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【バレンタインSS】チョコレートの効能
「はあぁぁ……」
盛大な溜息がこぼされた。「は」と「あ」の文字が立体となって、ぼろぼろと落ちていく様子まで見えるようだ。
「北山、どうしたんだ?」
僕は目の前でうなだれる生徒に向かって声をかけた。北山は机に頬をぺったりと付け、苦悶の表情を浮かべている。
「姫井先生、今日がバレンタインって知ってました?」
「ああ……そういえばそうか。それがどうしたんだ」
「それがどうしたんだ、って!?」
がばりと起き上がり、今にも僕につかみかかろうとする勢いで叫び出す。
「女子から!チョコレートを!もらう日ですよ!?」
「……女子がいればなぁ」
僕はわざとらしく視線を巡らせる。そんな僕を、北山は恨みがましく見つめて、再び溜息をついた。そう。ここは残念ながら男子高だ。女性……はいるとしても、彼らの思い描く、若くて可愛い女子はいない。
「秋の学園祭で女子高の子と仲良くなったとか言っていたのはどうなったんだ」
「……」
まずい、これ以上墓穴を掘ると一週間後の受験にまで響いてしまいそうだ。
「まぁ、無事に大学に入れば女子との楽しいキャンパスライフが待っているさ。だから今は勉強に集中するんだな」
「うう……それとこれとは話が別……」
北山は「一個くらいもらえたって……」と呟いたあと、突然目を輝かせて身を乗り出した。その勢いに思わず僕は後ろへ仰け反る。
「先生、なんかチョコ持ってない!?」
「男からもらったって仕方がないだろう」
「そうだけど、数だけでもあったほうが」おいおい、なんて失礼なやつだ。
「今年はもう諦めろ、な?今日はもうこんな時間だし」
放課後の教室で北山に捕まり、大学入試の過去問について解説をしていた。一つ解決すると、あれも、これもと質問が増えていく。気づけば辺りは薄闇に包まれ、グラウンドから聞こえていたはずの掛け声もいつの間にか止んでいた。
「遅くなったな。気を付けて帰るんだぞ」
僕の言葉に、北山は机の上のノートを片付けながら渋々と頷いた。ありがとうございました、と軽く頭を下げ、背中をしょんぼりと丸めて教室を出ていく。そんな北山を苦笑いとともに見送り、黒板の文字を消していった。
(バレンタイン、か……)
今日、生徒たちが落ち着きがなかったのは、そのせいだったのだろうか。もう何年も、チョコレートをやり取りするなんてイベントは起きていない。こうしてバレンタインだのなんだのと言える余裕ができたのは、つい最近になってからだ。大学を卒業してここへ着任してからは、あまりにも日々が目まぐるしく過ぎていき、自分のことではなく生徒のことが最優先、学校の行事をこなすだけで精一杯だった。
それでも、もうすぐ三年が経つ。
三年前――どうしても思い出してしまう。陽の光に淡く透ける髪に、僕の目を覗きこむまっすぐな眼差し……
(喜志先生は、誰かからチョコをもらったりしたのかな)
ふと自分で考えたことに、なぜだかほんの少し気持ちが沈む。自分がもらえないからって、羨んでも仕方がないはずなのに。じゃあ、もし僕がチョコを持っていったら、どんな反応をするだろう?いつもお世話になっているお礼だとか言って……
『男からもらったって仕方がないだろう』
つい先ほど自分が言った言葉が、頭の中で跳ね返ってきた。
視線を上げると、中途半端に擦られた文字が横に長く伸びていた。僕は頭を振って、余計な考えをかき消すようにがしがしと黒板消しを動かす。何を考えているんだか、と口の中で呟いて教室を出た。
(あれ、まだいる……)
薄暗い廊下からは、保健室の明かりがよく見えた。喜志の姿は見えない。机の上に書類が広がっていて、彼がまだ校舎内にいることが窺える。
『保健室は、怪我の治療のためだけにあるわけではないですからね』
以前、喜志が僕にそう言ったのを思い出す。もう半年近く前かもしれない。着任してすぐは、毎週のように怪我をこしらえて保健室に通っていたというのに、この一年間はほとんど彼の世話になることはなかった。
眼下の明かりをぼんやりと眺める。正直に言えば、今すぐにでもあの部屋に行きたかった。いよいよピークを迎えた受験シーズンに、生徒たちの成績管理や志望校の相談など、これまでで最も繊細で神経を使う仕事が続いていた。僕は生徒たちの力になれているか不安で、でもそれを見せてはいけなくて、情けないことに少しだけ――喜志にこの気持ちを聞いてほしいと思っていた。 戸を開けて、「また怪我ですか」と呆れた声で訊かれる、それだけでもいい。あの部屋に行けばなんとかなると、確信めいたものを感じていた。実際、これまでもそうだったから。
それでも、一度行ってしまえば頼りきってしまいそうで、いつもぐっと堪えていた。今日もダメだ。このまま行けば、ぽろぽろと弱音だけが溢れかねない。ぶるると震える身体を両腕で抑えた。震えるのはぐらぐらと揺れる心のせいではなく、廊下を覆う冷気のせいだと言い聞かせる。
チョコレートのことを考えていたはずなのに、なぜこんなに気落ちしてしまったのだろう。そう思い出すと、無性に甘い物が食べたくなってきた。帰りにコンビニでチョコでも買って帰るか、と考えながら職員室の戸を開けた。
「あれ……」
自分の机に教科書を戻そうとしたときに、それに気が付いた。最近、校内の自動販売機で売られ始めたと生徒たちの間で噂になっていた――
「ホットチョコレート?」
ココアじゃなくて、濃厚なチョコの味なんですよ!と生徒が興奮気味に言っていたのを思い出す。缶を持ち上げると、下に小さなメモが挟まっていた。
『お疲れ』
名前はない。でも、その文字には見覚えがあった。手の中のホットチョコレートは、まだほんのりと温かい。
弾かれたように、僕は駆け出した。
~FIN~
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