩のけじめはつけとけよ。言うべきところは言った方がいいし、緩めるなら緩めるで――」
云々かんぬん。
ん?うそ!まさかの説教オチかよー!なんだよ!そうかよ!そういうオチかよ!マジかあ。
つか、いやいやいや、これでいいはずだろ?良かったじゃないか。ほっとしろよ、俺。それで、過大な俺の自意識がいかにバカげた妄想を自分に見せるか思いしれ。そういうことだ。
「――だからな、だから……」
先輩の言葉が不意に途切れた。
「先輩?」
先輩は黙ったままじっとうつむいている。
何かがきらきらと光った。
俺はちょっと息をのむ。光っているのは涙だった。うつむいた先輩の頬を伝った涙が床に次から次から落ちていく。
体中が一気に熱くなった。
先輩の押し殺した嗚咽が聞こえた瞬間だった。俺の体は前のめりに動き、軽く飛びつくように泣いてる先輩を抱きしめていた。
先輩がはっと息をのむのが分かった。俺自身は驚きすぎて息も吸えない。
なんだ、これ?なんだ、これ?なんだ、これ?なんなんだ、これ!
パニクった。パニクっていた。でいて、先輩を抱きしめた腕をほどくでもなく、先輩だって180㎝近くある決して小さいとは言えない男だったけど、ああ意外と抱き心地いい、とか頭の片隅で感じている自分、もしかしてどうかしてるのか?と逆に変に冷静に自問までしていた。
先輩の身体は、泣いているせいなのか抱きしめられているせいなのか熱を帯び、微かに震えていた。でも、抵抗は感じなかった。
俺はなんとか軽く深呼吸し、ちょっと息を整える。
「話ってそんなことなんすか?」
低くきいた。先輩から小さく噛み締めたような嗚咽が漏れる。俺はぐっと先輩を抱く腕に力をこめた。
「俺、言ったっすよね――」
震えてくる自分の声を振り絞る。
「――“聞きますから”って」
だから、
「言って……」
“ください”まで息が続かなかった。
シンとした部屋に、抱き合うお互いの鼓動が響きわたるかというほどドンドンと高鳴って聞こえた。
ふいに先輩のくぐもった声が肩の辺りに響いた。先輩から体をちょっと離す。先輩はうつむいたまま、過呼吸かと思うほど肩で息をしていた。
「先輩……」
彼は息を大きく吸うように顔を上げ、両手や制服の袖で涙をごしごし拭いた。そして、それでもこみ上げてくる涙をためた瞳で俺をぐっと見据え、
「好きです!おまえが――おまえのことが好きです!」
先輩は悲痛に叫ぶように言うと、そのまま顔を覆い声を上げて泣き出した。
「つか、なんで微妙に敬語……」
俺は小さく笑いながら、先輩をあらためて抱き寄せた。
俺は心底ほっとしていた。そして、ああそうか、と納得する。
俺も先輩を好きか。そうだったのか。
ちょっと愉快な気持ちになった。
そうして、俺は先輩が落ち着くまで、その背をなだめるようにトントンと叩きながら抱きしめていた。
ようやく落ち着いた先輩は、ありがとう、と言って俺の腕を離れた。腕の中がすうと寒くなる。俺はとっさに先輩の手を取った。握りしめると先輩も恐る恐る握り返してきた。
目が合う。まだ少し濡れた先輩の目が俺を見つめ返している。ああ、そうそう。こんな感じだった。よく目が合ってた頃、先輩は、こんなふうにどこか遠くを見るような目で俺を見つめていた。
互いの顔が近づく。微かみたいに唇が触れた。先輩の、赤い目がゆらっと震える。
先輩は戸惑ったように俺を見、戸惑ったまま、
「す、すまん……」
とつぶやいた。
胸がぐっとなり、俺は唐突に先輩に口づけた。かちっと小さく歯が当たり、くっと先輩の喉が鳴る。
赤く熟れたような唇の膨らみの弾力を確かめるように口づける。ん、んと少し苦し気な息が漏れ、先輩は俺の制服の袖をぎゅっと握ると少し力を入れ、俺を押し返した。それでやっと、俺は先輩の唇を解放する。
整える息の下、先輩は、
「なんで?」
と困惑気味に囁くようにきいた。
そう訊かれても、本当、どうこたえてよいかわからなかった。
「……成り行き?」
咄嗟に言っていた。
先輩はちょっと考え、そして「そうか……」と何事か納得したようにつぶやいた。
あれ?なんか違うか。
確かにキスしたのは成り行きで、そんなことするとは小一時間前までは思いもよらなかった。それは本当のことだけど、
「あ、違いますから!」
俺は慌てて言った。
「ああ」
先輩は、わかってる、とうなづく。
「じゃなくて、そっちじゃなくて……」
「“そっち”?」
じゃなくて、じゃなくて、
「あっと、好きっすから、俺も」
先輩は怪訝な顔で俺を見た。そして、
「おまえさ……」
先輩が苦笑する。「適当すぎんだろ」
そして先輩は、もういいよ、とまた小さく笑った。少し寂し気で、でも、さっぱりした笑顔に見えた。
情けないぞ、俺。誰とでも絡めるコミュ力が自慢のくせに、本当に伝えたい言葉が軽すぎて伝わらないって。
ビープ、ビープと機械音がした。
「あ、ちょっとすまん――」
先輩はポケットからスマホを取り出すと、俺に背を向けた。確か、昼前に卒業生たちによる謝恩会があると聞いた。電話はその件らしかった。もうすぐ始まるとか、そんな連絡なんだろう。電話を切ると、
「そろそろ行くよ……」
先輩が言った。
そして、棚に置いた花束やらを見やった。俺は軽く咳払いすると、
「先輩!」
と低く呼び、彼にぐっと詰め寄った。
「お、おお」
戸惑い、詰め寄った分、体を引く先輩に、俺はゆっくり、はっきり、そして、敬語で、
「第二ボタン、俺にください!」
体を折るように頭を下げた。
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