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【ホワイトデーSS】春の訪れを告げるもの

 気もそぞろ、とはこういうことを言うのでしょうかねぇ。  会議中だというのに、おてんばさんは視線を天井に向けてぱちくり、大きな目をぐるりと回しては手元を見てぱちくり。コの字状に置かれた机の対角側にいる私からも見えているのですから、真正面にいる生徒指導の高橋先生からは、さぞやよく見えていることでしょう。あとでチクリと言われないと良いのですが。 「他になければ、これで終わります」  言い終わるやいなや、がたがたと騒がしく席を立つ音で部屋がいっぱいになりました。わかります、会議とはつまらないものですからね。おてんばさんは席を立つのも忘れているようです。高橋先生に捕まる前に、救出してあげなければ。 「ひーめちゃん」  私の声に、はっと顔を上げました。やはり会議が終わったことに気づいていなかったのですね。 「た……田貫(たぬき)教頭……」  ああ、申し遅れました。わたくし、教頭の田貫(たぬき)と申します。タヌキなんて名前ですが、年齢の割に身体は引き締まっていますし、髪は少し白いものが混じり始めていますが、一回り年下の高橋先生よりはふさふさと豊かなものです。背も同世代の中ではずっと高い方で、他所の高校に行ったときなんかは若い女性の先生方に「素敵なおじさま」だなんて言ってもらえるんですよ。 「田貫教頭?」  おっと、話が逸れました。姫井先生が不思議そうな顔で私を見ています。黒々とした瞳で上目遣いに見られるのも、なかなか悪くはないですね。でも今はそんなことよりも、聞いておかなければならないことがあります。 「おてんば姫ちゃん、何か悩み事ですか?」 「え……」  あれほど顔に出ていたというのに、本人は全く気づいていなかったのでしょうか。この三年間で、生徒たちの前ではそれなりに格好がつくようになったと思っていたのですが、まだまだ修行が足りないようです。 「会議中、心ここにあらずと言った感じでしたが。こんな顔をしていましたよ?」  私は先ほど姫井先生がやっていたように腕を組み、目をきょろりと動かしてうーんと唸って見せました。そうそう、眉間にしっかりとしわを寄せて。 「す、すみません……」 「いえ、怒っているわけではないですよ。今日は村田先生の愚痴大会のようなものでしたから」  私がおどけて言って見せると、姫井先生もくすりと笑いました。そんな表情はまだ学生のようにも見えます。 「それで?」私はまだ肝心なことを聞いていません。 「真面目な姫井先生が会議中に気を取られるほどの悩みがあるのであれば、聞いておいた方が良いと思いましてね。いえ、言いたくないことなら良いのですよ。プライベートの話であれば立ち入るつもりもありませんしね」  私の言葉に姫井先生は一瞬視線をさまよわせました。その表情からは、深刻な悩みというよりは、どこか――そうですね、気恥ずかしいという表現が良いでしょうか。大事に取っておいたお菓子の隠し場所がばれてしまった、そんな様子に見えます。 「仕事のことではないんです……すみません。社会人失格ですね……」  ぺこりと頭を下げて、そのまましょんぼりと肩を落としてしまいました。 「いえいえ、たまにはそういうこともありますよ。でも、些細なことでも私はいつでも相談に乗りますからね」 「はい……ありがとうございます」  そう言って眉尻を下げてはにかんだ後、おそるおそる私に尋ねてきました。 「では、ひとつだけ訊いても良いですか」 「はい、なんでしょう?」 「田貫先生は、ホワイトデーにどういったものをプレゼントされますか?」 「ホワイトデー、ですか……」  こくこくと頷いて、真剣な眼差しで私の答えを待っています。なるほど、なるほど。 「姫井先生はバレンタインデーにチョコレートを貰ったということですね?それも、とても大切な方から」 「えっ……あ……」  最後の私の一言で、かぁっと音がしそうなほど勢いよく、小さな顔が真っ赤に染まりました。 「それで、どういうお返しを贈れば良いか悩んでいる、と」  きゅうっと小さく縮こまると、まるで子リスのようです。ああ、初々しいですね。私もあの人も、かつてはこのような時代があったのでしょう。相手の好みもまだわからなくて、どうやったら喜んでもらえるのか、少しでも笑顔になってもらうにはどうしたら良いのか……考えすぎてすれ違って、近づこうと思ったら離れていって、もどかしいったらないんです。それもまあ、月日が経てば相手の呼吸すら自分のもののようになりますし、何が欲しいだとか、今こうしたいとか、察する前にふてぶてしいほど直接要求を伝えてくるようになるものです。可愛げがないと言ったら……  おっと、またもや話が逸れてしまいました。姫井先生もまた一人で思考のループにはまってしまっているようです。 「お相手の方にもよるとは思いますが……」  私は少し迷って続けます。 「姫井先生が、お相手のことを想って一生懸命選んだものであれば、きっと何であれ喜んでもらえると思いますよ。ええ、ありきたりな答えではありますがね」  姫井先生もそう思ったのでしょう。力なく微笑んで頷きました。 「でもね、逆に姫井先生は、チョコレートをもらっただけでこんなにも悩んでいる。それはチョコレート自体が高価だとか、単純にチョコレートが好きだとかそういうことではなくて、その方が姫井先生のことを想って何かをしてくれた、それが嬉しくて、その心に応えたいと思ったから悩んでいるのではないのですか?」  完全に推測ではありましたが、先ほどの反応を見てもあながち外れというわけではないでしょう。 「先日の卒業式でも、生徒たちから小さな花束をもらったでしょう?でも花束そのものではなくて、先生にありがとうと伝えたい、生徒たちのそんな想いが姫井先生の気持ちを揺さぶった。それと同じことではないでしょうか。」  私は姫井先生のほうを見てはっとしました。彼は大きな目に涙をたっぷりと溜めて、今にも溢れ出しそうにしながらうんうんと頷いていました。そうでした、卒業式当日も同じような表情で、懸命に生徒たちの名前を読み上げていましたね。職員室で、花束を抱えたまま堪え切れない涙をぽろぽろと流していたのを思い出しました。初めて生徒を送り出して、ほっとしたのと寂しいのと、半分ずつといった感じだったのではないでしょうか。 「何より気持ちが大切、ということがわかりましたか?」  はい、と呟いて目元を拭い、私に向き直りました。 「そう、ですね……き……いえ、その人はそのとき僕にとって一番必要なものをくれました。チョコレートもですが、きっと……僕のことを本当によく考えてくれていたんだと思います。困っているときも同じようにいつも助けてくれて、そのときだけじゃなくて、これまでもずっと……」  最後の方はまるで独り言のようでしたが、私にはしっかりとその気持ちが届きました。 「お相手の方はずいぶんと情熱的な方なのですね。そのような方に想われるなんて、姫井先生は幸せですね」 「想われ……」 「違うのですか?」 「ええと、その……」  おや?視線がうろうろと泳いで、何か言おうとしてはやめて、頬が桜色に染まったかと思えばしおしおとして―― 「お二人はお付き合いを始めたばかりなのでしょうか?それとも、まだお付き合いをされてはいない?……ああ、すみません。どうか気落ちしないでください」  見るからに肩を落とす姫井先生に、これはどういうことかと不安になります。 「いえ、すみません……お付き合い、しているのかどうか。本当につい最近のことなんです。お互いに忙しくて、なかなか話す機会もなくて……」 「それは少し寂しいことですね。でも、時間を作って会わなければなりませんよ。そして素直にその気持ちを伝えてください。私が思うに、お相手の方もきっと同じように焦れったく思っているはずです」  姫井先生がこれほどまでに心を寄せている方なのですから、とは言わないでおきましょうね。また目を白黒とさせてしまいそうですから。 無責任かもしれませんが、私にはほんの小さな行き違いというだけに見えます。お二人の場合であれば、会って少し話せば一瞬で解決することでしょう。ええ、こう見えて私はなかなか鋭いのですよ。養護教諭の喜志(きし)先生には、よく「タヌキというお名前がぴったりですね」なんて苦々しく言われるくらいです。 「ホワイトデーは良いチャンスですよ。ここは男らしく、約束を取り付けてデートをしてみてはいかがでしょう」 「男らしく」  そうです。姫ちゃんとは可愛いニックネームですが、姫井先生も立派な男性なのです。拳をぐっと握りしめて、決意を固めるように神妙な顔で見つめる姿は男らしい以外に何と表現できましょうか。 「ありがとうございます、田貫教頭。僕、がんばってみます」 「ええ、その調子です。それに、姫井先生には笑顔が一番ですよ」  私がそう言うと、少し照れくさそうにふわりと笑いました。先ほどの男らしいという言葉を撤回したくなるほど愛らしい笑顔ではありましたが、そこはぐっと堪えなければなりませんね。 「肝心なことを忘れていました。プレゼントの話ですよね」 「そうですね……」 「お相手の方が好きなもので、すぐに思いつくものはありますか?」 「ええと……コーヒー、とか……」 「ふむふむ。カフェオレにされていますか?甘い物は食べるでしょうか?」 「いえ、ブラックです。甘い物は食べていないような……」 「ほう、ブラックですか。なかなかクールな方なのですねぇ……」  ああでもないこうでもないと、額を突き合わせて話し合いました。先ほどの会議よりもよほど真剣だったというのは、内緒の話です。  ※  あれから三日が経ちました。ホワイトデーは意外とすぐ近くにやってきていたのです。私もうっかりしていたので、慌ててプレゼントを買いましたよ。注文されていた25年もののスコッチ。それほど高いものではないですが、水を一滴加えると芳醇な香りが広がって、なんとも言えない幸福感に浸ることができるのです。舌触りも滑らか、余韻はシェリー樽の香りに――――  話が逸れるのは年のせいでしょうかね。ご愛嬌と思ってお付き合いください。  綿密に相談はしたものの、姫井先生が最終的に何を選んだのかは聞いていません。私もそこまで野暮ではないですからね。授業も終わりましたし、姫井先生がお得意のおてんばを発揮しなければ、夜には無事にデートに漕ぎ着けることができるでしょう。 「おや?」  噂をすれば、姫井先生が一階の渡り廊下の反対側からやってきました。そうそう、私は年齢の割に視力も良いのが自慢の一つです。ここ、二階の廊下からでもその姿がよく見えます。 「……」  思いもよらず、私は言葉を失ってしまいました。長く厳しい冬を越え、暖かな陽の光を浴びる瞬間を待ちわびて、溢れそうになる期待にふっくらと膨らんだ桜の蕾が、今まさに、ほころんだ――そんな瞬間を目の当たりにしたのです。満開とはいきませんが、花びらは緩やかに開き、小ぶりで可憐な表情を見せています。 「これは、これは……」  小さく花開いた笑顔の前には、すらりとした白衣の姿がありました。私の方からはその大きな背中しか見ることができませんが、ええ、きっと姫井先生と同じように――彼の場合はもっと大ぶりな、大輪の薔薇のように華やかで香り立つ笑顔を見せていることでしょう。  なるほど、と私は納得いたしました。喜志先生と姫井先生――もとい、騎士(ナイト)君と姫ちゃんの出会いのエピソードは、皆さんご存知のことでしょう。いやはや、我ながら粋なニックネームつけたものです。今思えば、なかなかに手厳しい騎士君も、姫ちゃんにはいつも穏やかで優しい視線を向けていたような気もします。  はて、そうは言ってもつい最近までは「保護者」と「被保護者」いった風でしたが……転機は卒業式の頃、ということでしょうか。ふふ、これ以上の詮索は無粋というものですね。あまり面白がってしまうと、騎士君に「このタヌキ親父」なんて言われてギロリと睨まれてしまいますから。  幸せな二輪の花は寄り添って、夕陽を浴びてきらきらと輝きながら去って行きました。視界の奥には我が学園自慢の、大きな桜の木が枝を広げて立っています。その指先はほんのりと赤く色づいていることでしょう。 「春が来ているのですねぇ」  季節の移ろいが早く感じてしまうのも、重ねた年月のせいでしょうか。あまりにも目まぐるしく時が過ぎていくというのに、自分だけは変わらないと思ってしまう。だからなんとなく取り残されたような気がして寂しくなったりもするものです。特にあのお二人のように、今がまさに輝く時という姿を見てしまうと――  まあ、今もそれなりに楽しく生きていますから、良いとしましょう。この季節はきっと、あの人も同じような寂寥感に浸っているのではないでしょうか……  おっと、これはいけません、大切なことを忘れてしまうところでした。最近物忘れが激しくなっているようで、嫌になりますね。きっとあの人は不機嫌な顔で私のことを今か今かと待ち構えているでしょう。お気に入りのスコッチを持って、早く行ってあげるとしましょうか。  理事長室にいる、彼のもとへ。

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