1 / 2

第1話

第一話  夕方の東京駅は夏休みを遅らせた行楽客や、サラリーマンや、塾帰りの子どもたちでごったがえしていた。七生は、もしも幽霊になったらここで行き交う人を観察しているだけでも退屈はしないのだろうと思いながら、受け取った切符をよく見たら、それは青春十八きっぷだった。 「って、鈍行で行くつもりですか!?」  思わず抗議すると、目の前の手足の長い男は何か文句でもあるのかと言いたげに七生を睨んだ。彼は行くぞとだけ言って踵を返し、東海道線の乗り場へと向かった。七生は彼に連行されるような気持ちでついて行った。  そういうわけで、七生は死ぬ前に一度見てみたいと思っていた岐阜の長良川鵜飼を見に行くことになった。  青春十八きっぷで、見知らぬ男と。 (これで心置きなく死ねる……か?) *  白鳥七生は都内の大学の学生部に勤務する事務職員だった。今は夏休みなので学生の姿は少ないが、七生はいつものように朝九時に出勤して、いつものように少し残業をして仕事を終えた。七生が心を寄せる太田さんも、丁度帰るところらしかった。駅まで一緒に歩こうと言われたけれど、七生は忘れ物をしたふりをして彼と別れて、気がつけばそのまま図書館棟の屋上に上っていた。キャンパス内で一番高い場所から沈みかけた夕日を見ていたら、どうしようもなく苦しくなって七生はぼたぼたと大粒の涙を流して泣いた。  もう死んでしまおうと思って下をるとひと気は無く、今ならちょうどいいとさえ思った。  盆を過ぎたとはいえ残暑は厳しく、涙は汗と一緒にべたべたと七生の肌にくっついた。泣きながら飛び降りたと知られたら恥ずかしいので、涙が止まるまで待とうと思っていたらガコンという音がして、校舎から屋上に出る扉が開いた。  人は立ち入り禁止の場所なので幻かと思って七生は眼鏡をかけなおした。けれど、やっぱり人だった。  それは学生らしい男で、もちろん七生の知らない学生だったが彼の方は七生を見るなりすごいスピードで近づいてきた。 「あんたがシラトリナナオか」 「え……、あ、はい……」  男は威圧的に言うと、七生をじろじろと見た。背の高い男だと思ったが、目の前に立たれると自分とそれほど差があるわけではなさそうだった。七生はきょとんとしたが自分が泣いていたことを思い出して恥ずかしくなった。涙をぬぐおうと眼鏡を上げて顔を手で覆ったら、男に手首を掴まれて、無理やり顔から引きはがされて、そして顔を見られた。 「ふん、これが世界一か」  男はそんなようなことを呟いた。 「僕たち、待ち合わせなんてしてましたっけ……」  七生はとぼけたつもりは無かったが、いつものようにうっかり忘れてしまったのかと思って訊ねた。しかし男はつまらないことは言うなとばかりに七生を睨むだけで答えてはくれず、掴んだ手も放してくれそうになかった。それどころか手首を掴む力はどんどん強くなって、七生は握りつぶされてしまうのではないかと思い怖くなった。 「すみません、あの……僕に、何か御用ですか?」 「あんたを殺そうと思って来た」 「……ええ、まあ……確かに、今から死ぬところでしたけど」  そんな約束はしていなかったはず。そう思いながら、七生は噛み合っていない返事をしてしまったな、と思った。かと言って今さら彼の言葉に驚くのもわざとらしい。しかし男の方は七生の言葉にひっかかるものを感じたのか、七生をじろじろと見ながら何かを考えているようだった。男の顔に夕日があたり、表情は邪悪に見えた。七生は唐突に、彼は死神なのではないかということに思い至った。それなら、立ち入り禁止のはずの屋上に突然やってきたとしても仕方がない。 「死ぬって、飛び降りか? 今死ぬのか? いつ飛び降りるんだ?」 「え、っと……一応、まだ迷っているところなのですが……今飛び降りるか、それとも長良川で鵜飼を見てから飛び降りるか……。今飛び降りるにしても、人に見られるのは恥ずかしいし、あなたにもご迷惑がかかるので出来れば一人にしていただきたいのですが……」 「それは駄目だ。あんたが思い直したら困る」 「そこまで、あなたに恨まれることをした覚えはありませんが……」 「恨んではいない。ただ、俺より美しい人間がいるのが気に入らない」 「……はあ」  七生は拍子抜けした。 「僕は、あなたより美しいですか」 「どうかな」 「どうかな、って」 「綺麗だけど、ふつうの男に見える」  七生はむずがゆい気持ちになった。別に、自分のことを綺麗だ美しいだなんて思ったことは一度もないし、人から言われたこともない。彼の言うとおり、良くも悪くもふつうの男だ。一方、彼の方はよく見れば確かに、自信を持って言えるほど整った顔立ちをしていた。頭は小さいし手足が長いので、身長は変わらないと言っても彼の方が抜群にスタイルがいい。こんな顔に生まれたら、人生色々と得をするだろうか。 「鏡が言うには、あんたが世界で一番美しい男らしいんだけどな」 「かがみさん?」  知り合いにそんな名前の人はいない。  それにしても七生は褒められている気がしなかった。彼の方は美しいだの綺麗だの、言われ慣れているのかもしれないがふつうの男は言われることに慣れてもいないし、それが嬉しいとも思わない、はずだ。 「……あ、だから、僕を殺しに来たってわけですか。そうすれば、あなたが世界一美しい男になる。かがみ……鏡の助言だけに」 「そう」 (って、あなたは白雪姫の継母ですか!  ……って、つっこめたらなあ……)  七生は何だか一気に体力を消耗した気になった。その理屈は伝統的で悪くはないが、童話の世界とは違うのだから、出来ることと出来ないことはある。 「鵜飼を見たら、死ぬんだな」 「へ?」  男は腕時計に目をやった。そして七生の手を握り直すと、彼を引っ張ってどこかへ行こうとした。 「まさか」 「今から行けば、明日には着く」 「どこで見るか、わかってるんですか!?」 「岐阜だろ」 「わかっていればいいという話ではありません!」  ぐいぐいと引っ張られる力は強すぎて、ろくに抵抗ができなかった。七生はずるずると引きずられて、エレベーターがあるのにも関わらず六階分を階段で下りてしまった。 「待ってください、僕はあなたと違ってサラリーマンなんです。仕事だってあるのに」 「今死のうとしたやつが明日の仕事の心配をするのか?」  冷静に言われると反論が出来なかった。お金がないとうそぶいたところで無駄な気がした。 「それに明日は土曜だから、学生部は休みだろう」 「それは、そうですけど!」  校舎を出ると、屋上ほどは風通しがよくないせいか空気がこもっていて暑かった。すでに日は沈んで薄暗く、キャンパスには他に人影もない。こんなふうに引きずられているところを誰かに見られなくてよかったけれど、助けを呼ぶこともできない。とはいえ、たとえ人がいたとしても恥ずかしくて助けを呼ぶことなどできそうにない。 「あの、逃げないので……手を離してもらえませんか?」  そうお願いすると、男は案外あっさりと手を離した。キャンパスを出ると駅までは商店街が続く。この通りは学生以外の人通りも多く、万一知り合いにあったら彼の方が気まずいのかもしれない。 「逃げようとしたら、この場で殴って殺す」  男はそう言って冷たい目をして七生を睨んだ。もしそんなことになったら、さすがに通行人が警察を呼ぶだろう。けれど、もう掴まれていないはずなのに、手首には彼の手が絡まっている気がして、七生は見ず知らずの男について行くことしかできなかった。 *  がたんごとん (電車に乗ってしまった……)  熱海行きの車内はサラリーマンや部活帰りらしい学生が多く、座席はほぼ埋まっていた。二人はドアの脇に立って、始終無言だった。沈黙は落ち着かなかったが、何を話せばいいのかわからなかったし、彼の方が気安く話しかけるなと無言のプレッシャーを放っているような気がした。  電車はどんどん東京を離れて、藤沢を越えたあたりでかなりの座席が空いた。座ろうかとも思ったが、一緒にいる男がむっつりと立ったままだったので何となく動きづらい。 「ななお」 「え?」  平塚を過ぎたところで唐突に名前を呼ばれて、七生は顔を上げた。名前で呼ばれたことに驚いたのだが、彼の言い方は呼ぶと言うよりは読み上げるという感じだった。 「どういう漢字だ?」 「……数字の七に生きる、です」  彼は、自分から話を振った割には興味がなさそうにふうんとだけ言った。 「あの、あなたの名前を教えてもらってもいいですか?」  七生はようやく彼に話しかけた。こんな風に下手に出ていることが情けなかったが、性格なのだから仕方がない。 「朝雛雅人」 「あさひなさん、ですか」 「朝昼晩の朝に、ひよこっていう字」  彼は求められてもいないのにそう言って説明をした。ひよこってどういう漢字だっけ、と思っていたら彼はやっと空いた座席に腰を下ろした。 「あの、うちの大学の学生さんですよね?」  七生も隣に座った。 「そう」 「どこかでお会いしたことがありましたっけ?」 「ないよ」  七生はある意味でほっとした。どこかで会ったことを忘れているのなら失礼だと思ったのだ。  車内に残っていた乗客は小田原でほとんど降りてしまい、同じ車両にいるのは彼ら二人の他にはサラリーマンらしい男性だけになった。  七生はようやく、このまま鈍行を乗り継いで行ったとしても今日中に岐阜に着くのは無理なのではないかという考えに至った。行けるにしろ行けないにしろ、どこかで一泊するのなら宿が必要だ。せめて名古屋まで行ければいいが、名も知らぬ駅で終電になってしまったら面倒だ。 「どうして死のうと思ったんだ?」 「え?」  また、唐突に話しかけられて七生は戸惑った。しかも、今度は傷に触れるような質問だった。そんなことを初対面の男に言えるはずもなく、七生は黙ってうつむいた。 「言えないことか」 「そりゃ、そうですよ。何しろ、それこそ死ぬほどの悩みです。不幸自慢は嫌いなので、軽々しくはじめて会った人にいえるはずがありません」 「……そうか。じゃあ、この頃何か悩んでいたようだったが、原因に心当たりはない、とでも言っておくか」 「誰にですか?」 「警察と、遺族かな」 「いつ?」 「あんたが自殺したあと」 「って、なに知り合い面するシミュレーションをしてるんですか!」 「死ぬ間際、初対面の男と岐阜へ行って鵜飼を見て、それから自殺したなんて不自然だろう」 「あなたがそれを言いますか……」  何だか馬鹿らしくなったところで、電車は終点の熱海に着いてしまった。  夏休みとはいえ、この時間なので電車を降りたのは数名しかいなかった。雅人は静岡方面へ行くホームを探して、七生はお腹がすいたなと思った。 「……何か食べませんか?」 「そんな時間はない」  雅人はきっぱりと言った。このまま時間をかせいだら、西へ行く電車がなくなって、大人しく東京に帰ることにはならないだろうかと思ったが、雅人の意志は案外固いようだった。 「……駅の近くに、評判のラーメン屋さんがあるんですって。そこ、死ぬ前に一度食べてみたいと思ってたんですよね……」  七生はぼそりと言って、雅人を見た。雅人が忌々しげに睨んできたが、七生の方も負けなかった。雅人は通りがかった駅員を引き留めて次の電車の時間を確認した後で七生に向き直ると、三十分で食うぞと言うなり七生の手首を掴んで走り出した。  タクシーを拾って閉店間際の店に駆け込んで、二人は一杯ずつラーメンを食べた。七生にとっては空腹を満たすための方便だったのでラーメン屋の評判などはどうでも良かったのだけれど、暑い夏にかき込むラーメンは美味しかった。麺の上に山のように乗った野菜を崩して食べるのに苦労したので、あいにくと味わう時間はなかったが、ぜひもう一度来たいと思える店だった。しかしゆっくりとしている時間はなく、二人は慌ただしくごちそうさまと言って、待たせておいたタクシーで駅へ戻って来た。  熱海が始発の電車はもうホームに到着していて、二人が電車に乗り込んだ瞬間に扉が閉まった。熱いラーメンを食べた後でホームを少し走ったため、体は熱かったけれど車内は涼しかった。心地よさにうとうとしていたら、雅人が三島で乗り換えだから寝るなと言って七生を小突いた。しかし三島で最終の静岡行きに乗り換えてボックス席に座った途端、雅人が七生にもたれかかってきたので七生はぎょっとした。  発車して間もないうちに、雅人は完全に意識を手放してしまったようだった。七生も疲労していたし、彼からの監視という緊張が途切れたので眠ってしまいたかったが、触れ合った男の存在感は七生を落ち着かせなかった。雅人の固い髪は七生の頬をくすぐって、シャンプーなのか香水でもつけているのか、男の匂いがしてくらくらとした。元々人に触れたり触れられたりするのは苦手で、職場にも自転車で通勤しているほどなのに、ぴったりとくっつかれて、七生は顔が濡れたアンパンマンみたいに力が出ない。  七生は雅人の顔を覗きこんだ。こうして眠っている顔は無防備であどけない。何事もほどほどで妥協してしまう自分のことを思えば、彼のように無茶な理屈とはいえ自分の意志を叶えようと行動する力はまぶしく映った。ラーメンを食べる時に知ったことだが、いただきますとごちそうさまをちゃんと言ういい子だし、タクシーの運転手にも時間を訊ねた駅員にも礼儀正しかった。  自分が死んで彼が喜ぶのなら、この男のために死ぬのもいいかもしれない。  七生は雅人の頭を肩で支えてやりながら、安い酒で酔ったような気持ちになった。  静岡駅に着いたのは、そろそろ日付も変わろうとする時間だった。これ以上西へ行く電車はもうないようだったので、二人は深夜の静岡駅に降り立った。七生は伊豆や浜松へ行ったことはあったが、静岡駅で降りたのははじめてだった。駅前にはホテルやオフィスビルや、この時間でも営業している居酒屋が目立ち、東京ほどにぎやかではないとはいえ、まだ明るい。  さてどうするのだろうと思って雅人を見たら、彼は人の気も知らずにぐっすりと眠っていたようで、少し眠そうな顔のまま体を伸ばして骨をゴキゴキと鳴らしていた。  朝までやっている居酒屋か、二十四時間営業しているファミレスで時間をつぶすのか、それともシティホテルに空きがないか探すのかと思っていたら、雅人は道路標識を見て、西はあっちか、と呟いた。 「朝まで歩いたら、どこまで行けるかな」 「ちょ、ちょっと待ってください、まさか」 「止まってるよりはましだろう」 「それは非効率です。体力の無駄ですよ! 少しばかり歩いたって、結局到着の時間は変わりません」  七生はさっき雅人が寝ている間に適当な駅で降りて、彼から逃げてしまえばよかったと後悔をした。そもそも、雅人はまだ若いし時間もあるから思い立って無計画で岐阜へ行くことも、夜通し歩くことも可能かもしれないが、七生に同じことをできる自信はなかった。旅行へ行く時はちゃんと計画を立てて宿も確保して、さらに夜は温泉につからないと体力がもたないのだ。  そう必死に説得したら、雅人はやや呆れた様子で、あんた何歳だよと言った。 「に、二十六ですけど……」  雅人はふうん、と興味無さそうに相槌を打っただけだった。七生としては、まだ若いだろうというつっこみを期待しなかったわけではないが、おそらくまだ二十歳そこそこの雅人にしてみれば十分説得力のある年齢なのかもしれないと思うと、なんとなく情けなかった。 「死ぬことを選んだくせに、ずいぶんと自分を甘やかすんだな」  足を止めてぽつりと呟いた雅人の言葉は七生の怒りを買った。七生は自分でも珍しいと思うほどカッとなって、何か言い返さないと気が済まなかった。 「ええ僕は、自分が可哀そうだから死ぬんです。そう言うあなたは、僕のことを抱けますか?」  雅人は自分の耳を疑ったのか、それとも車の音で聞こえなかったのか、何だってと聞き返して七生の前に立った。七生は雅人の手をとらえて握り、唇を尖らせて雅人の唇に近付けて、触れた。  深夜とはいえ駅の入り口で、人通りもあるし車もすぐ目の前を走っている。七生にとってはそれほど大胆なことをしたつもりだったが、触れた感触はほとんどなかった。きちんと触れたかどうかも自信がなかったけれど、雅人がぽかんとした顔をしていたので一矢報いた気にはなった。 「死ぬ前に、一度あなたみたいな美しい人に抱かれてみたかったんです」  七生は自虐的な笑みを浮かべた。  雅人は、七生の言葉が本気かどうか判断しかねているようだった。七生としては彼を困らせることが出来ただけで満足だった。今のは冗談です、ネットカフェでもいいから夜が明けるのをどこかで待ちましょうと言おうと思ったら、その前に雅人の唇が動いた。 「わかった」 「え?」 「それで、あんたはちゃんと、死ぬんだな」  雅人はまた七生の手首を握るとタクシー乗り場の方へ歩いた。タクシーに乗るのかと思ったら、そこは通り過ぎて駅と直結しているシティホテルに向かっているようだった。 「ま、待ってください! ……あなたは僕さえ死ねば何でもいいんですか!」  七生は自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ心臓がばくばくと鳴って、雅人のことが怖かった。早く、冗談だと宣言してほしかったけれど、七生の手を握る彼の手の圧力は今までで一番強く、逃げ出せる気がしなかった。 七生の予想通り、彼は全国チェーンのシティホテルに入って行き、フロントに部屋の空きがないか尋ねた。七生はせめて空きがないことを願ったが、よりによってセミダブルの部屋なら空いていると言う返事だった。 「大人二人。お願いします」  雅人はあっさりと言うと、お金を払ってカードキーを受け取った。フロントでごねることも出来ずに、七生はすっかり肩を落として雅人と狭いエレベーターに乗った。  部屋はダブルベッドとテレビとユニットバスがあるだけのシンプルな内装だった。ガシャンと部屋の扉が閉まった時に、七生はただ後悔していた。これはもう本当に自分が死ぬしか彼を納得させる方法がない。  雅人は空調を入れて、上着をベッドの上に放ると何も言わずにシャワールームに消えた。  トイレを使っているのかと思ったが、しばらくのあとでシャワーの音が聞こえてきたので七生の心臓が跳ねた。  時計を見ると、もう深夜の一時近い時間だった。七生はベッドにこてんと倒れて、目を閉じた。そしてやっとネクタイを緩めかけたが、それにも力が入らないほど疲労していた。七生が心を寄せる太田さんから誕生日プレゼントにもらったネクタイは、本人は安物だと言っていたがブランド品だった。最後に別れた時、避けるような態度をとってしまったことを失礼な奴だと思わなかっただろうか。 七生はようやくネクタイを外して、その細い布に唇を寄せた。かすかに耳に入ってくる空調とシャワーの音が心地よい。七生の意識はシーツに吸い込まれるように沈んでいった。  顔に違和感があったので目を開けると、雅人が自分の顔を覗きこんでいた。 「わあ!」  七生は思わず飛び起きた。違和感の原因は雅人が七生の顔から眼鏡を外したことらしかった。その時手からネクタイが滑り落ちた。ネクタイにキスをしたまま眠っているなんて奇妙に思われただろうか。七生がネクタイを拾うために腰を浮かせたら、下から雅人の上着が出てきた。知らずに彼の上着を下に敷いて寝てしまっていたらしい。 「ご、ごめんなさい。あの、ベッドがあんまり気持ちよさそうだったので、つい寝てしまって……」  七生は怒られてもいないのに謝ったが、雅人は特に気にした様子もなかった。そして七生自身には興味がないのか、彼から奪った眼鏡を自分でかけるふりをしたり、色々な角度から見たりと弄んだ後、固まったままの七生に対して 「白雪姫みたいな言い訳だな」  と言った。  こちらを見ようともしない態度に、七生はまたカチンときて雅人の前に立った。雅人は七生の眼鏡をかけて、彼を見上げた。黒いフレームの眼鏡は、七生がかけると一昔前のガリ勉にしか見えないが、雅人がかけるとそれは洒落て見えるから不思議だ。 「僕はオカマではなく、ゲイなんです」  それだけ言うと、七生はシャワールームに入った。  シャワールームから出ると、雅人はどこから買ってきたのか、缶ビールを飲んでいた。眼鏡は丁寧に畳んでデスクの上に置いてあったので、七生は自分の顔に戻した。 「そのビール、エレベーターのところにあった自販機で買ったんですか?」 「ん」  雅人は缶を七生の前に差し出した。 「あ、いえそういう意味じゃ」 「まだ冷たいから」  ほとんど押し付けられるように渡された缶を受け取って、仕方がないので七生は缶を唇に持っていった。  唇は缶に一瞬当たったけれど、七生はそれを傾けずに、部屋に備え付けてあったグラスを出して、そこに注いで飲んだ。冷たい炭酸はのど越しが良く、爽快だった。細かい男だと思われないかと雅人を見たら、彼は七生の方を見向きもせずにテレビに夢中になっていた。  彼が見ているのは音楽番組のようだった。画面にはミュージックビデオが流れていて、女性アーティストが自分の曲に対する思いを語っている。映像の中では本人と、恋人役の男性アクターが手をつないで歩いていた。カメラは徐々につないだ手にせまり、そして曲は穏やかに終わった。  画面はスタジオに戻り、女性アーティスト本人が一瞬映ったが、雅人はそれには興味がないのか、あっさりとテレビの電源を切った。七生は今出ていた男性アクターに見覚えがある気がしたが、雅人がこちらを向いたのでそれが誰か考える間もなかった。雅人に何か言われる前にと思い、空き缶をデスクに置くと、雅人にベッドに上がるよう言った。 「……僕が、全部やりますから」  七生は雅人の太ももを跨いで膝立ちになり、雅人のシャツに触れようとしたが、雅人が先に動いて七生の手を止めると両手を七生の顔まで持って行った。何をされるのかと緊張したら、眼鏡を外された。裸眼になると、この距離でも彼の顔がぼやける。それくらいがやりやすいのかもしれないが。  雅人はそしてどうするということもなく、どうも眼鏡を取りたいだけのようだった。七生は先にワイシャツを脱いで、その後雅人のシャツを脱がせた。雅人は眼鏡を畳んで、丁寧に枕元に置いた。七生はその繊細な動作を見て、胸が高まるのを認めないわけにはいかなかった。それは自分の体の一部に触れられているような気分だった。  お互いに上半身をさらけ出してみると、七生は自分の体格がやはり貧相だと感じた。雅人が、適度に筋肉があって引き締まっているのに比べて、七生はスリムと言えば聞こえは良いが、肌は柔らかくて、引っ張ると伸びる。 「……替えがありませんから、全部脱がしますね」  七生は言い訳のように呟いて、雅人の腰に手を伸ばした。ジーンズを脱がせようと、指先が布に触れたか触れていないかわからないうちに、七生の指が彼自身が驚くほど震えだした。血の気が引いて、指先の感覚がなかった。左手で押さえて震えを止めようにも、左手も動かなかった。ひどいアルコール中毒のような状態だったが、いくらなんでもあれだけで酔うほど酒には弱くないはずだ。  落ち着こうとするほど焦りが増した。雅人は無言だったが、何か言いたそうだった。七生は自分自身をフォローすることさえ出来なかった。 「――自分でやる」  雅人は見かねて、そっと七生の手を自分の前から退けた。そして自らチャックを下ろそうとしているところを見て、七生は青ざめてさっと目をそらした。 「あんた」  雅人は怒ったような、呆れたような顔で七生のあごをつまんだ。 「嫌なら、どうして仕掛けてきた?」

ともだちにシェアしよう!