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第1話 2

「あなたこそ、男同士でこんなこと、……たとえ振りでも、よく出来ると思いましたね」  雅人は七生の顔を自分の方に向けさせた。七生は目線をそらして、どうしても雅人を見ようとはしなかった。 「……離してください」  雅人はあっさりと七生から手を離した。その代わり両腕を背中にまわし、七生を抱き寄せたので、七生は雅人の太ももの上に腰を下ろした。こんなにもすぐ近くに別の人がいて、体の中には血が流れているのだと思うと、奇妙な気持ちでいっぱいだった。  七生はぴくりとも動けなかった。雅人も何も言わないので、どうしようも出来ない。息苦しくて、酸素不足で気を失ってしまうのではないかと思ったころ、雅人は七生を抱いたまま、ベッドに横になった。  七生の目線は雅人の首あたりに固定されたままで、彼がどういう表情をしているのかはわからなかった。ただ、ときどき雅人の指が動いて、七生の髪の間を滑った。 「さっき、悪かった」 「え?」 「オカマだって馬鹿にしたくって、白雪姫って言ったわけじゃない」  七生はきょとんとしたが、すぐに自分がシャワーを浴びる前のことを思い出した。あの時は確かにカチンときて、冷たく言ってしまったが今から思えばどうしてそんなにあの言葉に引っかかったのだろうと思うほどだった。雅人がそれに責任を感じたのなら、別にそんなに気にすることじゃないと言いたかったが、かといって彼を積極的にフォローするのも気が進まない。 「……抱くってのは、こういうことで良かったか……?」  雅人は眠そうだった。少し腕の力を緩めて、七生を解放すると七生の耳元に口を近づけた。 「あ、……はい」  七生は、そう返事をするのが精いっぱいだった。 「……死んでないか」  何か言葉が聞こえたような気がする。七生はふと目を開けて体を動かした。誰かと一緒に寝ていて、それが雅人だと気がついて、七生は昨日の夕方から起こったことが夢でないことを理解したような、まだ夢の中にいるような気持ちになった。  今聞こえた声は、自分の寝言でなければ雅人の声かと思ったが、雅人の方は眠っているのか動かない。雅人の指が七生の耳のあたりにあって、七生は彼にすがりつくように寝ていて恥ずかしかった。  七生は恐る恐る雅人の顔に指を伸ばした。お互い、上半身だけ裸のままだった。空調はもう切れていたが、雅人の頬が案外冷たくて驚いた。そうしていたら、ふと情けなさで目頭が熱くなってきた。訳も分からないまま込み上げてくる気持ちを受け止めきれなくて、七生はそのまま泣いた。  雅人の胸に頭を寄せたら、彼の指が七生の髪に入りこんできて、何度か髪の間を滑った。そのままぎゅっと抱き寄せられたので、もしかしたら雅人は起きたのかもしれない。七生は確かめる気もなかった。ただ、そのまましばらく泣きながら、自分は泣ける場所を探していただけなのだということに気がついた。  雅人の頭が動いて、七生の顔を覗きこんだようだった。まだ暗くて、涙も邪魔をしたし頭もうまく働かなかったので彼がどういう顔をしているのかわからなかったが、雅人の顔は吐息がかかるほど目の前にあった。 「……子どもの頃、男は泣くなと育てられましたか?」 「いいや、思っていることをもっと表情に出せと言われるような子どもだった」  二人以外は誰もいないのに、他の誰にも聞かれないように小声で一言ずつだけ言葉を交換し、雅人は先に目を閉じた。七生も、もう一度眠りにおちることにした。  結局、ぐっすりとは言わなくてもそれなりに図々しく眠り、朝になったら雅人にぐずぐずするなと蹴り起こされて、顔だけ洗ってホテルを出た。早朝とはいえ夏休み中の土曜日なので、すでに駅には家族連れの姿がちらほらとあった。雅人は電車に乗るとまたこてんと眠ってしまった。七生も睡眠が足りているとはいえなかったので、周りを気にする余裕もなく、一緒に眠った。  浜松で大垣行きに乗り換えて、岐阜に着いたのは十時過ぎだった。電車を降りるとまだ午前中なのに気温は高くて蒸し暑く、息苦しいほどだった。北口を出て、辺りを見回すと当然のように見知らぬ街で、七生は遠くへ来たことを実感した。東京のように大きなビルで空が見えないということはなく、暑いが空気は新鮮だった。  雅人は観光案内所を見つけると、長良川までどう行ったらいいか聞いてくると言って、七生を置いて行ってしまった。一緒に行くべきかと思ったが、彼の後をついてばかりというのも何となく面白くなかったので、七生は日陰に入り待つことにした。 (今なら、逃げるチャンスかな……)  七生は苦笑した。あの一晩で何が変わったというわけではないが、七生は昨日無理して行為に及ばなくてよかったと思った。彼のことはまだ知らないことが多いが、悪い男ではない。七生はまた、不毛な思いが芽生えかけているのを感じた。ただ、これが最後でよかった。  太田さんは旅行が好きで、その土地の女子高生を見れば土地柄やそこで流行っているものがだいたいわかると言っていた。七生の前を制服を着た少女達が笑いながら通り過ぎて言ったが、七生は彼女たちと東京の少女との違いを明確に指摘することが出来なかった。七生には彼女らが中学生か高校生かもよくわからなかった。しかし四人の少女は興奮したように観光案内所に入っていった。テニスラケットを持っていたので、てっきり地元の学生かと思ったが違うのだろうか。  そんなことを思いながらしばらく待っていたが、雅人はいつまでたっても観光案内所から出て来なかった。道を聞くにしてもあまりにも長すぎて、七生は不安になった。  そわそわしながらそれでも少し待ったが、結局耐えられなくて七生も観光案内所に入った。  それほど広くない案内所内はクーラーが効いていて涼しく、雅人は探すまでもなく観光パンフレットのラックの前にいて、さきほど七生が見かけた少女四人に囲まれていた。七生はぽかんとして彼らを見たが、少女四人と雅人はまるでこれから一緒に出かけるかのように楽しそうに話をしている。どうも少女四人が岐阜の観光について雅人に色々と勧めているようだった。  七生は、一目ぼれをする方ではない。彼にももちろん好みの外見はあるが、かといって初対面の人にあんなふうに声をかけたことも、雅人いわく七生は世界で一番美しいはずなのに、声をかけられたこともない。いくら外見が男前だからといっても、通りすがりの少女が彼を追って来るなんて、驚きを越えて感心すらしてしまった。 (って、呆けてる場合じゃ……)  雅人はすぐ後ろにいる七生に全く気付いていなかった。七生は声をかけようにも、彼のことをどう呼ぶかということに迷ってしまった。 (朝雛さん? って、他人行儀すぎる……)  もじもじしていたら、それを見かねたのか案内所の職員が何かお探しですか、と声をかけてきた。連れに声をかけあぐねているとは言えず困っていたら、雅人がやっと気づいて振りかえった。 「七生」 「あ」 「なんだ、いたのか。行くぞ」  雅人は愛想のない顔に戻ると、少女達にじゃあとだけ言って案内所を後にした。 「何遠慮してんだ、名前を呼べばよかったのに」 「な、名前で呼んでよかったんですか?」 「それ以外にどう呼ぶんだ」  雅人は、ここからバスに乗ることを聞いていたらしく、バス乗り場に向かった。 「それにしても、あなたはすごいですね。あんなふうに通りすがりの女性に話しかけられるなんて、僕には経験がありません」  今から思えば、あの少女達は観光案内を目的に案内所に入ったわけではなく、駅かどこかで雅人を見て追いかけてきたのだろう。 「ああ……俺、あれだから」  雅人は誇ることも恐縮することもせずに、彼から見て右の方向を指さした。それをたどっていくと、かなり長い空中が続き、駅前にある高いビルにあたった。そこには大型モニターが設置してあり、昨日ホテルで雅人が見ていた女性アーティストのミュージックビデオが偶然流れていた。 「あれが、何か?」  彼が指さしているものが本当にあのビルなのか確認しようと思って雅人を見直して、そしてまた慌てて大型モニターに視線を写した。 「えっ、あれ?」  モニターに映っているのは昨日も見たラストシーンで、女性アーティストと男性アクターが手をつないで歩くシーンだった。カメラは女性アーティストにピントを合わせていて、恋人役の男はほとんど鼻から下しか画面に映らない。その男を、昨日もどこかで見たことがあると思ったが、 「あれ、あなた……ですか?」 「そう」  雅人はしれっと言った。ほほ笑みの形で映っている唇の形が、先ほど観光案内所で少女達に見せていたそれと同じだ。 「あなた、……なん、なんですか?」  七生は目をぱちくりとしながら訊いた。訊くにしてもどう訊いていいものかよくわからなかった。 「……俳優さん、ですか?」 「普段はモデルをやってる。たまたま、あの人のミュージックビデオのアクターに声をかけられて出たんだけど、同じ時期にいくつか雑誌の取材でスナップを撮るとき、あの人の恋人役で一緒に出たから、さっきの子たちはどれかを見たんだろうな」 「そ、そうなんですか」  七生は気の抜けた相槌をうちながら、ある意味では拍子抜けした気分だった。さっきの少女たちは、雅人がただかっこいいから追いかけたのではなく、彼が雑誌に載るようなタレントだとわかったから騒いだのだった。さすがに、美男と言うだけで岐阜を数分歩いてこうなってしまうのだとしたら、彼はとてもではないが東京は歩けない。  しかし七生はあまり芸能人やタレントに興味がないし、知識もない。あのミュージックビデオの女性アーティストもよく知らないほどだった。ふつうなら彼の正体にもっと大げさに騒いだりするのだろうか。そして、騒ぐべきなのだろうか。しかし七生には、いまいち彼に対して新しい感情が浮かんでくるわけでもない。  雅人に促されて、七生はバスに乗った。雅人の方もあっさりとして、モデルであることを過剰に誇る様子はなかった。  バスを降りると、雰囲気を演出するためか多少作り物めいた古い街並みが続いていた。公園をぶらぶらと歩いていたら登山道があったので何となく登ることにした。近くのラーメン屋で話を聞いたら小一時間で登れるというし、ハイキングがてらの年配の登山客も多かったので七生も軽く考えていたが、普段のデスクワークが祟ってすぐにへばった。雅人は涼しい顔をしながら七生が回復するまで待った。  頂上に建っている岐阜城を見学したり、隣にあるリス園でリスと遊んで時間をつぶした。軍手をはめた手のひらに餌をのせると、リスが寄って来てそれをつまんで食べていく。愛らしい仕草に我慢が出来ず、七生は携帯電話を取り出してリスの写真を撮った。 「動物が好きなのか」 「え?」 「鵜といい」 「ええ、小学生になるまで、近所に子どもがいないような田舎に住んでたので、動物とばかり遊んでました」  七生は「いじめないよー」と言いながらにこにことリスに触れたが、雅人はリスに対しても愛想がない。 「……カモは好きか?」 「ええ、カルガモの親子とか、かわいいですよね」 「そうか」 (お?)  雅人がはじめて、七生に向けて微笑みのような表情を浮かべたので、七生は思わず二度見した。 「今度見せてやる」  雅人はリスを見たまま言った。リスに言ったものではないと思うが、これから死ぬ自分に言ったとも考えにくい。七生は曖昧に返事をした。  帰りはロープウェイを使い、公園でかき氷を食べた。雅人は今日の鵜飼のチケットを観光案内所で買っていたらしく、のんびりと時間が来るのを待った。  六時を過ぎても、まだ外はかなり明るかった。乗船所には家族連れや老夫婦が多かったが、若者と言えるのはあまりいない。観光シーズンとはいえ、若者にはうけないのだろうか。七生たちが乗った船の船頭は年配の男性と、もう一人は意外にも若い女の子だった。この夏から船頭デビューしたという彼女は満面の笑みで挨拶をして、途中でちらちらと雅人を見ていた。  屋形船のヘリはそれほど深くなく、船が進むと水面をすべっているような気分だった。思ったよりもスピードは速く、風が心地よい。隣を見ると、雅人は遠くを睨むような表情のまま一言も話そうとはしなかった。つまらないのかもしれないが、出会ってから彼はだいたいこんな表情だった気がする。  日が暮れて暗くなったころ、遠くにゆらゆらと揺れるかがり火が見えて、鵜匠たちの乗った船がゆっくりと進んできた。五、六ほどある鵜飼船には一人ずつ鵜匠が乗っていて、彼らの持つ紐のさきに、黒い羽根の鳥がいる。  七生は嬉しくなって身を乗り出した。同じ船に乗っている子どもたちが歓声を上げて、かがり火に手を振った。鵜たちはバシャバシャと羽をばたつかせて、水に潜る。あちこちの屋形船から拍手が起こる。七生も瞬きをすることも忘れて、鵜匠が鵜を操る様子を見た。 「適当なことを言うにしても、どうして鵜飼を見たいと言った?」  雅人は横から声をかけてきた。 「好きな人が、新婚旅行で鵜飼を見たそうです。このご時世に新婚旅行が岐阜なんて、ってみんなにからかわれていましたが、僕はとても羨ましかった。あの人の、そういう素朴なところが好きだったんです」 「だったら、そいつと一緒に見ないと意味がないだろ」 「いえ」  七生は首を振った。 「あなたで良かったです」 「鵜はいいねえ、あんなふうに魚を獲るだけで人に褒められて。あ、また獲ったわ」  同船していた年配の女性が、はしゃいだ様子で孫に言った。わあ、と歓声が上がり、雅人はそちらを見た。どうやらまた鵜が魚を獲ったらしい。 「短い間でしたが、ありがとうございました。あなたのこれからのご活躍をお祈りします」  七生はポケットから財布と携帯電話を取り出して、雅人と自分の間に置いた。そう言えば電車代も船代も払っていない。ここから適当に取ってもらえばいいだろう。  ちゃぽん  元々水から生まれたものがそこへ帰って行くような自然な音で、雅人が振りかえった時、七生はそこにいなかった。

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