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歩み寄り 3
食器同士が当たる音と、パソコンのキーを打つ音だけが響く。
「……」
「……」
俺はひたすら無心でご飯を食べていた。
傍には若頭がいて、パソコンを使って仕事をしている。
あれからさらに1週間が経った。
大出血をしていた肩はさぞかし悲惨になっているだろうと思いきや、思ったより酷くはなかった。既に新しい肉が再生していて、少し凸凹している程度になった。
こめかみの傷はほぼ完治した。
あれから俺の体に新しい傷はひとつも付いていない。
この1週間、若頭は俺に手を上げていなかった。
最初は同じ部屋にいるだけで呼吸も困難になってしまっていた。しかし、こちらへ近づこうともせず少し離れた場所で黙々とパソコンに向き合ってる姿を毎日見るうちに、少し、慣れた…気がする。
俺のご飯を運んでくるのは若頭で、目の前にまで来られると体が震えてしまう。しかし、それを見ても若頭が気分を悪くして暴力を振るうことは無かった。
「…」
コップの水を飲み干して、食事を終わらせる。
ちらりと若頭の方を見れば、食事が終わった俺に気づいて腰を上げた。
「…全部食ったな」
「ぁ…はぃ、」
近づいてきて、一言。
そのまま食器を持ち上げてドアの向こうへ行ってしまった。
残された俺は、ドアの方を見つめて動けずにいた。
久しぶりに話しかけられて、驚いてしまった。心臓がまだドクドク鳴っている。ちゃんとした返事が出来なかったのに、怒らなかった。
1週間前の会話を反芻する。
あの日から若頭がなんとなく変わった気がする。
痛いのは辛いと、そう言ったのを覚えていてくれたのか。
確かにあの時、若頭は頷いた。
1日に何回か、会話をする程度。
それにほとんどまともに返せていない。でも若頭は、それでいいと言わんばかりの態度を取る。
戻ってきた若頭は、また俺から少し離れたソファに座り、パソコンを開いた。
そしてまた、キーボードを打つ音だけが部屋に響く。
沈黙に耐えられなくなる頃、携帯のバイブ音が響いた。
若頭は、画面を見て舌打ちをしながら電話に出る。
「チッ…何だ」
少し苛立ったような口調に、ドクリと心臓が跳ねる。
大丈夫、俺に向けられたものじゃない、大丈夫…。
そう自分に言い聞かせる。
電話口の向こうはなにか焦っているようだった。
しきりにすいませんすいません、と小さく声が聞こえてくる。
「あ?…ふざけてんのかお前」
若頭の癇に障ったのだろう、ドスの効いた低い声で相手を詰り始めた。
その氷のような声が、自分に向けられたものでは無いと分かっていても込み上げる恐怖心を抑えられなかった。
震える両手で布団を強く握って気持ちを落ち着かせようとしても、呼吸はだんだん荒くなる。
「…は、…っ、」
爪が手のひらにくい込んで血が滲む。
額から落ちた冷や汗がシーツに染みを作った。
大丈夫、俺に向けられた言葉じゃない。殴られないから大丈夫、大丈夫…
……怖い、
「〜〜…、チッ…後でかけ直す」
どのくらい経ったのだろうか。若頭が徐に電話を切った。
若頭の表情はどうなっているのか、もう怒ってないのか、怖くて顔をあげられない。
その時、静かにこちらへ歩み寄るスーツの脚が見えた。
視界の端から、少しずつ距離を近づけてくる。
「…おい」
「っ、…はっ、〜っ」
早く返事をしないと、じゃないと本当に怒られてしまう。
そう思えば思うほど息が苦しくなって、余計に声が出なくなる。
「落ち着け」
ベッドの脇に片膝を立てた若頭は、ゆっくりと手を伸ばして俺の拳を包んだ。
「…っ!」
大きく肩が跳ねたけど、それを気にすることなく手の甲を摩っている。
「血が滲んでいる。…力を抜け」
その言葉にはっとして手元に焦点を合わせると、先程よりも傷口は深く抉れていた。血がシーツに溢れている。
慌てて布団を離そうとしたけれど、緊張で力を抜くことが出来ない。それに焦って、さらに呼吸が荒くなった。
力を抜かない俺を見兼ねてか、若頭が丁寧に指を剥がしていった。
「…っ、」
傷口から爪が抜けてから、ようやく痛みが回ってくる。
両手全てを布団から剥がした若頭は、そのまま指先に小さく触れると宥めるように呟いた。
「あれは…お前に言った言葉じゃない。…大丈夫だから」
控えめに触れられた指先から、若頭の体温が伝わる。
最初は怖かったその手も時間が経つ事に慣れ、呼吸もだんだん落ち着いてきた。
「…梓を呼ぶ」
俺の状態が元に戻ったのを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。そのままドアに手をかけると部屋から出ていった。
…近くにいても、呼吸戻せるようになった。
手のひらの痛みで意識が覚醒してくる。
最初は怖かったけど、触れられても大丈夫だった。
…少しはマシになったのかな
夏目さんが来るまで、俺はぼうっと手のひらを見つめていた。
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